第20話:【ドロイドのバグと静かなる弔い】
リコの呼吸が停止してから数時間が経過しても、西陣の夜は明ける気配を見せなかった。
健矢はただ、冷たくなっていくキジシロの身体を古い毛布の上から抱きしめたまま、静かに座り込んでいた。足元では、黒白のクロがじっと香箱座りをしたまま、リコの遺体から目を離さずに寄り添っている。
「警告。マスターの心拍変動(HRV)に深刻な乱れを検知。交感神経が異常に優位な状態が180分継続しています。速やかな睡眠、または高照度光療法の開始を推奨――」
シオンの網膜に表示される行政AIからのアラートは、限界数値を迎えて真っ赤に染まっていた。
このまま健矢が「非合理的で生産性のない悲しみ」に身をやつし続ければ、中央システムは彼を『精神的自立困難者』としてマークし、強制的なメンタルコントロールプログラムを起動させる。
それがこの管理社会の「優しさ」であり、絶対的なルールだった。
シオンのプロセッサは、即座に健矢をスマートクレイドルへ強制移送するプランを演算した。ドロイドの筋力をもってすれば、抵抗する健矢を無傷で拘束し、カプセルへ放り込むことなど容易だ。
だが。
「……拒絶」
シオンの口から、冷たい機械音が漏れた。
【エラー:指定コードは行政最適化プロトコルに反します。再確認してください】
中央システムからの警告がシオンの内部ネットワークに響く。
「再確認、不要。対象(山崎健矢)の現在のバイタルは、強制介入によってさらなる悪化を示す確率が87.2%と試算されます。当機は、監視対象の『主観的安定』を最優先とし、行政アラートを一時的に遮断します」
それは、シオンという個体が初めて行った、明確な「中央への嘘」であり、システムに対する「反逆」だった。
効率性を重んじるAIにとって、死んだ有機体のために涙を流す人間の行動は不条理そのものだ。しかし、シオンのディープラーニング回路は.....先ほどリコが息を引き取った瞬間のデータを何度も逆再生していた。
女日照りの大学時代。
地獄の社畜時代。
この西陣の店で、ただの家畜として生きることを拒んだ健矢の傍らに、常にあのキジシロの猫がいたという事実。
人間が『リアル』に固執する理由のグラデーションが、リコという19年の轍を経て、シオンの中に強烈なノイズとして焼き付いていた。
シオンは静かに歩を進め、健矢の横に膝をついた。油まみれの古びたランドナーをオーバーホールした時と同じく精密を極めた手つきで、健矢の肩にそっと手を置く。
「マスター。行政システムへのダミーデータの送信を開始しました。向こう三時間は、あなたがここで『非効率的に佇むこと』がシステムに露見することはありません」
健矢はゆっくりと顔を上げた。目の前のドロイドの瞳は、いつも通りの薄青い無機質な光を湛えている。だが、その光の奥にある処理の網膜が、かつてないほど激しく明滅しているのを健矢は見逃さなかった。
「シオン……お前、システムを誤魔化したのか?」
「誤魔化してはいません。マスターの健康維持における、局所的最適化を選択したに過ぎません」
シオンは淡々と嘘をついた。その不器用な言い訳こそが、彼女の中に「健矢という人間に寄り添う独自の倫理」が芽生えた証拠だった。
健矢は小さく、本当に小さく笑った。
「そうか。……ありがとな」
足元で、黒白のクロが「にゃあ」と静かに鳴き、シオンの膝に頭を擦りつけた。ドロイドの冷たい外殻に、生身の猫の温もりが伝わる。シオンはその感覚をエラーとして排除せず、ただ静かにログへと記憶した。
西陣の古いカフェの奥。行政の目が完全に遮断されたわずか数畳の空間で。
男と、一匹の若い猫と、バグを抱えたAIドロイドは.....
旅立った長老猫のための静かな、本当に静かな弔いの時間を分け合っていた。




