第19話:【19年の轍と、最後の寝床】
冬の京都盆地は、底冷えという言葉すら生ぬるい牙で街を噛みちぎる。
行政AIによる厳密な室温管理が施されているはずのブックカフェ『アルカディア』だったが、今夜の店内には、システムのセンサーでは測定できない「冷たさ」が静かに満ちていた。
カウンターの奥、いつも健矢が使っている古い毛布のベッドの真ん中で、長老猫のリコが横たわっていた。
今年で19歳。人間の年齢に換算すれば、優に90歳を超える大往生だ。
この実家(現在の店舗)から大学へ通っていた頃、周囲の連中が恋人を作って浮かれ散らかしているのを横目に、凄まじい女日照りに喘ぎながら、安い時給のバイトに明け暮れて苦虫を噛み潰していた惨めな青春時代も。
あの地獄のような、人間の尊厳をすり潰す社畜時代、深夜二時に泥のように帰宅して床に倒れ込んだ健矢の頬を、ザラついた舌で舐めて起こしてくれたのも。
行政の家畜化提案を投げ捨て、この西陣の地で小さなカフェを開業したあの日も。
開業に尽力してほどなく病死した両親を送ったあの日も。
健矢の人生の光と影。
そのすべての轍を、このシュッとして愛らしいキジシロのオス猫は共に歩んでくれた。
「リコ……」
健矢は床に膝をつき、リコの乾いた身体をそっと撫でた。かつては艶やかだったキジシロの毛並みは、その鮮やかさを残しつつもすっかり細くなり、骨の輪郭が手のひらに痛いほど伝わってくる。
リコはもう、目を開けるだけの体力も残っていなかった。ただ、健矢の指先が触れるたびに、喉の奥で「きゅう」と小さくかすれた音を立てる。それが彼の精一杯の「俺はここにいるよ」という合図だった。
健矢の網膜VRの視界の隅で、アラートが静かに点滅している。
『居住者バイタル異常:心拍数の不規則な上昇、および涙腺刺激の予兆を検知。精神安定剤の服用、またはスマートクレイドルへの即時入床を推奨します』
「うるせえよ、クソシステムが……」
健矢は網膜の警告を意識の奥へ叩き落とし、ただリコの小さな頭を撫で続けた。
その傍らには、いつの間にかエプロンを外したシオンが、一切の足音を立てずに佇んでいた。薄青い双眸が、暗闇の中で静かに明滅している。
「マスター。リコ氏のバイタルサインは、現時点で生命維持活動の最終フェーズに入っています。心音の減衰、呼吸回数の低下。予測停止時刻まで、残り約300秒です」
ドロイドの報告は、冷徹なまでに正確だった。
本来なら、行政AIにとって「ペットの死」など、有機廃棄物の発生に伴う処理タスクの一つに過ぎない。シオンのメインプロセッサも、それを単なる「事象のログ」として淡々と処理するはずだった。
だが、シオンの演算回路は、目の前の光景を前にして、奇妙な処理遅延を起こし始めていた。
シオンの光学センサーが捉えているのは、ただ衰弱していく一匹の老猫ではない。
その老猫の、途切れ途切れになっていく呼吸の周期に合わせて、健矢の心拍数が激しく乱れ、その指先が微かに震え、網膜の奥の毛細血管が急激に充血していくという、極めて「非合理的」な生体データの同期だった。
生産性もない。効率性もない。
ただ失われていくだけの古い生命に対して、
何故これほどのエネルギーが消費されているのか。
「シオン。お前には……わかんねえだろうな」
健矢はリコの身体に額を押し当てたまま、掠れた声で呟いた。
「コイツはさ、俺が一番惨めで、死んじまおうかと思ってた時も、ただ隣にいてくれたんだ。世界中の誰も俺を見てない時でも、リコだけは俺の味方だった……」
「……」
シオンは答えなかった。答えるためのテキストデータが、システム内に存在しなかった。
だが、シオンのAIは、人間の『死』という絶対的な断絶と、それに向き合う山崎健矢という人間の剥き出しのバイタルを、一切のノイズを挟まずに、そのディープラーニングの最深部へと静かに、静かに刻み込み続けた。
リコの呼吸が、一段とゆっくりになる。
すー……、と長い呼気の後、次の吸気が訪れるまでの時間が、永遠のように引き延ばされる。
「ありがとな、リコ。もう頑張らなくていいぞ」
健矢の目からこぼれ落ちた雫が、キジシロの毛並みに小さな染みを作った。
最後の、本当に小さく、優しい息がリコの口元から漏れ出し――そして、西陣の夜の静寂の中に、溶けるようにして消えた。
19年の旅路の終着点。それは驚くほど静かで、穏やかな大往生だった。
健矢が動かなくなったリコをそっと抱きしめる。その背中へ、もう一つの気配がそっと寄り添った。
まだ若い黒白のオス猫――クロだった。
クロは静かに健矢の足元に身体をすり寄せ、まるで全てを理解しているかのように、リコのベッドを見つめて低く一度だけ鳴いた。
「……ログ、記録完了。リコ様の生命活動の完全停止を確認しました。」
シオンの声が、夜の店内に響く。
だがその声は、いつも通りの無機質な合成音声であるはずなのに、どこか、ほんのわずかにシステムの底が揺れるような、奇妙な残響を孕んでいるように聞こえた。
ディストピアの冷たい冬の夜。
一匹の老猫の死は、山崎 健矢の心に決定的な楔を打ち込み、そして同時に、それを監視し続けていたAIの冷徹なシステムの中に、決して消えない「最初のバグ」を静かに発芽させようとしていた。




