第25話:【240時間の砂時計、最後の直線(ラストスプリント)】
空が割れたかのような局地的な豪雨が、イタリアの荒涼とした大地を叩きつけていた。
急激な寒波が追い打ちをかけ、容赦なく生身の体温を奪っていく。
「ガチ、ガチ、ガチ……!」
健矢の歯の根が激しく震えた。不眠不休のダメージで健矢の肉体はとっくに崩壊寸前で、心拍制限が解除されているとはいえ、生身の心臓は限界を超えて悲鳴を上げ続けている。タイムリミットは二十四時間を切り、残された距離はあと百五十キロメートル。ゴールは目前であるはずなのに、その距離が永遠のように遠く感じられた。
追い打ちをかけるように、最悪の事態が純白のPINARELLI F50を襲う。
前走者たちが巻き上げた泥と、豪雨が作り出した激しい泥流が、精密なドライブトレインに容赦なく詰まっていた。
ガリッ、と嫌な金属音が足元から響く。
「クソッ……! リヤの変速が上がらねえ……!」
電動コンポーネントが泥詰まりによって異常を検知し、変速がまともに機能しなくなっていた。無理にトルクをかければ、チェーンが千切れるか、ディレイラーがハンガーごと吹き飛ぶ。この極限状態での機材トラブルは、即座に「リタイア」の二文字を意味していた。
健矢の心が絶望に染まりかけたその瞬間だった。網膜VRの視界に、かつてないほど複雑な幾何学模様のグラフがダイレクトに投影された。
『マスター、想定の範囲内です。変速不良を起こしたチェーンとスプロケットの噛み合わせを完全にシミュレートしました。これより、駆動系を労りつつ、現在のギヤ比で最大効率を叩き出す「変則ケイデンス・プロファイル」を脳内に直接同期します』
冷徹で、しかし絶対的な信頼を湛えたシオンの声。
健矢の網膜上で、青い光の波形がメトロノームのように一定の周期で脈打ち始める。それは、機材へのダメージを最小限に抑えながら、残された健矢のわずかな筋力を限界まで引き出すための、シオン特製のペダリング・インジケーターだった。
『私の刻むリズムに、あなたの神経をすべて預けなさい。――クロ氏のために一〇日以内に帰るという「掟」を、こんな泥水の中で破るつもりですか?』
「ハッ……誰に向かって言ってやがる……!」
健矢は泥水と汗が混じった顔を歪め、深く息を吐き出した。
シオンの刻む光のリズムに合わせて、狂ったようにペダルを踏み込む。
変速が使えないなら、自分の脚の回転数だけで速度をコントロールするまでだ。ギヤが固定されたかのような過酷な状況下で、大腿の筋肉が千切れかけるほどの高回転を維持し続ける。
その泥まみれで理性をかなぐり捨てた生身の執念は、網膜VRの向こう側にいる存在を動かしていた。
シリコンバレーの天才DJが仕掛けた悪趣味なライブ配信。そこに映し出される.....システムをハッキングして限界を突破した一人の男の走りに、画面の向こうの視聴者たちが息を呑んだ。
脳内に注ぎ込まれる安価な幸福物質に飽き飽きしていた全世界の狂信的な視聴者、そして冷笑的だったシリコンバレーのVIPたちが、未だかつてない熱狂の渦に包まれていく。サイバー空間のコメント欄が、見たこともない速度で跳ね上がっていく。
「うおおおおおおおッ!!」
健矢は獣のような咆哮を上げ、最後の直線へと突入した。
視界の端で明滅する制限時間の砂時計が、残りわずか数分を示している。心拍数は一六〇を超え、生身の心臓が爆発しそうなほどの衝撃を胸の内に刻んでいた。だが、シオンのナビゲーションは一瞬のブレもなく、健矢のペダリングをゴールへと導き続ける。
そして――。
泥水と激痛の果てに、健矢は制限時間ギリギリで一,二〇〇キロメートルのフィニッシュラインを駆け抜けた。
その瞬間、世界中の配信画面が狂ったような歓声とスタンプで埋め尽くされ、ディトピアの退屈な夜が、一人の狂犬サイクリストの生身の証明によって完全に燃え上がった。




