第26話:【おかえり、狂犬マスター】
すべての熱狂が去ったあと、健矢は再び、人間をただのモノとして運ぶ自動物流コンテナの冷たい床へと滑り込んでいた。
意識はフィニッシュラインを越えた瞬間に途切れており、どのような手際でPINARELLI F50を『いつもの』の輪行袋に詰め、再び貨物エリアへ潜り込んだのかすら覚えていない。日本へ向かう無人貨物機の底で、健矢はただ死んだように眠り続けた。
揺れも、気圧の変化も、凍えるような低温も、限界を迎えた肉体にとっては心地よい麻薬のようだった。
関西国際空港の僻地にある自動仕分け倉庫のシャッターが上がったとき、ようやく健矢は目を覚ました。
全身のあらゆる関節がきしみ、大腿四頭筋は動かすたびに針で刺されたような激痛が走る。
ボロボロの体を引きずり、行政の目を盗みながら京都行きの無人輸送カプセルに便乗し、這う失意の這う這うの体で西陣の地へとたどり着いた。
見慣れた古い町並み。ガルバニウム鋼板の自動輸送カプセルが走る無機質な通りに、ポツンと佇むブックカフェ『アルカディア』。
健矢は肩に食い込む輪行袋を呪いながら、重い足取りで格子の引き戸に手をかけた。
ガラガラ……と、乾いた音が静かな店内に響く。
「……帰ったぞ」
掠れた声で呟きながら店内に足を踏み入ると、そこには完璧な秩序が保たれたいつもの空間があった。埃一つ落ちていないカウンター、元の位置に整然と並べられたリネンのエプロン。そして――。
「にゃーん」
健矢の足音を聞きつけるなり、カウンターの陰から勢いよく飛び出してきた影があった。黒白のタキシード模様――留守番を完璧にこなしていた相棒、看板猫のクロだった。
クロは健矢のボロボロのトレッキングシューズに勢いよく体を擦り付け、小さな頭を何度も押し付けてくる。
「クロ……悪かったな、待たせて。無事に帰ってきたぞ」
健矢は床に膝をつき、強烈な筋肉の悲鳴を無視してクロを両腕で抱きしめた。温かい毛並みと、ゴロゴロと鳴る力強い喉の振動。それだけで、イタリアの一,二〇〇キロメートルにおよぶ煉獄の苦痛がすべて洗い流されていくような気がした。
「おかえりなさいませ、マスター。予定されていた二四〇時間のタイムリミットに対し、残り三分四十二秒でのご帰還です。実にスリリングな旅でしたね」
カウンターの奥から懃懃無礼な声が響いた。黄ばんだモニターの横に設置された視覚センサーが健矢の姿を捉えて静かに明滅している。完璧に留守を守り抜いた個人管理AI、シオンだった。
「シオン、お前のおかげでマジ助かったわ。あのナビがなきゃ、今頃イタリアの溝で野垂れ死んでた」
「当然の業務です。私の存在意義は、マスターを西陣のこの店に縛り付け、掟を全うさせることにありますから。……ですが、マスター。感動の再会のところ大変恐縮なのですが、一点だけ、私にはどうしても理解しかねるバグ……いえ、現象が発生しております」
シオンのトーンが、わずかに低くなった。視覚センサーの明滅が、どこか訝しげな周期に変わる。
健矢はクロを腕に抱いたまま、怪訝そうに眉をひそめた。
「現象? なんだよ。また都市管理AIに位置情報でもバレたか?」
「いえ、当局のサーバーは完全に欺いたままです。問題は、マスターがカスタマイズを要求された、あの『紙の通帳』を模した資産管理画面のデータです。――こちらをご覧ください」
シオンが卓上のPC画面に、健矢お気に入りの「黄ばんだ通帳」のグラフィックを映し出した。パタパタと小気味よい音を立ててページがめくられ、最新の印字行が表示される。
そこには、見たこともない桁数の数字が整然と並んでいた。
「……は?」
「あなたが自動コンテナの床で死んだように眠りながらユーラシア大陸を横断している間、あなたの隠し口座に『YouTubeおよびサイバー空間でのグローバルライブ配信収益』として、数千万円規模の謎のクレジットが着金し続けています。現在もなお、一分ごとに数十万単位で数字が跳ね上がっています」
健矢は呆然と画面を見つめた。
世界が完全なVR化へと舵を切り、人間がカプセルの中でデータを受け取るだけの家畜になった時代。生身で地球の地殻を削り、豪雨と泥にまみれて心拍数を限界まで跳ね上げながら走る山崎健矢という男の生体データは..........。
退屈しきった全世界の富裕層やシリコンバレーのVIPたちにとって、どんな電子麻薬よりも刺激的な「本物の人間性の証明」だったのだ。
「シリコンバレーのあのDJが仕掛けたドネーションシステムと、配信の広告アルゴリズムが完全にバグを起こしたかのように機能しています。結果として、マスターは自分が知らないうちに、世界レベルのVIP……いわゆる『上級国民』に匹敵する資産家になってしまわれました」
シオンは画面の数字をチカチカと明滅させながら、至極冷静に、しかしどこか楽しげに告げた。
「マスター。この、電子のゴミ山から降ってきた天文学的な額のクレジットですが……これも以前のように、お店の地下の金庫に埋めて隠しますか? それとも、何か別の面白い使い道を模索されますか?」
帰国直後、ボロボロの体で愛猫を抱きしめる健矢に突きつけられたのは、あまりにも非現実的で、しかし絶対的な「生身の勝利」の対価だった。
無いと困るのもお金ではありますが、
あり過ぎても使う才能がないと困るのがお金。
貧乏時代とは別の苦悩に身を焼かれ続ける健矢を見ると、
「お金って何だろう」などと
哲学的な問いを始めずにはいられませんね(笑)




