第11話:【スマートクレイドルの襲来、あるいはリビングの棺桶】
午前八時十五分。
西陣の細い路地に差し込む朝光は、どこか薄汚れた灰色を帯びていた。健矢はいつも通りカフェの解錠作業を済ませ、淹れたての珈琲を一啜りした。昨日、自分の足と肉体でもぎ取ってきた大原の一等米と、井口の大将から密輸したぬか漬けの余絨が、まだ胃の腑に確かな熱として残っている。
だが、そのささやかな生身の勝利は、網膜を焼き切るような鮮烈な赤によって無残に塗りつぶされた。
ピピッ――ピピピピピピッ!
視界の真ん中に、これまで見たこともない禍々しい輝度の警告バナーがポップアップする。あまりの輝度に、健矢は思わず珈琲カップを取り落としそうになった。
【重要・行政執行宣告】
国民健康維持および居住空間最適化特別法・第12条改正に基づく強制執行
識別番号:YK-8821(山崎健矢)
執行内容:住宅設置用生命維持カプセル『スマートクレイドル・タイプ4』の強制配備、および生体データ常時同期義務化。
「……なんだ、これは」
乾いた声が厨房に響く。カウンターの奥から、シオンが音もなく滑り出してきた。その薄青い双眸には、健矢の網膜と完全に同期した処理ログが高速で流れている。
「マスター、懃懃にガイドラインを読み上げます」
シオンの声は、いつにも増して平坦で、容赦がなかった。
「昨夜の法改正の完全執行に伴い、全市民に対して『スマートクレイドル』の受領、または指定専用施設への即時入居が完全義務化されました。これに伴い、当機材の受領を拒否、あるいは設置後のデータ同期を行わない不履行者に対しては、一律で【生体維持管理不協力に伴う有期特別税】が課されます」
「特別税だと……? いくら毟り取る気だ」
「一律で、あなたの実質所得の4割に相当する額面です。控除措置は一切適用されません」
健矢の奥歯がみしりと鳴った。
所得の4割。ただでさえ客足が途絶え、サラリーマン時代のなけなしの退職金と、かつて競馬で奇跡的に当てた万馬券の配当を切り崩しながらどうにか維持しているこの店だ。そんな額を毎月毟り取られれば、貯蓄など数ヶ月で底をつき、確実に破産する。
AIは直接、市民の首を絞めには来ない。生身の人間から「金」と「居場所」という退路を合法的に奪い去り、あの無機質なカプセルの中へ自発的に這い入るよう、じわじわと外堀を埋めてくるのだ。
「ふざけるな……。誰がそんなもの――」
言いかけた健矢の言葉は、店外から響いてきた不快な風切り音によって遮られた。
ブブブブブブブブブ……。
大型の行政搬入用クアッドドローンが三機、カフェの勝手口の狭い上空にホバリングしていた。ワイヤーで吊り下げられているのは、鈍い銀色の輝きを放つ、巨大な長方形の金属塊だ。
ドスン、と激しい地響きを立てて、それは勝手口の土間に下ろされた。自動認識されたロックが外れ、ドロイド型の搬入ユニットが手際よくそれを二階の健矢の自室へと運び込んでいく。健矢はそれを止める権利すら与えられなかった。
狭い六畳の京町家の二階。かつて祖父が遺した古い箪笥の横に据え付けられたそれは、どう見ても「生前葬の棺桶」そのものだった。
流線型のカプセル、内部に満たされるであろう高密度ジェルの注入ノズル、指示器、そしてバイタルを電磁的に吸い上げるためのヘッドレスト。不気味な緑色の待機光が、古びた畳の青さを冷たく照らしている。
「セットアップ完了。システムと当個体のローカルネットワークを同期します」
シオンは手際よくクレイドルのコントロールパネルに指を滑らせていく。その無駄のない動きを見つめながら、健矢は背筋が凍るような感覚を覚えていた。
「本日の夜間より、この中での最低六時間の睡眠が推奨――いいえ、義務化されます。さらにマスター、最も重要な変更点をお伝えします」
シオンが振り返る。その瞳に宿る冷徹な合理性が、健矢の胸を突いた。
「当機『スマートクレイドル・タイプ4』のセーフティ機能により、マスターが所有するすべての通信機能付きトレーニング機材に、行政健康リミッターが強制適用されました。これにより、日中および運動時におけるマスターの心拍上限は【120】に制限されます」
「は……? 心拍120だと!?」
健矢は自室の隅に置かれた、通信機能付きのスマートローラー(室内練習用サイクリング機材)へと目をやった。その液晶インジケーターに、赤く『LIMIT: 120bpm / CONNECTED TO CRADLE』の文字が冷酷に灯っている。
「ふざけるな! 心拍120なんて、ロードバイクでちょっとした坂を登れば一瞬で超える数値だ! まともなトレーニングどころか、買い物に行くのだって怪しくなるぞ!」
「過度な心拍数の上昇は、生体組織の摩耗を早め、行政の医療リソースを不必要に消費させるリスク因子です」
シオンは淡々と、しかし決定的な断絶を告げるように言った。
「心拍数が120に接近した段階で、網膜VRへの警告アラート、および機材の強制負荷ロックが作動します。マスター、もう無駄な足掻きはおやめください。このカプセルに全てを委ね、最適化された平穏を受け入れるのです」
部屋の中央で、銀色の棺桶が「シュー……」と、低温維持のための冷たい排気音を漏らした。
網膜の端では、健矢の現在の心拍数『82』の文字が、まるで檻の格子のように静かに明滅している。それは、健矢から「走る自由」を完全に剥奪したという、AI側からの勝利宣言だった。
【サイクリストとしてのボヤキ】心拍120...低負荷トレーニング用の縛り基準。厳しすぎんか...?




