第16話:【京阪間の鉄路を拒絶し、ドームへ駆ける】
午前六時、西陣の空気はまだひんやりと冷たかった。
カフェの前に並んだ二台の自転車は、あまりにも対照的だった。健矢が跨る純白のPINARELLI F50は、贅沢なカーボンモノコックフレームに油圧ディスクブレーキを備えた、現代のスピードの権化だ。
一方、シオンに割り振られたARARA TEDは、深緑色の鉄のパイプに泥除け、そして前後を頑丈なキャリアで固めた、昭和の薫りが色濃く残る鈍重な旅の道具である。
フロントバッグにはネイビーのユニフォームと応援ハリセン、応援タオルが詰め込まれ、リアキャリアには中嶋の大将から預かった謎の重い工具箱まで積載されている。総重量は健矢のF50の倍以上だ。
「目的地:京セラドーム大阪。ルートは西大橋、葛野西五条付近から桂川サイクリングロードへ流入。木津川・宇治川との合流点からは淀川サイクリングロードを使用し、大阪市内へ南下します。」
エプロンドレスの裾をピンで留め、TEDのサドルに跨ったシオンが淡々と告げる。網膜レンズが薄青く明滅した。
「お言葉ですが、ご指示頂いたこの設定ですと、一般道経由より総距離は約15キロメートル増加します。行政AIのルート最適化アルゴリズムからは完全に逸脱した非効率的選択です」
「距離なんかどうでもいいんだよ」
健矢はF50のブラケットを握りしめ、不敵に笑った。
「一般道の信号待ちからの発進は、一瞬でトルクがかかって心拍数が跳ね上がる。ノンストップで一定のパワーを維持できるサイクリングロードこそが、このクソリミッターを騙し通して大阪まで行く唯一の正解だ。ぅし!行くぞ、シオン。千切れるんじゃねえぞォ!」
健矢はペダルを踏み込んだ。F50が生き物のように滑らかに加速し、西大橋を目指して西へ滑り出す。 背後から、「ゴオオオオ……」という、太いツーリングタイヤがアスリートの意志とは無関係にアスファルトを削る重厚なロードノイズが響いてきた。
シオンは無表情のまま、重いクロモリランドナーを正確無比なケイデンスで回し、寸分の遅れもなく追従してくる。
西大橋手前から桂川サイクリングロードを河川敷に向かって緩やかに下がり、鬱蒼とした木々の作るトンネルを抜けると視界が一気に開けた。 行政AIが推奨する「スマートな自動運転車」が整然と並ぶ無機質な幹線道路を横目にして置き去りにしながら、二台の自転車は信号のない一本道を南へと爆走する。
「マスター、心拍数115を維持。ケイデンス90。一般道の通過時と比較し、バイタルの変動グラフが極めて平坦です」
「言っただろ? 邪魔なブレーキを踏まされなきゃ、120の手前で完璧にコントロールするなんて造作もないんだよ!」
健矢はF50のギヤを絶妙に変速し、筋肉にかかる負荷をミリ単位で調整しながら、限界ギリギリの巡航スピードを維持する。
心拍数を119でピタリと張り付かせながら、遮るもののない土手の上を滑るように走るそのライディングは、行政AIへの精一杯の嫌がらせであり、同時に生身のサイクリストとしての極上の快感だった。
しかし、本当に異常なのは背後のドロイドだった。 三川合流点を過ぎ、淀川サイクリングロードに入ると、遮るもののない広大な河川敷特有の強烈な向かい風が牙を剥いた。
F50の軽いカーボンフレームですら横風にあおられそうになる突風の中、シオンは上体を微動だにさせず、重いTEDのWレバーを「カチリ」と親指で倒した。
ギヤがロー側に落ち、鉄の馬が重量を生かして風を切り裂いて進む。
「当機の駆動モーターおよび関節ユニットの出力は、この程度の風損および積載重量によって減衰しません。マスター、前方巡航速度の維持を要請します。当機の慣性モーメントが最適値を超えています」
「くそっ……なんてタフな人形だ……! 積み込んでる荷物の重さを分かってんのか!?」
健矢は息を荒くしながらも、絶対に120を超えられないスリルの中でペダルを回し続けた。 太陽が高く昇り、草の匂いとアスファルトの熱気が混ざり合う中、シオンはただ、フロントバッグの横に差し込まれたクラシカルなアルミボトルを片手で引き抜き、前を見据えたまま健矢へと差し出した。
「水分および電解質の補給を推奨します。井口氏より預かった『特性梅干し水』です」
「……気が利くな」
ボトルを受け取り、ぬるい液体を喉に流し込む。強烈な酸味と塩気が、乾きかけた身体に染み渡った。
やがてサイクリングロードを抜け、大阪の雑多で巨大な市街地へと滑り込む。完璧に管理されたディストピアの中に残された、ほんのわずかな地殻変動のような泥臭い空気。
信号のない道を選び抜いた二人の前方の光景。ついに高層ビルの隙間から、まるで銀色の巨大なUFOか、あるいは巨大なカプセルのような不可思議な曲線を描くスタジアム――KSドーム大阪の威容が姿を現した。
「目的地視認。ルート変更によるタイムロスは、信号停止ゼロの効果によりわずか4分に相殺されました」
シオンは汗ひとつかいていない顔で、 TEDのカンチブレーキを軋ませて停車した。だが、その網膜の奥では、ドーム周辺から放たれる、数万人の人間が醸し出す「非論理的な熱気」のデータが、すでに異常なノイズとしてカウントされ始めていた。
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【作者より&スピンオフ作戦展開中!】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
心拍120という縛り条件に抗いながら、川沿いの強風と戦い、辿り着いた千代崎のドーム。
健矢たちの泥臭く熱い旅路を一緒に見届けてくださり感謝です!
本編の熱気の裏で、さらに世界観が広がる『2つのスピンオフ作品』を絶賛展開中です!
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全人類がVRカプセルでメジャーな球団を見るディストピア社会。
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「マスター、手拍子のテンポが非効率的です」
「うるせえ! ここはチャンテなんだよ!!」
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引き続き、生身でペダルを回し続ける健矢たちの物語を応援よろしくお願いいたします!
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