第13話:【午前二時、心拍一八〇の反逆】
深夜二時。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った京都・西陣の街並みは、深い闇と行政AIの冷徹な監視の電波に包まれていた。
一階のカフェのカウンターの奥では、エプロンを外したシオンがスタンバイモードに入り、彫刻のように微動だにせず直立している。
二階の健矢の自室。そこには、不気味な緑色の待機光を放ちながら「入室」を促すスマートクレイドルが、まるで冷たい化け物のように鎮座していた。網膜の端に表示されている睡眠推奨時刻のカウントダウンは、とっくにゼロを過ぎている。
(誰がハイ、そうですかって、その棺桶に入るかよ)
健矢は銀色のカプセルを完全に無視し、部屋の中央に中嶋の大将から譲り受けた3本ローラーを据え付けた。
通信機能もなければ、電源プラグすらない。ただの無骨な鉄とアルミの塊だ。その上に、純白のPINARELLI F50を慎重に乗せる。
レーサーパンツ一丁になった健矢は、壁に手を突いてサドルに跨がった。網膜VRが『就寝時間を大幅に超過しています。現在の心拍数70』と無機質な警告を視界の隅で明滅させている。
健矢は構わず、両足のビンディングシューズをペダルにクリップインした。
パチン、パチン、と硬質な金属音が静かな部屋に響く。
ゆっくりと、ペダルを踏み込んだ。
ガタガタ、と最初は不安定にフレームが揺れる。中嶋の大将が言った通りだ。誤魔化しは一切効かない。己の体幹、バランス、ペダリングの技術だけで自立しなければ、一瞬で横に吹っ飛んで壁に激突する。健矢は下腹部にグッと力を込め、背筋を伸ばし、サドルの上で重心を完全に固定した。
徐々に、ペダリングの速度を上げていく。
ゴオオオオオオオ……。
アルミ製のローラーが高速で回転し始め、京町家の古い床板を通じて、荒々しい重低音の振動が響き渡った。
健矢はF50のギヤをアウターに入れ、リアの変速をトップへと叩き込んだ。そして、ハンドルを低く握り締め、全力のコンタクト(もがき)を開始する。
「ブオオオオオオオオオオオッ!!」
静まり返った深夜の西陣に、猛獣の咆哮のような金属音が炸裂した。
スマート機能を持たないこの鉄の塊は、健矢が踏み込んだパワーをそのまま暴力的な回転音へと変換する。電気的なリミッターなど、ここには存在しない。あるのは、健矢の肉体の出力と、ローラーの摩擦だけだ。
ピピピッ! ピピピピピピッ!
視界の真ん中が、突如として真っ赤な警告色で染まった。
『警告:心拍数が120に達しました。直ちに運動を停止してください』
『警告:心拍数140超過。緊急停止シークエンスを開始します』
網膜VRが狂ったようにアラートを鳴らし、脳内に不快な電子音を大音量で響かせる。だが、通信を遮断された3本ローラーの負荷を、行政AIは物理的にロックすることができない。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ! 見てろよ、クソシステム……!」
健矢は顔を歪め、さらにペダリングを加速させた。
汗が吹き出し、TR700カーボンの純白のフレームへと激しく滴り落ちる。
『警告:心拍数160超過』
『警告:心拍数180に到達。生体危機。クレイドルへの入室を――』
赤く染まりきった視界の中で、健矢は狂ったように笑いながら、さらにギヤを踏みちぎった。脳内に鳴り響く大音量のアラームは、今の健矢にとっては命の鼓動を証明する極上のBGMだった。
バタン、と激しい音を立てて自室の扉が開いた。
騒音と健矢のバイタルの異常数値を検知し、一階から駆け上がってきたシオンだった。
開け放たれたドアの隙間から、逆光の中でシオンの薄青い瞳が激しく明滅しているのが見えた。
シオンの視界には、何が起きているのか理解できないはずだった。通信データ上はただ部屋の中にいるはずの人間が、なぜか行政の制限を完全に突破し、致死圏内の一歩手前である「心拍数180」という命の暴走を引き起こしている。
だが、シオンの瞳に物理的に映っていたのは、赤く染まった網膜の警告を力ずくで無視し、汗まみれになりながら、システムに牙をむいて笑っている「剥き出しの生身の人間」の姿だった。
「ブオオオオオオオオオッ!!」
町家を揺らす3本ローラーの咆哮の中、健矢は銀色の棺桶を激しく睨みつけながら、ペダルを回し続けた。
シオンは暗闇の入り口で直立したまま、その激しい金属音と、健矢の荒い呼吸、そしてデータの枠に収まらない圧倒的な生の熱量を、ただ静かに見つめ続けていた。




