閑話②:【Vibration~とある一般人(配信視聴者)の変化~02】
神戸近郊ドーム型スマートシティ、六甲ベースメント区画。
完全に気密された地下カプセルのベッドの上で、その視聴者は網膜に投射される淡い光の海に溺れていた。
外の空気がどれほど汚染されていようがここでは関係がない。
都市管理AIが計算し尽くした最適なバイタル管理により、心拍数は常に『一二〇』の上限以下に抑えられている。感情の乱高下は非効率であり、命を縮める悪徳だ。
穏やかな幸福感だけを脳に流し込まれ、システムに従って機械的寿命を全うする――それがこの時代における、最も賢く、最も安全な「一般人」の生き方だった。
彼女もまた、その飼育箱のような日常に疑問を持っていなかった。堺市に住む、目を離すとたまに無茶をしでかす学生時代によく世話を焼いてくれた少女のように、外の世界へ無謀な憧れを抱くような若さも.....とっくに摩耗している。
日々の彩りといえば、アニメやゲームの最適化されたコンテンツを消化することくらいだったが、それすらも最近はどこか義務的で、ただ流れてくるショート動画のフィードを無感情にスクロールするだけの毎日だった。
そんな退屈の泥濘の中で、その画面は突如として現れた。
『イタリア・1,200km──生体リミッター完全解除配信』
泥まみれの純白のロードバイク。叩きつける豪雨と寒波の中、狂ったような速度でペダルを回し続ける一人の男の主観映像と、ドローンが捉える空撮映像。画面の隅で明滅する心拍数は『一六〇』という、心停止を起こしてもおかしくない異常な数値を刻み続けていた。
「……何これ。プロの機材テスト? それとも上級国民の悪趣味なショウ?」
最初は、よくある過激なフェイク動画だと思った。都市からの保護制限を受けないリアルなスポーツができるのは、特別な免除プロトコルを持つ特権階級だけだ。
心拍制限のことなど気に留める必要すらない雲の上の住人が、莫大な資金を投じてやっているエンターテインメント──そう割り切って、すぐにスクロールするはずだった。
しかし、視線がどうしても画面から離せなかった。
網膜スピーカーから脳へ直接響いてくるのは、合成音声の綺麗なナレーションではない。フレームに衝突する雨の爆音、泥を噛んだチェーンの悲鳴、そして何より、男の肺が千切れんばかりに吐き出す「生きている人間の呼吸音」だった。
荒く、汚く、しかしどこまでも力強いそのテンポが、カプセル内の静寂を暴力的に引き裂いていく。
『──クロ氏が待つ西陣へ、全速力で帰還しなさい』
冷徹なナビゲーターの声に呼応するように、男の踏み込みがさらに狂気を帯びて加速する。変速不良を起こしているはずの駆動系が、男の生身の執念とケイデンスだけで無理やり駆動し、青い光のラインを描きながら夜霧の山岳地帯を切り裂いていく。
ドクン、と胸の奥で何かが跳ねた。
カプセルのバイタルセンサーが即座に反応し、視界の端に黄色い警告灯が灯る。
『警告:心拍数の急上昇を感知。深呼吸を行ってください』
だが、そんな警告は目に入らなかった。脳に直接送り込まれるどんな人工的な快楽物質よりも、男の泥臭いラストスプリントは、圧倒的な「バイブレーション(振動)」となって視聴者の魂を激しく揺さぶっていた。
安全なカプセルの中で、百歳まで保証された平穏を貪る自分たち。
泥水をすすり、心臓を爆発させそうになりながら、ただ「約束の場所へ帰る」という掟のためだけに命を燃やすあの男。
どちらが本当に「生きている」と言えるのか。
制限時間ギリギリで男がフィニッシュラインを割った瞬間、世界中のドネーションが画面を埋め尽くした。視聴者もまた、湧き上がる衝動に突き動かされるように、手元の電子クレジットをすべてその「狂犬」へと投げ打っていた。握りしめた拳が、うっすらと汗ばんでいる。
配信が終了し、静寂が戻ったカプセルの中で、視聴者はしばらく動けずにいた。
心拍数は一二〇の限界スレスレで激しく脈打っている。AIが提示するリラクゼーション・モードを拒絶し、網膜に映るいつもの退屈なショート動画のフィードを見つめた。
もう、元には戻れない。あの一瞬のバイブレーションが、従順な家畜の脳内に、決して消えない「生への渇き」という致命的なバグを植え付けてしまっていた。




