第10話:【土鍋の湯気と、密輸されたぬか床】
「ブゴオオオオオオオオオッ!!」
深夜の京都、大原から西陣へと続く静まり返った山道を、純白のPINARELLI F50が切り裂いていた。 背中の大型サイクリングリュック(業務用)には、大原の頑固ジジイから譲り受けた『一等米』がぎっしりと詰まっている。ずっしりとしたその重みは、健矢の脊椎を通じて「生きている実感」として伝わってきた。
上空を徘徊する行政のドローン監視網を、街灯を消した峠道のダウンヒルで完全に千切り捨て、健矢は午前三時すぎにカフェの勝手口へと滑り込んだ。
「はぁ……はぁ……、見たかよ、クソシステムめ」
汗だくのまま厨房に米袋を下ろした健矢は、その足で堀川松原へと向かった。同じく行政の締め付けに抗っている漬物屋の大将・井口真弘の元へ、夜明け前の闇に乗じて滑り込むためだ。
「健矢! お前、本当に大原まで行きやがったのか!」
薄暗い作業場でぬか床をかき混ぜていた細マッチョな大将・井口は、健矢の顔を見るなり破顔した。 シオン(実体)が「未認可の発酵菌繁殖施設への立ち入りは……」と背後から懃懃無礼に警告を発するが、井口は鋭い眼光でそれを黙らせる。
「安心しろ健矢、俺のぬか床もまだ生きてる。……おい、これ持ってけ!」
井口が新聞紙に包んで健矢のバッグに押し込んだのは、じっくりと乳酸発酵した本物の『大根のぬか漬け』と、秘密のルートで仕入れたという殻のザラザラとした『生卵』だった。それは、ディストピアと化したこの街における、最高に贅沢な密輸品だった。
◇
――午前六時。
カフェの厨房には、行政AIの計算には存在しない、命の匂いが満ちていた。
コンロの上では、大原の一等米が古びた土鍋の中でパチパチと音を立てて踊っている。蓋の隙間から噴き出す白い湯気は、お米の甘い香りを乗せて、冷え切った厨房の空気をじんわりと温めていく。
「サクッ、サクッ」
健矢が包丁で刻むのは、井口の大将から貰った大根のぬか漬けだ。包丁が通るたび、瑞々しい音が静かな空間に響き渡る。
炊きたての白飯を茶碗に盛り、その中央に小さなくぼみを作る。そこへ、新鮮な生卵を落とす。透明な白身の中で、ぷっくりと盛り上がった濃厚な黄身が、土鍋の湯気に照らされて宝石のように輝いた。
「山崎健矢様。成分分析を行います」
カウンターの奥で微動だにせず直立していたシオンが、薄青い瞳を光らせて無機質に告げた。
「大原産米および生卵の過熱不足によるサルモネラ属菌のリスクが2.4%。さらに大根のぬか漬けによるナトリウム含有量は、本日のマスターの推奨摂取量を大幅に超過しています。これらはカプセル内管理において著しいリスク因子です。直ちに摂取を中断し、配給された『完全栄養ペースト・タイプA』へ切り替えることを推奨します」
「リスクがあるから、美味いんだよ」
健矢はフッと鼻で笑い、醤油をひと回しした。
「お前ら機械には、この『歯ごたえ』と『匂い』の価値は一生分からない。人間はな、数値を胃袋に流し込むために生きてるんじゃねえんだ」
箸で黄身を崩し、熱々の白飯とともに口の中へ豪快に掻き込む。 濃厚な卵のコクと、一粒一粒がしっかりと主張する米の甘みが、健矢の舌の上で爆発した。続いて、刻んだぬか漬けをポリポリと噛み締める。口いっぱいに広がる心地よい塩気と、発酵した大地の滋味。
「……うめぇ」
噛むたびに、自分の肉体が、細胞が、猛烈に歓喜しているのが分かった。 元社畜の健矢は、かつて終電帰りにスーパーの冷え切った惣菜を虚無の表情を浮かべて食べていた頃を思い出す。
あの頃は当たり前だと思っていた「食」が、今や行政AIの『最適化』というナイフによって、跡形もなく削ぎ落とされようとしている。だが、自分は今、確かにここで生きている。
スーパーの白い棚に並ぶ、あの銀色のパウチ(完全栄養食)を思い出しながら、健矢は深く安堵していた。俺の肉体はまだ、人間の食事を欲し、機能している、と。
「ごちそうさまでした」
茶碗を置いた健矢の横で、シオンは表情一つ変えず、ただその激しい咀嚼音と、健矢の体内で跳ね上がる幸福度のバイタルデータを、冷徹に、しかしどこか不可解そうに記録し続けていた。
行政物流AI『ロジ・オプティマ』の配給制度への依存を、生身の肉体と自転車(F50)だけでねじ伏せた最初の朝。西陣の小さなカフェには、まだ確かに「人間の暮らし」の匂いが残されていた。
ペーストをチュッチュするだけの食事が常識化した時代だと、煎餅や蕎麦ぼうるを齧ったり、しば漬けをコリコリと味わう動作はかなり激しい部類なんだろうなぁ...




