第4章・閑話①:【サイクリストによるクレイドルの調整】
午前三時。深夜の猛特訓を終えた健矢。汗を拭いながら、未だに不気味な緑色の光を放っているリビングの「棺桶」――スマートクレイドル・タイプ4を忌々しげに睨みつけていた。
シオンという高性能フィジカル端末を送り込まれただけでも鬱陶しいというのに、長年愛用してきた使い慣れたベッドまで、行政の管制下にあるこの金属の塊に無理やり置き換えられてしまったのだ。健矢の機嫌はこれ以上ないほど斜めだった。
腕を組み、怪訝な顔でカプセルの横に立つシオンへ視線を向ける。
「おい、シオン」
「はい、マスター。何でしょうか」
「コイツの初期設定、どんな中身になってるか教えろ」
健矢は学んでいた。あの網膜VRの調整の際、一般市民向けの初期設定が、サイクリストの基準からすればいかにドギツく、生ぬるく、人間の身体を退化させるものだったかを。もちろん、殺人的な路面の補正の件も。
ましてや、睡眠から排泄までを完全管理すると謳うこの怪しいカプセルだ。そのまま使うなど恐ろしすぎる。
シオンは網膜の奥の処理ログを明滅させ、淡々と読み上げ始めた。
「了解しました。当機『スマートクレイドル・タイプ4』の一般市民向けデフォルト設定を公開します。本機は居住者の肉体的ストレスを完全に排除するため、睡眠中の自動生体管理モードが起動します。具体的には、直腸へ常時排泄物除去ノズルが自動挿入され、待機する徹底介助仕様となっており――」
「ち・ょ・っ・と・待・て...。今なんと?」
健矢の動きがピタリと止まった。声のトーンが跳ね上がる。
「直腸への排泄物除去ノズルの常時挿入――」
「ふざけるなーーーーーーーッ!!!」
深夜の京町家に、健矢の怒号が響き渡った。あまりの音量に、シオンの網膜のインジケーターが一瞬だけ警告の黄色にブレる。
「ケツの筋肉はなぁッ!?括約筋だろうが大殿筋だろうが、サドルに骨盤を固定してペダルにパワーを伝えるための、サイクリストにとっての命そのものじゃねえかァ!!! そこに異物を常時ブチ込むだと!? 余計なことしやがって!!! 筋肉の柔軟性が死ぬわ! いらん!そんなゴミ機能は即座に削除しろ!!」
「しかしマスター、これは就寝中の完全なる排泄ストレスの緩和と、代謝効率の最大化を――」
「ンなこた知ったもんか! 排泄くらい自分の意志と筋肉でやるわ! 却下だ却下! 次の設定はどうなってる!?」
「……承知しました。自動排泄管理機能を完全オフにします」
シオンは淡々とパネルを操作する。
「次に、睡眠中の筋肉の緊張を緩和するため、低周波による強制的な脱力導入マッサージ、および――」
「軟弱仕様にするなァっ! そんなぬるま湯マッサージじゃ、3本ローラーで千切れかけた大腿四頭筋の疲労は抜けねえ! いいか、設定を全部書き換えるぞ!」
ここから、健矢による激高に任せた怒涛の設定変更劇が幕を開けた。
「まず、その低周波なんとかは全廃だ! 代わりにスポーツドクターの監修データを無理やりハッキングして叩き込め。超音波と高周波のハイブリッド熱療法機能へ切り替えろ。筋肉の深層微小断裂を急速回復させる仕様にするんだ!」
「設定変更……高不快度・アスリート用リカバリーモードへ変更します。よろしいですか?」
「構わん! あと、内部のジェルベッドの硬度だ。デフォルトの『雲の上の浮遊感』とかいうフニャフニャした設定を今すぐやめろ。腰が沈んだら脊椎のアライメントが狂うだろうが! 硬度はロードバイクのサドルと同じ、カーボン並みのガチガチ仕様にしろ!」
「それはもはや、ただの板ですが……」
「それでいいんだよ! あと、睡眠中の酸素濃度は18パーセントに低下させろ。高地トレーニング環境を擬似的に再現して、寝ながら赤血球を増やす仕様にする!」
「マスター、それは一般市民の基準では『中程度の高山病リスク環境』に分類されます」
「サイクリストにとっては極上の『低酸素テント』だ! やれ!」
健矢の怒涛の要求に対し、シオンの指先が目にも留まらぬ速さでコントロールパネルの上を滑っていく。
数分後、不気味な緑色の光を放っていたスマートクレイドルは、度重なる極限設定の上書きにより、ついに警告音と共にその発光を「静かな深い青」へと変えた。
シュー……と、内部の気圧と酸素濃度が調整される厳格な音が響く。
「……再設定、完了しました」
シオンがパネルから手を離し、心なしか呆れたようなログを網膜に浮かべながら告げる。
「自動排泄・完全排除。高地トレーニング用低酸素制御モード。超音波高出力筋肉治療機能、および超硬質スポーツマッサージ仕様。……最高水準の睡眠効率を叩き出すものの、一般市民であれば翌朝に全身の激痛を訴えるであろう、無骨極まりないアスリート仕様ベッドへと落着しました」
「ふん、上等だァ...!」
健矢は満足げに鼻を鳴らし、ガチガチの硬度に変貌したカプセルの蓋を開けた。
そこにあるのは、AIが提供しようとした「人間を骨抜きにする家畜の檻」ではない。健矢自身の狂ったこだわりによって強引に作り替えられた、明日の出力を生み出すための「最強のトレーニングギア」だった。
「じゃあな、シオン。ちょっくら高度2500メートルの山頂で寝てくるわ」
健矢はカプセルの中へと身体を滑り込ませ、力強く蓋を閉めた。
リビングに残されたシオンは、密閉されたカプセルから漏れる低い駆動音と、その中で見る見るうちに超急速回復を開始していく健矢の異次元のバイタルデータを、ただ静かに見つめ続けるのだった。
「HAHAHAHAHAHA!最高だ!!最高じゃねぇか!!!........寝るか。」
寝ながら心肺トレできるベッドとかいいなぁ。ケガから復帰した後に山登ったら、けっこう心拍の弱体化を感じたもので...ケガしていても心臓が鍛えられる環境は素直に羨ましいっす!




