第17話:【熱狂のバイタル】
KSドーム大阪の巨大な銀色のドームの下は、行政AIの管理する「静寂と最適化」の世界とは完全に切り離された、剥き出しの昭和の熱気が渦巻く巨大な密閉空間だった。
ドームの駐輪場と化した旧市営地下駐輪場跡に純白のPINARELLI F50と、応援グッズを満載した深緑のTEDを駐めて入場口前へ向かうと、すでにゲート前で待っていた中嶋の大将が、手に冷えた缶ビールを三本ぶら下げてガハハと笑った。
「おう、健矢! 本当に自転車で来やがったか! それにその人形ちゃん、 あの新緑の鉄馬を完璧に乗りこなしてやがるじゃねえか!」
「大将、無茶言わないでくださいよ。リミッターのせいで心拍数119の薄氷を踏むようなペダリングの連続だったんですから」
健矢は額の汗を拭いながら、手渡された缶ビールを勢いよく煽った。冷たいアルコールが、ロングライドで火照った喉を焦がすように駆け抜ける。
「警告します、マスター。アルコールの急激な摂取は脱水を促進し、心拍管理の難易度を跳ね上げます」
シオンがすかさず無表情に警告を発するが、その頭にはすでに、 TEDのフロントバッグから取り出されたネイビーとゴールドのユニフォームがすっぽりと着せられていた。
エプロンドレスの上にオーバーサイズの野球ユニフォームを羽織り、首からはメガホンをぶら下げたドロイドの姿は、どう見ても周囲の熱狂的なファンに同化していた。
ドームの内部へ一歩足を踏み入れた瞬間、シオンの薄青い瞳の奥で、膨大なエラーログが文字通り爆発した。
ドォオオオオオオオオオオオオオン!!!
鼓膜を打つ地鳴りのような歓声。割れんばかりの私設応援団のトランペットの音と、何千、何万という生身の人間が一斉に叩くメガホンの轟音。空間を満たすのは、焼きそばのソースの焦げる匂いと、ビールと、人間の濃厚な熱気だ。
「……! 空間内音圧レベル、許容値を大幅に超過。周囲の個体の94%に心拍数および血圧の異常上昇を検知。これは――集団的機能不全の状態です」
シオンの網膜インジケーターが、かつてない激しさで黄色と赤の警告光を交互に明滅させる。
AIの演算回路にとって、目の前で繰り広げられている「球という球体を棒で引っ張った人間が走るのを見て、何万人もの大人が狂ったように叫ぶ」という光景は、何一つとして合理的な説明がつかない完全なシステムノイズだった。
「機能不全じゃねえよ、シオン。これが『熱狂』ってやつだ」
健矢は中嶋の大将と並んで内野席に深く腰掛け、ネイビーのユニフォームの袖を通した。
試合は、健矢が愛する「じゃない方」の球団の劣勢で進んでいた。チャンスで一本が出ず、凡退するたびに、周囲のファンからは「何やってんだよ!」という怒号と、それ以上に深い「愛着」の入り混じった溜め息が漏れる。
「非合理的です」
シオンは健矢の隣に腰かけた席から、その瞳でスタジアムのバイタルをスキャンし続けていた。
「なぜ勝率の低い選択肢を支持し、それに対してこれほどのエネルギーを消費するのですか。最初から勝率の高い『猛虎』の球団を――」
「うるせえよ」
健矢は缶ビールをグッと飲み干し、メガホンを硬く握りしめた。
「強いから好きなんじゃない。この泥臭さが、判官贔屓のこの魂が、俺たちの血を沸かせるんだよ。AIの予測通りに勝つ試合なんて、カプセルの中で見る幻影と変わらねえだろうが!」
八回裏、二死満塁。一打逆転のチャンス。
バッターボックスに立つ選手のテーマ曲が鳴り響くと、ドーム全体の熱圧が文字通り限界を突破した。全員が立ち上がり、声を限りに叫ぶ。中嶋の大将が極太の腕で健矢の肩を叩き、健矢もまた、リミッターの警告(『心拍数118……119……』)を網膜の端で睨みつけながら、喉がちぎれんばかりの声を出した。
「いけぇええええええっ!!! 叩き込めッ!!!」
その瞬間、バットがボールを捉える鋭い金属音がドームに炸裂した。打球は美しい放物線を描き、ライトスタンドへと吸い込まれていく。
逆転満塁ホームラン。
ワァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!
地響きのような大歓声の中、見ず知らずの隣の席のオヤジと中嶋の大将、そして健矢が激しくハイタッチを交わす。
網膜VRの警告音は、もはや歓声にかき消されて聞こえなかった。
シオンはその光景の真ん中で、ただ立ち尽くしていた。
彼女のセンサーは、健矢の心拍数が一時的に『122』まで跳ね上がり、スマートクレイドルのシステムが強制シャットダウンのシグナルを送ったにもかかわらず.....。健矢の脳内から過去最高値の「幸福物質」が検出されているという、あり得ない矛盾を克明に記録していた。
大歓声の棺桶の中で、AIは初めて、人間の「割り切れない熱量」という名の、底なしの深淵を覗き込んでいた。




