98:実家切る
――旧領、フェルディス家の屋敷前。
夕方。
沈みゆく陽光が、長く伸びた建物の影を地面に焼き付けている。
空気は重い。
湿り気を帯びた風が、かつての権威の残滓を撫でては通り過ぎていく。
門は閉じている。
だが、その鉄柵には錆が浮き、彫刻の一部は欠け落ちている。
古い。
かつての威容はなく、ただ維持することさえ放棄されたかのように放置されている。
止まっている。
この敷地の内側だけ、時間が死んだように停滞していた。
アルトは門の前に立つ。
動かない。
その瞳は、郷愁も憎悪も映し出さない。ただ、そこにある「不全」を冷徹に捉えている。
後ろに、三人。
アンジェリカ、エルディア、リュミエラ。
彼女たちは、一歩引いた位置でアルトの背中を支えている。
距離は一定。
一分もズレない。もはや言葉にするまでもない、絶対的な信頼の形。
軋む音を立てて、門が開く。
中から一人の男が現れた。
男。父。フェルディス家の現当主。
顔には隠しきれない疲れが刻まれている。
だが、その姿勢だけは崩していない。
かつての栄光にしがみつくように、背筋を伸ばし、顎を引いている。
「……戻ったか」
低い声。
感情を厚い皮膜で覆い隠し、息子を、あるいは一人の男を見据える。
アルトは答えない。
視線だけを動かし、屋敷の全体を走査する。
人の気配。
極めて少ない。
庭は荒れ、窓の多くは閉ざされたまま。
中で何かが動いている様子はない。
止まっている。
外の関所や街で見た、あの死に体の構造と同じ。
父が言葉を継ぐ。
「話は、聞いている」
一拍。
「伯爵、だそうだな」
軽く、突き放すような言い方。
祝福ではない。
ましてや息子を誇る言葉でもない。
ただ、自分を追い越していった「事実」を無理やり飲み込もうとする、困惑の確認。
アルト
「そうだ」
短い、肯定。
それで、会話の前提は終わる。
沈黙。
夕闇が、二人の間に壁を築くように深まっていく。
父が一歩、前へ出た。
かつての支配者としての距離。
「ならば――。フェルディス家の再興のために、その力を、位を――」
言いかける。
だが、言葉が途中で止まる。
アルトの瞳に宿る、あまりに無機質な光。
それが、自分の言葉をただの「雑音」として処理していることに気づいたからだ。
言葉を選ぶ。
だが、その一瞬の迷いが、致命的な遅れとなる。
アルトが、先に言葉を放った。
「切る」
短い。
はっきりと。
迷いの一分子さえ混じらない、純粋な決断。
父が、固まる。
一瞬。
あまりに直截な拒絶に、理解が追いつかない。
「……何を、だ」
掠れた問い。
アルトは、表情を変えずに答える。
「家との関係だ」
短い。
「機能していない。ここは、すべてが死んでいる」
一拍。
「流れを止める。ならば、切るだけだ」
それだけ。
理由としては、これ以上なく十分だった。
父は、言葉を失う。
逆上して怒鳴ることも、当主として否定することもできない。
なぜなら、自分でも分かっていたからだ。
この家が、この領地が、何も生み出さず、ただ過去の遺産を食い潰して止まっていることを。
その事実を息子に、最も残酷な形で突きつけられた。
「待て」
声が出る。
初めて、取り乱したような強さが混じる。
「それでは、家が……フェルディスの名が、消えてしまう」
必死に続けようとする。
家系の存続。名誉。歴史。
だが、アルトはそれらを聞き流す。
「外す」
短く。
決定。
一人の役人を外したように。
一つの詰まりを排除したように。
流れを阻害する「家」という名の障害を、自らの視界から物理的に消し去る。
エルディアが、冷ややかに一言を添えた。
「妥当だわ。止まったものは、捨て置かれるのがこの世界の理よ」
リュミエラも何も言わない。
だが、その瞳には同情ではなく、決定を受け入れた静かな覚悟がある。
彼女も、アルトを止めようとはしなかった。
アンジェリカは、静かにその光景を見つめている。
騎士として、あるいは同じ貴族として、家を切り捨てる痛みを、情を知っている。
だが、判断は変わらない。
アンジェリカもまた、流れを止める不純物を許さない「前」の一人だからだ。
父が一歩、さらに詰め寄ろうとする。
「お前は……わしの息子ではないのか」
言葉が詰まる。
親として。
当主として。
どちらの言葉も、今の彼には重すぎる。
遅れているのだ。
時代からも、流れからも、そして目の前の息子からも。
その「遅れ」こそが、すべての終わりを告げていた。
アルトは、門を越えない。
中に入る必要がない。
用件は、この境界線の外側ですべて完結した。
内側に入れば、自分たちまでこの停滞に飲み込まれ、速度を削がれることになる。
それを、彼は本能で避けていた。
「ここは、止まっている」
短い、宣告。
「だから、切る」
それだけ。
父は、動けない。
去ろうとする息子の背中を追うことも、引き止めるために腕を伸ばすこともできない。
その瞬間に何をすべきか、自分一人では決めることができない。
それが、彼がここで切り離されるべき、唯一にして最大の理由。
アルトは、一歩も躊躇わずに背を向けた。
歩き出す。
止まらない。
三人も、それに続く。
影を並べ、いつものリズムを刻んで。
振り返る必要はない。
門は、開いたままだ。
だが、誰もそれを閉めに来ない。
中の時間は、そのまま、瓦礫や錆と共に風化していく。
変わらない。
外だけが、圧倒的な速度で進んでいく。
かつて自分を縛っていた場所を、ただの「過去の停滞」として切り捨て、四人は新しい流れの中へと戻っていった。
情ではなく流れで判断したことで、止まっている実家との関係は迷いなく切り離された。




