第9話:【ロードバイクの出撃、西陣から大原の農地へ】
深夜二十三時四十五分。
街が完全に死に絶えた頃、西陣のカフェの勝手口が音もなく開いた。
健矢は漆黒のサイクルウェアに身を包み、鋭い眼光で夜の闇を睨みつけていた。その傍らには、暗闇の中でも怪しいほどの存在感を放つ純白のPINARELLI F50が、静かにその出撃の時を待っている。
背負った大型のサイクリングリュック(業務用)には、三十キログラムの米俵を括り付けるための補強ベルトが仕込まれていた。システムを介さない、完全なる肉体による密輸。これが健矢の選んだ反逆だった。
「マスター、警告します」
背後から、体温のない声が響いた。
常夜灯も消された厨房の闇からシオンが音もなく姿を現す。そのガラスの双眸が、健矢の装備を冷徹にスキャンしていた。
「現在、京都市内は『夜間不要不急外出禁止令』が発令されています。さらに、大原方面へのルートは高低差250メートル以上の厳しい峠道であり、未承認の長距離肉体運動は、あなたの生存確率を著しく低下させます。直ちにその非効率な出撃を中止してください」
「何度言ったら理解できるんだ、このママチャリめ」
健矢はF50のサドルに手をかけ、シオンを振り返ることなく冷たく言い放った。
「システムが運ばないなら、俺の足で運ぶ。合理性だの安全だので、俺の食い扶持とプライドを勝手に計算から除外するな」
「理解不能です。肉体の限界を超えた運動によるカロリー損失は――」
「お前の演算に、人間の意地ってやつは組み込まれてないらしいな」
健矢は勝手口から純白のF50と共に路地へと滑り出た。
サドルに跨り、ビンディングペダルを小気味よい金属音と共に固定する。
「見ていろ、シオン。お前たちの小綺麗なデータが、生身の踏力にちぎられる瞬間をな」
「マスター、待ちなさ――」
シオンの制止の声を置き去りに、健矢はペダルを強く踏み込んだ。
某国内有力メーカーの誇る「TR700」カーボンフレームが健矢の爆発的な踏力を一滴のロスもなく推進力へと変換し、純白の車体は夜の闇へと鋭く弾け飛んだ。
西陣の細い路地を抜け、烏丸通を北上する。
上空からは、行政の街頭監視ドローンが発するブーンという不快な羽音が絶え間なく降り注いでいた。網膜VR端末の視界には、次々と警告の赤文字がポップアップする。
【警告:未承認の高速移動物体を検知。即座に停止し、IDを提示してください】
「誰が止まるか……ッ!」
健矢は下ハンドルを深く握り込み、さらにギヤをトップへと叩き込んだ。
時速はまたたく間に四十キロメートルを超え、夜風が刃物のように頬を切り裂く。背後から二機の監視ドローンが、サーチライトの白い光を放ちながら追尾してくるのが分かった。
(旧産大経由!大原への登り口、上賀茂ゴルフ場の交差点まであと三分……!)
心臓が太鼓のように高鳴り、肺が冷たい夜気を狂ったように吸い込む。
どれだけドローンが追ってこようとも、山に入ればこちらの勝ちだ。
木々が遮る険しい激坂のワインディングロードにおいて、バッテリー効率と障害物回避を最優先する行政の凡庸なドローンなど、限界まで研ぎ澄まされた人間が演じるダウンヒルとヒルクライムの敵ではない。
ギチ、ギチ、とチェーンが悲鳴のような音を立てて駆動する。
網膜の警告灯が激しく明滅し、脳内からはシオンの遠隔音声が「マスター、心拍数が危険域に達しています」と警告を送り続けてくる。
だが、健矢の唇は不敵に歪んでいた。
太ももを襲う灼熱の痛みこそが、今、彼が世界の歯車に抗って生きている絶対の証だった。
「大原の米は、絶対に諦めねえ……!」
純白のF50は闇を切り裂く一筋の閃光となり、背後のサーチライトをぐんぐんと引き離しながら、京都の北にそびえる漆黒の峠道へと猛然と突入していった。
実は、私が営んでいるカフェも.....
大原産ではありませんが、
こだわりの京北産・特別栽培米を提供しています!




