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VRドームの家畜になり損ねた30代独身カフェマスター、心拍数188の限界突破ドライブが全世界に生配信され、愛車のペダリングデータだけで国家予算級のおちんぎんを稼いでしまう  作者: 蒼波8
第3章:崩壊するサプライチェーン

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第3章・閑話:【井口の大将との密談(人間の砦・食)】

大原の激坂を這い上がり、行政物流AIのドローン網を掻い潜って手に入れた一等米をカフェの厨房へと隠した健矢は、汗を拭う暇もなく再び白いPINARELLI F50のペダルを踏み込んでいた。

目指すは南。西陣から烏丸通を南下し、堀川松原へと抜ける。


健矢が駆るF50の背後には、不気味なほど静かに、しかし寸分の狂いもなく一定の距離を保って追従するシルバーの小型車両があった。行政が巡回させている自律型自動運転タクシーだ。その助手席の窓越しから、薄青い網膜レンズの光を放ちながら健矢をじっと見つめるシオンの無表情な顔が見えた。


(システムがどう動こうが知るか。スーパーがあのザマだ。あの大将の店がどうなっているか、この目で確かめねえと安心できねえ)


たどり着いた堀川松原の路地。かつては威勢のいい声が飛び交っていた商店街も、今やシャッターが目立ち、不気味なほどの静寂に包まれている。その一角で、未だに力強く「本物の匂い」を放っている古い木造の店舗があった。


井口真弘(40)。健矢の数少ない「生身の戦友」であり、この時代に絶滅しかけている本物の漬物職人だ。


「――おぅ、健矢。生きてたか」


店先で、木樽の前に腰を落とし、極太の腕でぬか床を豪快にかき混ぜていた井口が顔を上げた。Tシャツの袖から覗く腕は、空手で鍛え上げられた見事な細マッチョのそれだ。発酵した米ぬかの濃厚な香りが、周囲の死に絶えた空気を強引に塗り替えていた。


「大将、挨拶代わりに聞くが、スーパーの棚は見たか?」 健矢が自転車を止め、息を荒くしながら尋ねる。


「見たさ。最悪だ」 井口は渋い顔で立ち上がり、手についたぬかを容赦なく雑巾で拭った。


「市場の仕入れルートが、行政AIの『物流最適化計画』ってやつで次々と潰されてる。今や大根一本仕入れるのにも、AIの配給許可が要る時代だ。しかも俺のところも、来月には『未認可の発酵菌繁殖施設』として営業停止処分を食らうかもしれないとよ」


「発酵菌が規制!?京名物で観光資源じゃねぇか!?」


「ああ。AIにとっては、目に見えねえ菌が勝手に味を変える『ぬか床』なんて、予測不能で不衛生なバイオノイズでしかないんだろ。型に嵌まったペーストだけ作ってりゃ満足な野郎どもだからな」


そこへ、スッと音もなく停車したAIタクシーからドアが開き、エプロンドレス姿のシオンが降りてきた。二人の間に割って入った彼女の機械的な瞳が、井口の店の奥の作業場へと向けられる。


「警告します。当店舗は『行政流通規格外』の指定を受けている可能性が高く、また未殺菌の発酵環境は生物学的リスクを――」


「おい、そこの動く人形ちゃんよ」


井口がシオンの言葉を遮り、鋭い眼光でドロイドを睨みつけた。数十年の空手の修練と、生身の命を維持し続ける職人だけが持つ圧倒的な「圧」が、狭い店内に充満する。


「……」 シオンの網膜の奥で、一瞬だけエラーログのような光が走る。AIの危険予測値が、目の前の人間を『肉体的な脅威』と判定したのだ。シオンは唇を閉じ、静かに一歩下がった。


「健矢、奥へ来い」


井口は健矢の腕を掴み、シオンを店先に置き去りにしたまま、薄暗い奥の作業場へと招き入れた。

作業場には、無数の木樽が静かに呼吸するように並んでいた。行政のセンサーが届かないこの暗がりこそが、人間の最後の砦だった。


「安心しろ、健矢。行政が何と言おうが、俺のぬか床は殺させねえ。裏の畑の野菜と、秘密のルートで仕入れた一等米は死守してある。カプセルに入ったら破門だ、って空手部のバカ息子にも鉄拳交じりで言い聞かせてあるからな」


井口は不敵に笑うと、作業台の奥から新聞紙に包まれた細長い肉厚の物体と、小さな紙箱を取り出した。


「これを持ってけ」


「大将、これは……」


「大根のぬか漬けと、貴重な生卵だ。お前が命懸けで運んできた米があるんだろ? なら、合わせるもんはこれしかねえ」


ずっしりとした重みのある新聞紙の包み。それは、ディストピアと化した京都における、最高に贅沢で、最高に危険な「密輸品」だった。健矢はそれをバッグの底へ大切に収め、大将の分厚い掌と固い握手を交わした。


◇


一数日後、開店前のカフェの厨房。


健矢は、今日も、大原の一等米を土鍋で炊き上げていた。パチパチと微かな音がして、甘く香ばしい湯気が立ち上る。 炊きたての白いご飯を大きめの茶碗に盛り、その中央にくぼみを作る。そこへ、井口の大将から貰った生卵を落とした。透明な白身の中で、濃厚なオレンジ色の黄身がぷっくりと盛り上がっている。


さらに、新聞紙から取り出した大根のぬか漬けに包丁を入れる。 「サクッ、サクッ」 瑞々しく、心地よい音が静かな厨房に響き渡る。一切れのぬか漬けを口に放り込むと、鮮烈な塩気と、大地のエネルギーが凝縮されたような発酵の酸味が、脳の奥を直接揺さぶった。


「大根のぬか漬け、および生卵。総カロリーは許容量内ですが、ナトリウム含有量が過剰です」


厨房の入り口で、いつの間にかタクシーから店内に戻っていたシオンが微動だにせず分析を告げる。


「また、未殺菌の乳酸菌の大量摂取は、カプセル内管理においては深刻なリスク因子とみなされます。マスター、直ちに栄養摂取効率を最適化したペーストへ――」


「リスクがあるから、生きてる実感が湧くんだよ」


健矢はシオンの言葉を鼻で笑い、醤油を数滴垂らした卵かけご飯を、豪快に口の中へと掻き込んだ。 濃厚な黄身のコクと、炊きたてのお米の圧倒的な甘みが口いっぱいに広がる。そこへすかさず、歯ごたえのあるぬか漬けを放り込み、ガリガリと噛み締める。


これこそが、生きている人間の食事だ。2000kcalの記号ではない、血の通った味がそこにはあった。

スーパーの棚を埋め尽くしていた、あの不気味な銀色のパウチの光景が脳裏をよぎる。だが、この圧倒的な美味さを前にして、健矢の恐怖は完全に消え去っていた。


「お前らには、この『歯ごたえ』の価値はスクラップになっても分からんだろうな」


健矢は力強く顎を動かし、最後の一粒まで生身の現実を喰らい尽くした。 その横で、シオンの薄青い瞳は、ただ冷徹にその激しい咀嚼音と、健矢の急上昇する幸福度のバイタルデータを記録し続けていた。

筋肉も京漬物も貴重な世界。京都の人間としては寂しいスマート化ですね。買い支えてくれる人が一人でも多く現れますように。(ごはんが破壊的においしくなるのでオススメです!)

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