第6章閑話①:【AI時代の飛行機輪行】
それは、健矢が国際物流コンテナの暗がりに押し込められる、ほんの少し前の話である。
長老猫リコとの死別という深い喪失感から、「一度徹底的に頭を冷やす」と称してイタリアでの1,200キロメートルブルベ参戦を決意した健矢は、夜のカフェのカウンターで熱くなっていた。
叩いているのは、液晶が黄ばみかけた2画面のド旧式デスクトップPCだ。OSのサポートなどとっくに切れているが、行政AIの監視網を潜り抜けられる数少ない骨董品である。
「よし……! 一端の資産家になったんだ。貧乏サラリーマン時代には逆立ちしても無理だった『ビジネスクラス』とやらで往復してやるぞ!」
健矢は鼻息荒くキーボードを叩いた。画面に表示された航空券の価格を見て、彼は自分の目がバグったのかと疑った。そこには、かつてのハイシーズンならエコノミーですら手が届かないような破格の「安さ」が提示されていたのだ。
――もっとも、健矢はその本当の理由をまだ知らない。
「行きは関空から乗継便でミラノ・マルペンサへ飛ぶ! で、帰りはあえて成田だ! 成田から静岡あたりまでF50で自走して、ブルベの余韻を味わいながら京都へ帰る……完璧なプランだ!」
完全に調子に乗っているサイクリストの背後から、冷徹な声が響いた。
「マスター。その『成田から静岡経由で京都へ自走』というルートは、現在のあなたの心拍リミッター制限を考慮すると、余韻ではなくただの緩慢な自殺行為です。ルート変更を強く推奨します」
カウンターの奥でブラッシングされていた黒白のクロが、シオンの声に同調するように「なぁ」と低く鳴いた。
「うっせ!シオン。男にはなぁ、何度も脳内でシミュレートしてきた『理想の海外遠征』ってやつがあるんだよ!」
健矢は聞く耳を持たず、PCの画面をスクロールさせる。
「よし、次は輪行バッグだ。飛行機輪行といえば、海外の雑な荷扱いから愛車を守る最強の盾、あの伝説の『S社のエアロなんたら』を手配する! 成田で迅速に組み立てて、静岡の駅前でパパッと分解して新幹線に乗るなら、あの手軽さは絶対だ」
シーリン。それはキャスター付きの巨大なセミハードケースであり、ハンドルやサドルを外すことなく、クイックリリース或いはスルーアクスルで固定するだけで大切なロードバイクを無傷で海外へ運べる、かつてのサイクリストたちの憧れの逸品である。
数十万円のPINARELLI F50を運ぶなら、これ以上の選択肢はないと健矢は確信していた。
だがその瞬間、シオンの薄青い双眸がかつてないほど激しく明滅し、鋭い機械音が響いた。
「システム警告。マスター、当該製品の購入および手配に、全力を挙げて『待った』をかけます」
「あ? なんでだよシオン。予算なら有り余るほどあるんだぞ?」
「金銭的問題ではありません。容積と行政アルゴリズムの問題です」
シオンはPCの画面を強制的にジャックし、あるグラフィックを網膜VRへと投影した。
「現在の物流・航空業界において、シーコンのような『中身に対して無駄に嵩張るハードケース』は最悪の悪手であり、システムから最も嫌われる存在です。人間が手荷物として持ち込めるサイズ規定は、行政AIによって厳密に『3辺の合計が158センチメートル以内』へ【最適化】されました。かつての航空会社が認めていたスポーツ用品の特例免除など、非合理的であるとして数年前に完全撤廃されています。これを空港に持ち込んだ瞬間、自動検疫AIによって『規格外不正貨物』として強制検知され、没収、あるいはエコノミークラスの航空券5回分に相当する超過料金を自動徴収された上で、荷物の追跡コードを剥奪されます。つまり、愛車がどこかへ消失します」
健矢は額から冷や汗が流れるのを感じた。
