第21話:【白きF50への誓いと、10日間の鉄の掟】
リコが旅立ってから一週間が経ち、初七日の法要に代わる静かな時間が西陣の店を通り過ぎていった。
冬の終わりの柔らかな光が差し込む裏庭の作業場。健矢は、中嶋のサイクルショップで組み上げた生涯の相棒――純白のPINARELLI F50の前に立っていた。
カーボンモノコックのフレームは、まるで引き締まった野生動物の骨格のように美しい。健矢はそのトップチューブを、愛猫の背中を撫でるようにゆっくりと掌でなぞった。
「リコ」
健矢は、もうそこにはいないキジシロの温もりを思い出すように呟いた。
「俺はもう、この箱の中に引きこもっちゃいないよ。お前が見守ってくれたこの足で、世界の一番泥臭くて、一番リアルな空気を吸いに行ってくる」
健矢の視線の先には、網膜VRに表示された一枚のデジタルエントリーシートがあった。
『イタリア・ウルトラディスタンス・ブルベ(1,200km)』
行政AIが「生存確率の著しい低下を招く自殺的行為」として最高レベルの旅行制限を課している、欧州の過酷な超長距離サイクリングイベント。不眠不休で山々を越え、己の肉体と精神の限界を削り落とす地獄の旅路だ。
「マスター。イタリア共和国の気象データ、およびルートの勾配プロファイルを解析しました」
いつの間にか背後に立っていたシオンが、冷徹なトーンで告げる。その薄青い瞳の奥には、リコの死の夜に刻まれた『バグ』の残響が、未だ静かに明滅していた。
「現行のアスリートモードにおけるマスターの生体データをもってしても、完走確率は42.1%。さらに、行政システムが課す『心拍上限120』の制約下では、心停止または強制拘束のリスクが98%に達します」
「確率なんてどうでもいい。俺は行くよ」
健矢は振り返り、店内のソファで丸くなっている黒白のオス猫――クロを見つめた。
クロは健矢の視線に気づくと、ハチワレの顔を上げて「るるう」と短く鳴いた。
「ただし、俺には絶対に破れない鉄の掟がある」
健矢はF50のドロップハンドルを強く握りしめた。
「シオン。イタリアへの出発から帰国まで、猶予はぴったり240時間――10日以内だ。何があろうと、俺は10日以内に必ずこの西陣の店に帰ってくる」
「1,200キロメートルの山岳走行、および国際移動の手続きを含め、10日間での往復は極めて非合理的です。その制限理由の根拠を求めます」
「決まってるだろ」
健矢は屈み込み、近づいてきたクロの顎の下を優しく掻いた。クロは目を細めて喉をゴロゴロと鳴らす。
「家に大切なクロが待ってんだよ。コイツを置いて、何週間も外をほっつき歩けるか。リコと同じで大事な家族だ。法律よりも、どんなAIからの命令なんかより重い、俺自身の絶対のルールだ」
ドロイドのプロセッサが、健矢の言葉を処理する。
『猫の留守番における精神的影響』という項目は、行政のデータベースでは軽視されている。しかし、シオンの内部で発芽した独自の倫理回路は、健矢のその頑固な『掟』を、何よりも優先すべき最上位命令として認識した。
「……了解しました。マスターの『10日間の鉄の掟』をシステムに登録」
シオンは一歩前に出た。
「これより当機は、マスターのバイタルコントロールを『上限120』の網の目を潜り抜ける超高精度巡航モードへと移行します。イタリアの山岳地帯において、あなたが10日以内にクロ氏の元へ帰還するためのサポートを開始します」
「頼むよ、シオン」
純白のF50が、冬の光を浴びて鈍く輝く。
リコを看取り、悲しみを乗り越えた男は、新たな命への愛着を胸に、世界の果てへとペダルを踏み出す決意を固めていた。背後には、彼の無謀に伴走することを誓った、バグ付きのAIが静かに佇んでいた。
架空のブルベ出場を決めた猫の下僕。
その意味を考えると胸にこみあげるものがあります。
ここまで、アップロード作業が
本当に、本当に.....しんどいパートでした。
さくらであい館の時と同じかそれ以上の覚悟がいるシーンで、
「書きたくはないけど書かなければならない。」
それが凝縮していた3投稿だったように思います。
自転車乗りにとって覚悟を要求する『さくらであい館』
→https://ncode.syosetu.com/n8969mn/10




