閑話①:【Vibration~とある一般人(配信視聴者)の変化~01】
北米第4ドーム型スマートシティ、区画E─732。
外気温が華氏百五度を超えていることなど、体感温度調整機能付きの『VRカプセル』に横たわるレオにとっては関係のないことだった。
カプセルの生体ジェルは常に体圧を分散し、排泄物は自動ノズルが秒単位で処理する。網膜VRには、脳の報酬系を絶妙に刺激する「義務的幸福フレーバー」の3D映像が流れ続け、耳元では適度にパーソナライズされたAIアシスタントが甘い声で囁いている。
都市管理AIが保証する、心拍数一二〇の上限管理。感情の起伏を最小限に抑え、心臓に負荷をかけないことと引き換えに、レオは百歳を超えるまでの「機械的寿命」を完全に担保されていた。
「……ま、こんなもんだよな」
レオは口の中で完全栄養ペーストを咀嚼しながら、網膜の前に浮かぶショート動画のフィードを、視線入力だけでだらだらとスクロールしていた。
数秒ごとに切り替わる、美少女アバターのダンス、合成音声が早口で解説するライフハック、すべてが記号化された無害なおすすめ動画。どれも面白いが、どれもカプセルを出た後に記憶に残るようなものではなかった。
ただ、退屈を薄めるためだけの記号。それで十分だったし、それ以上のものを求めるのは心拍数の無駄遣いだと教えられてきた。
その指先ならぬ「視線」が、あるサムネイルの前でふと止まった。
『イタリア・1,200kmの煉獄』
暗い夜霧と、叩きつけるような激しい豪雨。その悪条件の中を、純白の二輪機材にしがみつくようにして進む「生身の男」の姿が映し出されていた。画面の片隅には、ド派手なネオンエフェクトと共に『心拍数:152』というイカれた数字が明滅している。
「は……? スポーツジャンルか」
レオは鼻で笑った。
カプセルに引きこもる一般市民にとって、リアルタイムで身体を動かすようなコンテンツの配信者は、すべて特別な医療特権か心拍制限免除のプロトコルを持つ「上級国民(VIP)」か何かに決まっていた。
どうせこれも、シリコンバレーかどこかの大富豪が、莫大な予算と最新のサイボーグ医療技術を注ぎ込んでやっている悪趣味なエンターテインメントだろう。心拍数一五〇なんて数字も、視聴者を釣るためのただのシステム上の演出に違いない。
そう思いながらも、レオは気まぐれにその配信を全画面表示にした。次の動画へスクロールするまでの、ほんの数秒の暇つぶしのつもりだった。
だが、その瞬間。
レオの網膜から、脳髄の奥深くへ向けて、言葉にならないほどの凄まじい「振動」が突き抜けた。
「……っ!?」
音響システムから響いてくるのは、綺麗にイコライジングされた電子音ではない。
豪雨がナイフのようにフレームを叩く音。泥水が金属の歯車に噛み込んであげる、痛々しい悲鳴。そして何より――
画面の向こうの男が放つ、「ハッ、フゥー、ハッ、フゥー……!」という、獣のようでありながら生々しい人間の、肺を千切りながら絞り出すような呼吸音だった。
上級国民の優雅な道楽? 完璧に管理されたショー?
違う。画面に映し出されているのは、そんな綺麗な代物では断じてなかった。
泥まみれになり、ライトの光すら吸い込まれる闇の中で、男の顔は苦痛と狂気で醜く歪んでいた。ペダルを踏み下ろすたびに、男の大腿部の筋肉が痙攣し、限界を超えた心臓が胸板を内側から激しく叩いているのが、データ越しに伝わってくる。
それは、レオたちがとっくの昔にカプセルの底へ投げ捨ててきた、「生きている人間の泥臭い執念」そのものだった。
『現在の出力低下は純粋なあなたの怠慢です』
配信に割り込む、冷徹なAIの音声。それに呼応するように、男が剥き出しの歯を獰猛に釣り上げ、壊れかけの機材を狂ったように加速させていく。青い光のラインをトレースしながら、泥水を跳ね上げて夜霧の向こうへと消えていくその背中を、カメラドローンが必死に追っていた。
ドクン。
レオの胸の奥で、久しく忘れていた重い鼓動が跳ねた。
カプセルの警告アラートが、網膜の端でひっそりと黄色く点滅する。
『警告:心拍数が95を検出。リラクゼーション・モードを推奨します』
だが、レオはアラートを消去する指示すら忘れて、画面に釘付けになっていた。
脳内に注ぎ込まれる安価な幸福物質に飽き飽きしていたはずの体中に、冷たい電流が走る。
世界がどれだけデータ化されようが、家畜のように管理されようが、あの男は今、生身で地球の地殻を削りながら.....自分の命そのものを燃やして走っている。その流れる本物の汗。引きち切れそうな筋肉の動き。これらはレオの脳内に構築された偽物の天国を『木端微塵に』破壊していく。
「すごい……なんだよ、これ……」
レオの口から、完全栄養ペースト以外の本物の「言葉」が漏れ出た。
画面のコメント欄は、世界中のドームから集まった狂信的な視聴者たちのドネーションと歓声で信じられない速度で流れていく。レオもまた、震える手で(カプセル内のモーションキャプチャを通じて)、自分が持っているわずかな電子クレジットを、その「狂犬」に向けて投げ銭としてタップし続けていた。
イタリアの一、二〇〇キロメートルにおよぶ煉獄。
そのスプリントの果てに男が制限時間ギリギリでゴールを駆け抜けた瞬間、レオはカプセルのジェルベッドの上で...『無意識に』拳を強く握りしめていた。
心拍数は一〇五。都市管理AIが設定した「安全な家畜」の領域の限界ギリギリだ。
しかし、レオの顔には、この数年間で一度も見せたことのない、生々しい人間の笑みが浮かんでいた。
配信が終了し、網膜がいつもの静かなカプセルの風景に戻っても、胸の奥に残ったあの激しい振動は、どうしても消えてくれなかった。
ブルベで極限走行中の健矢を
この世界の一般人という客観的視点からお届けしてみました!
明日は日本からの視点をお送りします!乞うご期待!




