4:商人登場(価値の話)
アルトが「回収する」と言い放った直後、視界を埋め尽くしていた魔物の群れが、文字通り掻き消えるように消失した。
数十頭の骸が転がっていたはずの広場には、ただ踏み荒らされた土と、わずかな血の跡だけが残されている。異常な静寂が村を包み込んだ。逃げ惑っていた村人たちは、その場に釘付けになったまま、自分たちの眼前に広がる光景が現実のものか測りかねている。
そんな人々の硬直を余所に、アルトは軽く土を払い、何事もなかったかのようにアダムスの元へ戻ってきた。
「……全部、入ったのか?」
アダムスが引きつった笑顔で問いかける。商売人として多くの修羅場を潜ってきた彼ですら、今の光景は「商売」の範疇を大きく超えていた。
「ああ。鮮度が落ちる前に処理した。後で分ける」
アルトの声は相変わらず平坦だ。数分前に数十の命を奪い、その巨躯を空間の狭間に放り込んだ男とは思えないほど、その立ち振る舞いは日常に溶けている。
アダムスは震える指先で額の汗を拭い、確信を深めるように深く息を吐いた。
「いい、最高だ……。兄さん、あんたは自分がどれだけの価値を運んできたか分かっているのか? 魔物の素材、それも鮮度が完璧なまま、これだけの量が一度に市場に出る。それが何を意味するか」
「金が動くんだろ。さっきあんたが言ったことだ」
アルトは歩き出す。目的地は変わらず宿屋だ。腹が減ったという生理的な欲求の方が、今の彼にとっては数千枚の金貨の行方よりも重要だった。
「それだけじゃない! 流通が変わる。権力が変わる。この辺境の村が、一夜にして王都の目利きたちが血眼で探す供給源になるんだ。俺は、その最前線に立っている……!」
アダムスは興奮を隠しきれず、アルトの背中を追って宿の扉を潜った。
宿の中では、主人が腰を抜かしたままカウンターの裏に座り込んでいた。アルトが席に着くと、主人は震える手で木杯を差し出す。中には上等なエールが注がれていた。
「……お、お近づきの印だ。代金はいらねぇ。いや、受け取れねぇ」
「悪いな。じゃあ、ありがたく頂くよ」
アルトは一気に飲み干す。喉を通る冷たさが心地いい。
その向かいに再びアダムスが陣取った。彼はすでに懐から手帳を取り出し、羽ペンを走らせている。商人の脳内では、すでにこの村に建てるべき倉庫の規模や、護衛の雇い入れ、王都への伝令の手配までが瞬時に計算されていた。
「さて、商談の続きだ。兄さん。アルト、だったか」
「ああ」
「アルト。あんたは『全部は売らない』と言った。それは素材を加工して、自前で装備やポーションを作るためか?」
アルトはエールの泡を唇から拭い、少しだけ考えた。
「それもある。だが、一番の理由は『ストック』だ。必要な時に、必要なものを出す。市場を操作するつもりはないが、安売りする気もないからな」
その言葉を聞いた瞬間、アダムスの目が鋭く光った。単なる凄腕の狩人ではない。この男は、資源の希少性と管理の重要性を本能的に、あるいは経験的に理解している。
「恐ろしいな、あんた。……ますます気に入った」
アダムスは手帳に大きく「専売契約(暫定)」と書き込んだ。
「俺はこれから王都に一度戻る。信頼できる部下と、現金を引き連れてな。この村にアダムス商会の出張所を建てる手続きも進める。もちろん、村長への根回しも、土地の買い付けも全部俺がやる。あんたはただ、今まで通り『普通』に過ごしてくれればいい」
「ああ、任せるよ。面倒な交渉は苦手だ」
アルトがそう言うと、アダムスは上機嫌で笑い声を上げた。
「違いない。あんたがその気になれば、交渉なんてすっ飛ばして国の一つも落とせそうだからな。だが、安心しろ。俺は金儲けの天才だ。あんたの価値を、一滴も無駄にせず金に変えてやる」
アダムスが宿を出ていくと、再び村は静かになった。
夕暮れ時。窓から差し込む赤い光が、アルトの質素な剣を照らしている。
村人たちは、遠巻きに宿を眺めていた。
あの男は、自分たちを救った英雄なのか。それとも、平穏な日常を壊し、欲望の渦を呼び込む疫病神なのか。
答えはまだ出ない。
ただ一つ確かなのは、この村の乾いた土が、これから流れる莫大な金と人の熱気によって、二度と同じ姿には戻らないということだ。
アルトは運ばれてきた大皿の肉料理を、黙々と口に運ぶ。
フォレストベアの肉ではない。この村の家畜の、ごく普通の肉だ。
「……美味いな」
彼は小さく呟いた。
その「普通」の感想こそが、この激動の始まりにおける唯一の真実だった。
夜。
村外れの広場には、まだ魔物の気配が染み付いていた。
だが、そこに怯える者はもういない。
代わりに、未来の繁栄を夢見る者たちの熱気が、夜風に混じって揺れていた。
アルトは二階の部屋で、窓の外に広がる闇を見つめていた。
アイテムボックスの中では、先ほど回収した数十の素材が、機械的な正確さで解体され、分類されている。
骨、皮、肉、魔石。
それらは、明日からのアルトの日常を形作るための「部品」に過ぎない。
「さて、明日は何を狩るか」
アルトは目を閉じ、眠りについた。
明日、この村に訪れるのは、今日よりもさらに激しい変化の風だ。
だが、彼は知っている。
どんなに嵐が吹き荒れようと、自分はただ、その中心で「普通」であり続けるだけだということを。
土の道は、明日も乾いているだろう。
だがその上を歩く靴音は、少しずつ、力強く増えていくに違いない。
こうして、名もなき辺境の村は、一人の「普通」の旅人と、一人の「欲深い」商人によって、大陸の歴史の表舞台へと引き摺り出されることになった。
その第一歩は、驚くほど静かに、そして確実に踏み出されたのだ。




