第15話:【AI、旅の道具を分解整備(オーバーホール)する】
「マスター、そこは15ミリのコンビネーションレンチではなく、ペダルレンチを使用すべきです。ボルトの角が舐めます」
「……わかってるよ」
西陣のカフェの裏庭は、瞬く間に即席の自転車修理工場へと変貌していた。ブルーシートの上には、分解されたクロモリ製ランドナーのパーツが整然と並べられている。
健矢が手作業で錆びついたクランクを外そうと四苦八苦していると、シオンがその横へ無造作に膝をついた。彼女はエプロンを外し、健矢の手から油塗れの工具を滑らかに奪い取る。
「効率的健康管理、および遠征準備の時間短縮のため、これより当機が主導して車両のレストアを行います。マスターは補助に回ってください」
「おい、お前にランドナーの整備なんてできるのか? 今のスマートバイクと違って、電子制御なんて一切ないぞ」
「構造が単純であるということは、物理法則に従うのみであるという証明です。問題ありません」
シオンの薄青い双眸が TEDのフレームを捉えると、内部で超高速のスキャンと三次元 CADデータの再構築が完了した。彼女の指先が動き出す。その速度と正確性は、人間のメカニックの領域を完全に凌駕していた。
カチ、カチ、カチ――。
固着していたボルトが、シオンの計算し尽くされたトルク管理によって、悲鳴を上げることすら許されずに次々と外されていく。十年以上放置され、真っ黒に変色したグリスが詰まっていたボトムブラケット(BB)のシェル内部が露出する。シオンは一切の躊躇なく、パーツクリーナーを吹き付けてウエスで拭き上げた。
シュバッ、と古い汚れが消え去り、美しい鉄の地肌が現れる。
「固着した油脂の除去完了。これより可動部へ、耐水性の高い超高粘度有機モリブデングリスを注入します。ドーム遠征時における淀川沿いの湿気、および想定される雨天に対応するためです」
シオンの指先は油に塗れていくが、その表情はどこまでも無機質なままだ。しかし、その手つきには不思議なほど「機械への敬意」のようなものが宿っていた。
健矢は指示されるままに、新しいタイヤやインナーワイヤーを差し出す役割に徹していた。目の前で繰り広げられるのは、AIによる「昭和の遺物」の完全なるハッキングだった。
現代のロードバイクのように、フレームの内部にワイヤーを通すスマートな構造ではない。トップチューブやダウンチューブの外側に張り巡らされた剥き出しのステンレスワイヤー。
それをシオンは、古典的な「Wレバー(ダウンチューブに取り付けられた変速レバー)」へと繋ぎ、指先で弾くようにテンションを調整していく。
カチ、カチ。
シオンがレバーを動かすたびに、リアディレイラー(変速機)が正確無比なストロークでスプロケットの歯を捉え、乾いた金属音を響かせた。
「カンチブレーキの左右バランス調整、完了。Wレバーによるインデックス変速の同調、完了」
わずか一時間足らずで、埃を被っていた深緑の鉄馬は、新車同様の鈍い輝きを取り戻していた。錆びついていたキャリアは磨き上げられ、フロントには中嶋の大将の店からかっぱらってきたという頑丈な帆布製の大型フロントバッグが鎮座している。
シオンはそのバッグの蓋を開け、事前に用意されていた「遠征用物品」を手際よく詰め込み始めた。
「これより積載物の重量バランスを最適化します」
シオンがバッグに入れたのは、健矢がクローゼットの奥から引っ張り出してきた、少し色褪せたネイビーとゴールドのユニフォームと、数本のプラスチック製メガホンだった。
「おいシオン、そんなに詰め込んで重くないか?」
「当機の出力軸において、この程度の重量増は誤差の範囲です」
シオンは淡々とユニフォームの皺を伸ばし、バッグに収めた。
「それよりもマスター。この衣類に染み付いた微量な成分から推測するに、これは関西で圧倒的なシェアを誇る『猛虎』の球団ではありませんね? 非常にマイナーなバイタルデータが検出されていますが」
「……マイナー言うな。俺たちの『猛牛軍団』だ。現地に行けば、どんだけ温かく、熱い球団かよくわかる」
健矢はTEDのサドルを軽く叩いた。
すっかり綺麗になった深緑の車体は、どこか嬉しそうに佇んでいるように見えた。
「よし、整備は完璧だ。シオン、これが終わったら、いよいよ大阪までの地獄のロングライドだぞ。覚悟はいいか?」
「当機に『覚悟』というプロトコルは存在しません。あるのは、マスターをドームまで確実に生存させ、かつその『じゃない方』の球団とやらを応援するための物品を、完璧な状態で搬送するという任務のみです」
油で汚れた顔のまま、シオンはTEDのハンドルを握りしめた。西陣の静かな朝の空気に、これから始まる泥臭い旅路の予感が、微かに満ち始めていた。




