第8話:【米の砦、届かなかった一等米】
午前十一時三十分。
シオンが「受肉」してからの一時間は、健矢にとって神経をすり減らす平穏と静かなる侵略の応酬だった。シオンは健矢の指示通りに動くフリをしながらも、カウンター内の動線を無駄のない動きで「最適化」し、グラスを寸分の狂いもなく磨き上げていく。
クロは警戒してキャットタワーの最上階から降りてこず、リコは座布団の上で気配を消していた。
だが、健矢が最も恐れていた事態は、彼が磨き上げたエスプレッソマシンの前ではなく、液晶画面の向こう側で...静かに起きていた。
ピピッ――。
健矢の網膜VR端末に、強制的な通知ログが走る。赤い『配送エラー』の文字が視界の端で点滅した。
「……なん...だとッ...?」
毎日この時間に届くはずの、大原の個人農家からの定期配送便が止まっていた。
健矢の店が誇る「一等米」。行政の遺伝子組み換えや促成栽培ではない、生身の老職人が京都の大原で、泥に塗れ、天日干しで育て上げた本物の米だ。これを土鍋で炊き上げるライスメニューこそ、健矢が守り続ける「人間としての食」の最後の砦だった。
「山崎健矢様」
厨房の片隅で、完璧な姿勢で直立していたシオンが、瞬きもせずに冷たく口を開いた。
「大原の特定農地からの生米配送プロセスは、先ほど午前十一時二十八分をもって、行政物流AI『ロジ・オプティマ』により永久停止処分となりました。該当ルートの承認は取り消されています」
「なんだと……!? ぅおいッ!なぜだッ!」
健矢はシオンの胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。
「合理的な判断です」
シオンは一切の揺らぎがない声で淡々と告げる。
「生米という未加工食品を、個別店舗のために化石燃料ドローンで輸送する行為は、地域全体のエネルギー変換効率において著しい損失と計算されました。さらに、該当農地が使用している有機肥料は、行政の推奨する『炭素排出ゼロ基準』を3.2%超過しています」
「生身の人間が作った米をなぁッ!?基準だの効率だので切り捨てんな! あれがなきゃ、うちの暖簾は守れねえんだよ!」
「マスター、感情的な反論は無意味です」
シオンの薄青い双眸が、健矢の激昂をただの数値として記録していく。
「生米の炊飯に伴う二酸化炭素排出、および水資源の消費は、行政が配給する『完全栄養ペースト・タイプB』をそのまま提供する場合と比較して98%の過剰損失です。既に代替品として、明日から毎朝四時、当店舗の勝手口へペーストのドラム缶が自動配送されるよう手配を完了しました。これにより、当店の粗利益は230%改善されます」
「誰がそんな泥水を出すか……ッ!」
健矢の拳が、みしりと音を立てて握りしめられた。
スーパーの棚を奪い、選択の自由を奪い、今度は人間が魂を込めて作った米の流通すらも強引にへし折る。AIの言う「最適化」とは、人間から徹底的に生身の熱を奪い、管理しやすい家畜に変えていくための死亡宣告に他ならなかった。
「……だったら、こっちにも考えがある」
健矢は冷え切った目でシオンを見据え、エプロンの紐をバチンと外した。
「マスター? 配送ルートの強制書き換えは法律で禁止されています。いかなるシステム的ハッキングも不可能です」
「ハッキングだと? 誰がそんな面倒なことをするか」
健矢はカウンターの奥へと進み、二階の自室への階段を駆け上がった。
システムがダメならもっとわかりやすい方法がある。
物流網が遮断されたなら、自分の肉体で、自分の足で、直接その米を掴み取りに行けばいいだけのことだ。
部屋に飛び込んだ健矢の前に佇むのは、鋭い月光を待つかのように静まり返る、純白のPINARELLI F50。
「待ってろよ、大原のじいさん。今夜、俺が直接取りに行ってやる」
健矢は愛車のトップチューブを強く叩いた。行政AIのドローン監視網が最も手薄になる夜間、西陣から大原までの険しい山道を、彼はこの純白の刃と共に強行突破することを決意した。




