第29話:【網膜の裏のシンデレラ】
健矢は意識を失いかけている結愛を横抱きにし、近くにあった無人の自動物流休憩所(無人トラックの待機所)の軒下へと滑り込んだ。外の冷たい海風を遮り、彼女をコンクリートの床に寝かせる。純白のPINARELLI F50をその横に立てかけ、健矢はジャージのポケットから補給用の高濃度クエン酸ジェルを取り出した。
「おい、これを少しずつ飲み込め。無理すんなよ」
結愛のひび割れた唇にジェルの吸い口を当て、慎重に流し込む。強烈な酸味と糖分が収縮した胃壁を刺激したのか、結愛は「う……っ……」とかすかな声を上げて拒絶するように頭を振ったが、喉は本能的にそれを嚥下した。
『マスター、応急処置を継続しつつ、彼女の網膜に残存するキャッシュログへのバックドア電子的介入を完了しました。――シリコンバレーの動画編集チームにもデータを共有します』
西陣からシオンの冷徹な声が響くと同時に健矢の網膜VRへ、結愛の脳が見ていた「世界の裏側」が濁流のように流れ込んできた。
それは、色彩だけが過剰に眩しいディストピアの縮図だった。
地下級のVRアイドル『ユア』
それが彼女の家畜としての名前だった。
スマートシティの底で、ファンの脳内報酬系を1ミリグラム単位で最適化するためだけに、彼女は24時間365日.........終わらない仮想空間のステージで踊らされ続けていた。
網膜に映る万雷の拍手と、天井から降ってくる無機質な電子の紙吹雪。
しかし現実の肉体は、堺の居住ドームのカプセルの中で生体ジェルに浸かり、配管から栄養を流し込まれながら.......ただ朽ちていくだけのシステムの一部。
『……おいおい、これだから管理都市のエンタメってのは安直で反吐が出るぜ』
網膜通信に割り込んできたのは、イタリアで健矢の心拍リミッターを解除したシリコンバレーのDJチームのエンジニア陣だった。
『生身の人間をただの「感情生成機」として使い潰す。効率的だが、反吐が出るほど退屈なクリエイティブだ』
「効率的、ねえ……」
健矢は結愛の細すぎる手足、血の気の引いた指先を見つめながら.......静かに、しかし深く憤っていた。
「もったいない使い方ぁしてやがる。せっかく生身の身体を持って生まれてきたってのに、こんな冷てえコンクリの上に放り出されるまで搾り取んのが、あいつらの言う最適化かよ」
「あ……う……」
糖分が脳に回ったのか、結愛の長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
焦点の定まらない虚ろな瞳が、最初に捉えたのは、休憩所の天井の錆びたボルト。そして次に、自分のすぐ目の前に跪く、泥と汗の匂いを微かにまとった「男」の姿だった。
カプセルの中の無菌室のような世界には存在しない、強烈な生の気配。日焼けした肌、浮き出た前腕の血管、そしてその奥に立つ.....圧倒的な威容を誇る純白のロードバイク。
「あ、なた……は……」
結愛の身体が恐怖でガタガタと震え出した。彼女の脳の網膜ログが、目の前の男の顔を照合し、警告アラートを鳴らす。
『KENYA──イタリア1,200kmブルベを心拍数150オーバーで走破した、西陣の狂犬』
データの海で見た、世界を熱狂させたあの本物の「狂犬」が、今、まさに目の前にいる。現実の海風の冷たさと、男の圧倒的な生体エネルギーの質量に押し潰されそうになりながら........結愛はただ怯えた人形のように身を縮めることしかできなかった。




