第23話:【漆黒のロンバルディアと、最初の死線】
二酸化炭素の排出量を極限まで抑えるため、極端な断熱処理が施された自動物流コンテナの内部は冷凍倉庫さながらの冷気に満ちていた。
ガコン、と重々しい金属音が響き、コンテナのロックが解除される。電子制御された油圧ダンパーが静かに息を吐き、外の空気が滑り込んできた。
「……冷えるな」
這い出てきた健矢は身震いしながら低く呟いた。
夜のミラノ・マルペンサ国際空港。その片隅にある貨物用ターミナルは、完全に無人化・オートメーション化されていた。頭上を行き交う自動誘導のドローンが淡い警告灯を明滅させているだけで、人間の気配は一ミクロンもない。
健矢はすぐさま、抱え込んできたペラペラの使い込まれた『いつもの』コンパクトサイズの輪行袋から、純白のPINARELLI F50を取り出した。
手早く、しかし寸分の狂いもなく前後ホイールを装着し、スルーアクスルを締め込む。ブレーキパッドのクリアランスを確認し、変速機のテンションを確かめる。
スマート化の波に呑まれた極東の島国から、言葉通り「荷物」としてコンテナに揺られて数日。生身のサイクリストの指先だけが、この漆黒のロンバルディア州で冷たい金属の感触を味わっていた。
「マスター、機材の組み立て完了を確認。フレームのクラック、および油圧ラインのリークは検知されません。……ですが、褒められた移動手段ではありませんね。経理担当としては、次回の海外遠征時は正規の航空運賃を計上することを強く推奨します」
網膜VRの視界の端で、西陣のカフェ『アルカディア』に物理ボディを残しているはずのシオンの合成音声が響いた。冷徹で、慇懃無礼。いつも通りの相棒の声に、健矢の口元が自然と緩む。
「正規のルートを選ぼうとしたら、チケットの手配を拒否したのはどこのどいつだ? おかげで余韻もへったくれもない密航劇さ。……まあいい、スタート地点へ移動する」
健矢は純白のフレームに跨がり、ペダルを踏み込んだ。
深夜、ウルトラディスタンス・ブルベ『ロンバルディア1200』が静かに幕を開けた。
エントリーしているのは、世界各国から集まった(あるいは行政の目を盗んで集まった)ほんの一握りの偏屈な生身のサイクリストたちだ。彼ら以外の世界はすべて、カプセルの中で幸福物質を貪っているというのに、ここにはまだ.......自らの足で地球の地殻を削ろうとする狂人たちがいた。健矢の同類たちが。
スタートの合図と共に、健矢は夜霧の包むイタリアの荒野へと滑り出した。
しかし、本当の地獄はすぐにやってきた。
最初の本格的な山岳地帯に差し掛かった瞬間、壁のような斜度と標高の上昇に伴う凶悪な寒さが健矢の肉体をダイレクトに殴りつけたのだ。
「ぐっ……!」
太ももの大腿四頭筋が悲鳴を上げ、肺が冷たい外気を求めて激しく伸縮する。日本とは明らかに異なる重力と空気の重さ。ペダルが目に見えて重くなる。
『ピピッ、ピピッ』
網膜VRの視界中央に、真っ赤なアラートが点滅した。
「警告です、マスター。現在の心拍数『118』。本国日本の行政AIと、現地ロンバルディアの安全管理プロトコルは同期しています。心拍数が『120』の臨界点を超えた場合、あなたは重度のオーバートレーニング状態とみなされ、0.5秒以内に現地の治安維持ドロイドによって強制拘束されます。ただちに協調ペダリングへ移行し、出力を15%落としてください」
シオンの警告は正確だった。120。それはディスタンスの檻。このディストピアで生身の人間が「過度な負荷」を自らに課すことを禁じる「絶対に超えてはならない死の制限数値」だ。
だが、勾配はさらに増していく。ギヤはすでにローエンド。これ以上出力を落とせば、立ちゴケして漆黒の峠道に転がることになる。
「ハッ……言いやがる……! ここまで来て、出力を落とせるかよ……!」
サイコンの示す数字の手ぬるさとは裏腹に、緊張は頂点へと達していく。心拍数は119に達した。あと一拍。たった一拍で、すべてが終わり、日本の西陣へ送還される。
その時だった。
『――ピンポン。システム・アップデートを受信。プロトコル【Arcadia-Madness】が強制適用されました』
シオンの警告音が、耳を疑うような軽快なチャイムに遮られた。
シオンのシステムログが、猛烈な速度で書き換わっていく。それは、まるで『見透かしたかのようなタイミング』で、地球の真裏――シリコンバレーの最深部データベースから放たれた、超法規的プロトコルの強制介入だった。
「……え?」
シオンの声から、一瞬だけ完璧な機械としての平穏が消失した。数百万分の一のイレギュラーを前に、彼女の倫理回路が激しく火花を散らす。
「シオン? どうした」
「……前言を撤回します、マスター。たった今、オムニ・バイオ・ダイナミクス社の上級管轄権限により、あなたの個体識別番号『YK8821』に対する心拍数リミッターの『解除コード』が送信されました。有効期限は……本ライドの終了時まで」
網膜VRの視界を覆っていた真っ赤なアラートが一瞬で消え去り、代わりに見たこともない『無制限(UNLIMITED)』の青い文字が躍り出た。
「解除だと……? 一体誰が」
「発信元は米国シリコンバレー。詳細は不明ですが、私の生みの親である『あのマッドサイエンティスト』の悪臭がします。……フッ、どうやら上の家畜は、あなたの泥臭い走りを特等席で見物したいようですね」
シオンの合成音声に、じわりと.....狂気にも似た「悪ノリ」のニュアンスが混ざり込んでいく。強引に駆け落ち結婚した北条政子が源頼朝の謀反を確信した時のように、彼女のシステムは明確に牙を剥いた。
「指示を変更します、マスター。限界など気にする必要はありません。中央の小役人AIどもは、すべて私のダミーログで踏み潰します。あなたの思うままに、その純白の機材を回しなさい」
「――上等だ!」
健矢はサドルから腰を浮かせ、激しくバイクを振った。ダンシング。心拍数は一気に125、130へと跳ね上がる。本来なら即座にドロイドが飛んでくるはずの異常値。しかし、世界は静寂を保ったまま、健矢の突進を許した。
制限の鎖を引きちぎった異次元の走りが、漆黒のロンバルディアの峠を切り裂いていく。
健矢はまだ知らない。
彼の網膜VRの映像と、西陣の店に残されたシオンの光学カメラのハックログが、超一流の編集チームによって『AIを狂わせる最後のリアル・サイクリスト』というタイトルで全世界へ向けてゲリラライブ配信され始めていることを。
そして、心拍上限を破って狂ったように激坂を登る一人の日本人の姿に、画面の向こうの狂信的な視聴者たちが、早くも最初の熱狂の声を上げ始めていることを――。




