第12話:【東洞院六角、偏屈な輪の砦へ】
「心拍上限120」という名の電子の枷。
それが意味する絶望の深さをAIであるシオンが真に理解しているはずもなかった。ロードバイクにおける心拍120などただの軽いウォーミングアップ。あるいは信号待ちから発進して巡航速度に乗せるまでの数秒間で容易に突破してしまう数値だ。
それはサイクリストから牙を抜くだけでなく、自分の足でこの狂った世界を駆けるという「生身の意志」そのものを否定されたに等しかった。
「クソが……!」
激しい憤りと焦燥感に突き動かされるようにして、健矢は部屋の隅に転がっていた通信機能付きのスマートローラーの電源プラグを荒々しく引き抜いた。液晶インジケーターの赤い警告灯がぶつりと消える。
健矢はその高価な精密機械を大きなゴミ袋へ乱暴に詰め込むと、壁に立てかけてあった純白のPINARELLI F50のトップチューブを掴んだ。
TR700カーボンの硬質な感触が、掌を通じて健矢の苛立ちを宥めるように冷たく伝わってくる。
「マスター、どこへ行くのですか。現在のバイタルはリミット未満ですが、これ以上の肉体的負荷は非効率です」
階段を下りていく健矢の背中に、シオンの平坦な声が投げかけられる。
「うるせぇ!ゴミを捨てに行くだけだ!」
健矢はF50を担いで勝手口を飛び出し、サドルに跨がると同時にペダルを強く踏み込んだ。
背後でスッと音もなくスライドドアを開けたシルバーの行政AIタクシーが、まるで獲物を追う猟犬のように一定の距離を保って追走を開始する。網膜の端で『105……112……』と上昇していく心拍数のカウントを睨みつけながら、健矢は烏丸通を南へと爆走した。
目指すのは東洞院六角。
今や誰もがVRカプセルの中で液晶の幻影を見て暮らすディストピアにあって、頑なに「鉄と油の匂い」を守り続けている絶滅危惧種の砦――イタリアンバイク専門店だ。
ガラガラと小気味よい音を立てるF50のフリーハブの音と共に、健矢は古い長屋を改装した店舗の前に滑り込んだ。看板はとうに色褪せ、ガラス窓の奥には時代遅れの高級フレームや工具が乱雑に吊り下げられている。
「中嶋の大将……! いるか!」
店内に飛び込むと、奥の作業台で、頑固そうな白髪交じりの短髪を揺らしながら古いカンパニョーロのハブを分解していた老人が顔を上げた。
中嶋了一(75)。かつて貧乏だった健矢がこのF50を買いに来た際、冷やかしと知りながらも「本気で乗るなら売ってやる」と、内緒の割引価格で相棒を託してくれた偏屈なサイクリストとしての師だ。
中嶋は健矢が担いできたゴミ袋と、その殺気立った表情、そして店先に停まった行政AIタクシーの窓からこちらを凝視しているシオンの姿を一瞥し、すべてを察したように鼻で笑った。
「健矢ぁ、お前のところにも『あの棺桶』が届いたか」
「……ああ。今朝、勝手口を塞ぐようにして運び込まれましたよ。それだけじゃない...。通信機能がついた俺の練習機材は、全部AIにハックされて心拍120でロックがかかるようにされちまった」
健矢はシオンが持ってきたゴミ袋をひったくり、床にドスンと投げ出した。
「大将、このスマートローラー、処分してくれ。AIと通信する機能がついた機材なんざ、もう全部ただのゴミだ。代わりに……電気なんか無くても、クソAIどもに電波が届かなくても、俺の力だけで回せる『本物の道具』をくれ」
中嶋は手元の手拭いで指の油汚れを拭き取ると、作業台の引き出しから年季の入ったタバコを取り出して火をつけた。紫煙の向こうで、老サイクリストの鋭い眼光が健矢をじっと見つめる。
「心拍120か。人間を完全に家畜扱いしやがって」
中嶋は短く毒づくと、店の最奥、埃の被ったブルーシートがかけられた棚へと歩を進めた。
「いいだろう。お前がまだ『飼い犬』になるのを拒むってんなら、とっておきの頑固者を分けてやる」
中嶋がシートを乱暴に剥ぎ取ると、ガシャリと重々しい金属音が響いた。
現れたのは、ずっしりと重いスチール製のフレームに、三本の極太のアルミ製ローラーがベルトで連結された、無骨極まりない機材だった。
液晶画面もなければ、電源プラグの差込口すら存在しない。ただの鉄とアルミの塊。
「3本ローラーだ」
中嶋はその上にポンと足を乗せ、不敵に笑った。
「通信機能もなけりゃ、センサーもありゃしねえ。完全なアナログだ。だがな健矢ぁ、これを舐めるんじゃねえぞ。誤魔化しは一切効かねえ。体幹がブレりゃ壁に激突するし、踏み込みが甘けりゃ一瞬で横転する。AIの介護付きで走ってた軟弱者には、1分と回せねえ代物だ」
中嶋はローラーのフレームを叩き、健矢の目を真っ直ぐに見据えた。
「だがな、これをお前が己の肉体だけで回しきれるようになった時、お前の身体は本物の『サイクリスト』になる。クソAIどもにお前の心臓の鼓動をコントロールさせるな。お前の命のテンポは、お前自身が決めるんだよ」
健矢はその無骨な鉄の塊を見つめ、腹の底から湧き上がる熱い衝動を感じていた。
万馬券の配当の残りが詰まった財布から、汚れていない紙幣の束を取り出し、作業台の上に叩きつける。
「これ、もらっていきます、大将」
「おう、精々死ぬ気で回せ。その人形のねーちゃんに、人間の意地ってやつを見せてやりな」
中嶋の言葉を背中で受け止めながら、健矢は重たい3本ローラーをシオンに押し付けて、再び西陣の我が家へと引き返した。追従するAIタクシーの車内で、シオンの網膜に表示される「非合理的行動への警告」ログが、激しく明滅し始めていることにも気づかずに。
書いてるうちに3本ローラーの方がいいかも、とか思ってしまいました(笑)




