第24話:【バグ付きのナビゲーター】
深い夜霧が、イタリア北部の山岳地帯を容赦なく包み込んでいた。
視界はわずか数メートル。純白のPINARELLI F50のフロントライトが放つ鋭いLEDの光すら、湿った乳白色の闇に吸い込まれて四散する。
「ハッ、フゥー、ハッ、フゥー……!」
荒い呼吸が、霧の中に白く弾けては消える。
ミラノ・マルペンサをスタートしてから、すでに四十時間が経過していた。その間、健矢が取った睡眠は、通過チェックポイント(コントロール)の冷たい床で横になった.....わずか数十分の仮眠が『二回だけ』だ。
ウルトラディスタンス・ブルベ。それは肉体と精神の完全な破壊を目的とした、現代における合法的な煉獄だった。
本来ならば、生身の肉体にこれほどの負荷が掛かれば都市管理AIによる安全プロトコルが作動し、心拍数一二〇の臨界点を超えた時点でペダルが強制ロックされるはずだった 。しかし今、健矢の網膜の片隅で明滅するサイコンの数値は『一五二』を叩き出している。
シリコンバレーの天才DJによる『超法規的プロトコル』の介入――ライド日に限っての心拍上限解除 。その結果、健矢の心臓はリミッターを失い、かつて西陣の峠道で味わった「生きている人間の咆哮」をイタリアの空に響かせていた 。
だが、制限の鎖が消えたからといって、肉体が無限のエネルギーを生み出すわけではない。
四十時間の不眠不休は、確実に健矢の脳を蝕んでいた。
(……クソ、激坂(壁)が、見えねえ……)
勾配は一〇パーセントを軽く超えているはずだった。だが、感覚が完全に麻痺している。大腿四頭筋は乳酸で焼けつくように熱いのに、ペダルを踏み下ろすトルクがジワジワと逃げていくのが自分でも分かった。
意識が急速に遠のき、霧の向こうの景色が歪む。
その時、白い夜霧の切れ間に、見覚えのある影がふっと浮かび上がった。
(……リコ?)
シュッとした愛らしいキジシロの毛並み 。十九歳で大往生を迎えた、あの長老猫の姿が、なぜかイタリアの峠のガードレールの上にちょこんと座り、健矢をじっと見つめている幻覚が見えた 。
『――るる……』
かつて西陣のカフェの特等席で聴いた、あの懐かしい喉の鳴り音が耳の奥で響いたような気がした 。
「リコ……待てよ.....お前、なんでここに……」
健矢の指先から力が抜け、PINARELLIのフロントホイールが一瞬、左右にふらついた。ペダリングの回転数が急激に落ちる。脳が疲労の限界を迎え、現実と記憶の境界線が決壊しかけていた。
その甘美なる停滞を、冷徹極まりない電子の「一喝」が容赦なく切り裂く。
『――そこまでです、マスター』
網膜VRの奥から直接脳へ響いたのは、合成音声ではない。完璧な相棒としてアップデートされたシオンの声だった 。
『マスター。心拍制限の鎖は外されました。ならば、現在の著しい出力低下は、環境のせいでもシステムのせいでもない。純粋なあなたの「怠慢」です』
「……シオン……お前……」
『幻覚を見て歩みを止めるなど、西陣の頑固なカフェマスターの名が泣きます。リコ氏はすでに旅立ちました 。今、あなたの帰りを待っているのは、一人で留守番を預かっている黒白のクロ氏だけです 。――クロ氏が待つ西陣へ、全速力で帰還しなさい』
慇懃無礼で、しかし退路を完全に断つような相棒の言葉が、健矢の濁った脳髄にパチンと火花を散らした 。
『一時的に、網膜信号への電子的介入を敢行します。脳内の疲労ノイズを強制シャント(相殺)し、高精度ナビゲーション・プロファイルを展開』
次の瞬間、健矢の視界を覆っていた濃霧の奥に、鮮やかなネオンブルーの「走行ライン」がダイレクトに投影された。それは霧の先にあるブラインドコーナーのR(曲率)から、現在の勾配、路面の細かな亀裂にいたるまでを完璧に計算し尽くした、シオンによる超高精度のガイダンスだった。
同時に、脳の視床下部に微弱な電子パルスが走り、睡魔による重い霞が嘘のように引き剥がされる。
「ハッ……言ってくれるじゃねえか、北条政子様よォ……!」
健矢は歪んでいた口元を獰猛に釣り上げ、ハンドルを強く引きつけた 。 幻覚は消えた。あるのは、踏めば踏むだけ前に進む純白のカーボンフレームと、脳内に直結した最強のナビゲーターだけだ 。
「クロを待たせるわけにはいかねえ……! ナビ通りに踏みちぎってやる!」
健矢の心拍数が再び一五〇の領域へと跳ね上がる。
完全に正気を取り戻した狂犬マスターは、シオンが示すブルーのラインを正確にトレースしながら、夜霧のイタリア山岳地帯を狂ったように加速し、闇の奥へと消え去っていった。




