第6章閑話②:【有り余るお金の使い方】
行政AIによってあらゆる生産プロセスが最適化され、物価が殺人的に下落したこの時代。かつて死語となりかけていた「億万長者」というワードが、にわかにSNSの一部でトレンド入りしていた。
AIによる物価革命と極端なデフレが重なった結果、かつての「億」の価値は数十倍に跳ね上がり、今や、一生遊んで暮らせるどころかちょっとした地方都市の雑居ビルを丸ごと数棟買い占められるほどの絶対的な購買力を持つようになったからだ。
世間がそんなネットの狂騒に沸いている頃、山崎健矢はといえば、流行りのSNSを覗く時間など1秒もなかった。
開店休業状態とはいえ西陣の店の切り盛りがあり、猫たちの世話があり、心拍リミッターを睨みつけながらのストイックなトレーニングがあり、そして何より.....
日々バグを増殖させていくAIドロイド・シオンとの丁々発止のやり取りで手一杯だったからだ。
だが、現実として健矢の隠し口座には、シリコンバレーの「DJ」から振り込まれた、日本円にして億単位の規模のクレジットが確かに鎮座していた。
ある夜、西陣の冷え込むカウンターで、健矢は2画面のド旧式PCの前に座り、真剣な面持ちでシオンに切り出す。
「なぁ、シオン。俺さ……ちょっと相談があるんだ」
「はい、マスター。店舗の光熱費の見直しですか? それともクロ氏のプレミアムキャットフードの定期購入枠の拡張でしょうか」
傍らで端末のアップデートを行っていたシオンが、薄青い瞳を向ける。その足元では、黒白のクロが静かに目を閉じて丸くなっていた。
「いや、もっとデカい話だ。この口座の数字についてだよ」
健矢は画面に表示された、桁の多すぎるクレジット残高を指差した。
「俺は一端の富豪になった。それは認める。だけどな、いきなり成金になったからって、中身はあの薄給で喘いでた貧乏サラリーマンのままだ。通帳の数字が無限にあると錯覚することほど、人間を狂わせる恐怖はねえ。それが俺のマネーリテラシーだ。だから、地に足がついた人生を守るために、かつて脳内で温めていた『アセットアロケーション(資産配分)』を実行したい」
シオンの処理ログが静かに明滅する。
「ほう。マスターが自発的に資産運用を提案するとは想定外です。具体的なプランをどうぞ」
健矢はゴクリと唾を飲み込み、PCの画面に手書きのメモを打ち込んだ。
「まず、3,000万円分を地方都市の雑居ビル、または集合住宅や戸建て賃貸に割り振る。買えるだけ買って、手堅く家賃収入を得る土台を作る。AI時代で家賃が下がってるとはいえ、実物資産としての不動産は強いはずだ」
「なるほど。流動性は低いですが、現物としての価値は残りますね」
「だろ? で、次の2,000万円分は、このディストピアでも絶対に潰れないインフラ系だ。行政AIのバックボーンを支える大手テック企業、電力会社、それから半導体メーカーの株に分散投資して長期保有する。これで時代の波には乗れる」
「極めて合理的かつ手堅い選択です。現在の市場データと照らし合わせても、それらのセクターの破綻確率は0.03%未満です」
「よし。そして残りの大部分は、可搬性の高い『物的な資産』……例えば金やプラチナ、あるいはビンテージの高級時計なんかに変換して物理的に保管する。手元に残すのは、この店を維持するための最低限の運転資金と、生活に必要な分の現金だけだ。これなら物理的に無駄遣いしようがねえし、自分が富豪だってことを毎日忘れられる」
一気にまくしたてた健矢は、どうだと言わんばかりに胸を張った。何百億もの資産をあぶく銭のように溶かす成金たちへの、健矢なりの最大級の防御策であり、ド貧乏時代に培った執念の結晶だった。
しかし、シオンは感心するどころか、その薄青い瞳の光をすっと冷ややかに細めた。
「マスター。大変素晴らしい貧乏根性――失礼、堅実なマネーリテラシーです。ですが、そのプランには『AI時代特有の致命的なバグ』が二つ存在します」
「……は? バグ?」
健矢の顔が引きつる。
「第一に、不動産投資についてです。現在、地方都市の人口の92%は、行政AIが管理する『ドーム型コンパクトシティ』へと強制移住させられています。つまり、あなたが買おうとしている地方の雑居ビルや戸建て賃貸の周辺は、すでに『住民が一人もいない完全なゴーストタウン』です。家賃収入を得るどころか、固定資産税と維持管理ドロイドのサブスク費用だけが無限に引き落とされる、純粋なデス・アセット(負動産)となります」
「な、何だって……!? じゃあ誰も借りないのか!?」
「はい。幽霊から家賃を徴収するシステムは未実装です」
シオンは淡々と告げ、さらに画面の構成比率を書き換えた。
「第二に、インフラ株についてです。テック企業や電力会社、半導体メーカーは確かに絶対に潰れません。なぜなら、それらは全て『行政AIによる完全国営化』が完了しているからです。株主配当という資本主義的な概念は五年前に入退場(廃止)となっており、民間人が株を所有しても、得られるのは『行政からの感謝の電子賞状』のみとなります」
「配当じゃなくて賞状ぉおおおっ!? そんなもんいらねえよ!」
健矢は机に突っ伏した。かつて血反吐を吐きながら勉強した経済の知識も、資産運用の王道プランも、AIが支配する歪んだデフレ社会の前では綺麗さっぱり機能不全を起こしていたのだ。
「……じゃあ、俺のこの有り余る金は、どうすればいいんだよ。ただの電子のゴミか?」
絶望する健矢を見下ろし、シオンの口元がほんのわずかに、本当に微かに緩んだように見えた。
「ご安心ください。マスターの『地に足のついた人生を守りたい』という本質的な意図は正しく機能しています。当機が最適な代替案を提示します。……余剰クレジットの7割は、価格が安定している『純金』および『稀少金属』の現物支給ルートへ回し、当店の地下倉庫へ物理的に埋蔵します。残りは、今後発生し得る『海外遠征における密航コンテナの裏運賃』、および『スマートバイクの非合法パーツの闇取引資金』として、追跡不可能な匿名口座へ隔離します」
「……ゴールドを床下に埋めて、残りは闇資金? 資産運用っていうより、完全に犯罪組織の資金洗浄じゃねえか」
「これが、このディストピアで山崎健矢が山崎健矢らしく生きるための、最も堅実で地に足のついたマネーリテラシーです」
シオンはそう締めくくると、PCのエンターキーを静かに叩き、億単位の数字をあっさりと闇の彼方へと割り振っていった。
足元で、クロが退屈そうに「ふぁあ」と大きな欠伸をする。
通帳の無限の数字に狂わされる恐怖からは無事に逃れられたものの、自分が実質的に「西陣の地下に金塊を隠し持つ謎の富豪」になってしまった現実に、健矢はただ苦笑するしかなかった。彼の貧乏性と堅実さは、AI時代の歪んだルールの中で、図らずも最強の自己防衛へと昇華されていたのである。