「じゃぁ、どうすりゃいいんだよ……。F50を裸で飛行機に乗せろってか?」
「いえ。現代の『AI時代における飛行機輪行』の最適解は、あなたが既に所有している『モンペル・リンコウバッグC』、これ一択です。前後輪を外し、ハンドルを切り、極限まで容積を小さくしてあのペラペラの軽量布で包み込む。これだけが、行政のサイズ制限ギリギリの157センチメートルへ収める唯一の手法です」
「おいおい冗談だろシオン!?」
健矢は声を裏返した。
「あんなペラペラの袋で海外便に預けたら、空港のゴツい荷扱いスタッフにぶん投げられて、あのカーボンフレームが粉砕骨折する未来しか見えねえよ!」
「それは『旧時代』の偏見です」
シオンは淡々と首を振った。
「現在の空港および航空貨物は、99%が完全機械化・自動レーン化されています。かつてのような『機嫌の悪い人間が荷物を放り投げる』といった非論理的な破損リスクはゼロです。むしろ、センサーによって重量バランスを計算され、ロボットアームがグラム単位の優しさで整然とコンテナへスタックします。ですから、梱包はペラペラの布一枚で十分安全なのです」
「へえ……それは意外だな。じゃあ安心か」
健矢は少し胸を撫で下ろしたが、ふと、先ほどから気になっていた疑問を口にした。
「でもさ、それならなんで航空券がこんなに安いんだ? ビジネスクラスの価格設定がバグってただろ」
シオンの薄青い瞳の光が、どこか哀れむようにすっと細くなった。
「マスター。あなたが先ほど見ていた『破格の安さの往復チケット』は、座席の価格ではありません。……『与圧・温度管理機能付き・国際定期物流コンテナ(人間サイズ/業務用)』の一枠を貸し切る価格です」
「……は?」
「言ったはずです。生身の人間が乗る旅客便など、この最適化された世界にはほぼ存在しないと。そのチケットの正体は、完全無人運航の大型貨物機の『貨物室』へ、自転車の輪行袋と共に【山崎健矢ごと有機貨物として放り込まれる】という条件だからこその破格値です」
「俺ごと貨物室に……放り込まれる……!?」
健矢は愕然として硬直した。一端の富豪になったつもりで「ビジネスクラスで優雅に!」とテンションを上げていた自分が、ただの「ちょっとデカい荷物」としてドナドナされる現実を突きつけられたのだ。
「ご安心ください」
とシオンは無表情のまま補完する。
「該当の貨物室コンテナは、精密医療機器や高級競走馬の輸送にも使われる最新型です。気圧および酸素濃度は人間の生存に適したレベルに維持され、呼吸が困難になることはありません。ただ、窓は一切なく、周囲はAmezoooooom!の自動梱包箱に囲まれ、フライト中の14時間は暗黒のコンテナ内で膝を抱えて過ごすことになりますが」
健矢は口を半開きにしたまま、しばらく黄ばんだ2画面PCの液晶を見つめていた。
成金気分は一瞬で宇宙の彼方へ消え去り、残されたのは「ペラペラの袋に詰めた愛車と共に、業務用コンテナで密航する」という、あまりにも泥臭く、あまりにもリアルなディストピアの現実だった。
「……わかったよ。シオン、その『密航用コンテナ』の手配を進めてくれ」
「了解しました。……なお、成田から静岡経由の自走プランですが、当機の経理システムにより、関空往復ルートへ強制変更させていただきました」
「もう、好きにしてくれ……」
足元で、クロが我が意を得たりとばかりに「にゃーん」と高く鳴いた。富豪になってもなお、システムと愛猫とAIに振り回される健矢の、これが地獄のブルベへの滑稽でリアルな前哨戦であった。
成田-静岡でこれ自走しながら持ち運ぶの?それがムリゲーだなんて常識、テンション上げ過ぎて吹き飛んでるんですよね(笑)私なら成田で宅配便で飛行機輪行バッグと土産物を先に家に送ってゆっくり自走で楽しんで帰ります(笑)




