5:リュミエラ登場
乾いた土の上に、リュミエラの荒い呼吸だけが響く。彼女の細い肩は、極限の疲労と恐怖で小刻みに震えていた。革の防具はあちこちが擦り切れ、その下にある肌には無数の切り傷がある。どれも致命傷ではないが、彼女がどれほどの藪を抜け、なりふり構わずここまで走ってきたかを物語っていた。
アルトは、リュミエラの震える手を見つめる。剣を握ったこともないような、白く繊細な指先。それが泥に汚れ、血を滲ませている。
「村は、ここからどれくらいだ」
アルトの問いに、リュミエラは顔を上げ、掠れた声で答えた。
「……森を抜けて、丘を越えた先です。私の足で、二時間はかかりました。でも、今なら、もっと早く……!」
「いい。俺に合わせろ」
アルトは歩幅を緩めなかった。リュミエラは必死に食らいついてくる。彼女の体力はすでに限界を越えていたが、その瞳に宿る光だけが、折れそうな足を前へと突き動かしていた。
道中、アルトは一切の無駄口を叩かなかった。ただ、周囲の気配を探り、最短のルートを選び取る。森の木々が背後へ流れていく。リュミエラの足音が次第に重くなり、呼吸が悲鳴に変わっていくのを耳にしながら、アルトは淡々と「処理」の準備を進めていた。
アイテムボックスの内部では、先ほど解体したフォレストベアの素材が組み替えられ、即席の魔力触媒へと変えられていく。アルトにとって、戦いは作業だ。情熱も憎しみもそこにはない。ただ、目の前の事象を効率的に終わらせるための算段があるだけだ。
「……アルト、さん」
リュミエラが、途切れ途切れに声を出す。
「なんで……誰も来なかったのに、あなたは……」
「さっき言っただろう。お前が来たからだ。それ以上の理由はない」
アルトは前を見据えたまま答える。
「誰かがやらなきゃいけないからやる、なんてのは三流の理屈だ。俺は、俺がやりたいからやる。それだけだ」
冷たい言葉。だが、リュミエラにはそれがどんな慰めよりも力強く響いた。この男は、彼女の「決意」という一点において、自分を対等な存在として扱っている。弱かろうが死ぬ運命にあろうが、ここに来たという事実だけを見てくれている。
やがて、丘の頂に辿り着いた。
視界が開けた先には、リュミエラが守りたかった村が広がっていた。
だが、そこにあるのは安寧ではない。立ち上る黒煙。逃げ惑う家畜。そして、村を囲むように蠢く無数の影。
「ゴブリン……それだけじゃない。オークまで……」
リュミエラが絶望に声を震わせる。その数は、先ほどの村に現れた群れを遥かに凌駕していた。組織的な動き。略奪というよりは、蹂源を目的とした軍勢のようだった。
「下がってろ」
アルトは短く命じた。
彼はゆっくりと丘を下り始める。剣は抜かない。ただ、右手を静かに前へと突き出した。
「ウォーターカッター。多重展開」
空気が一変する。
リュミエラの目には、アルトの周囲に無数の光る糸が現れたように見えた。それは極限まで圧縮され、刃の鋭さを備えた「水」の線だった。
アルトが指を弾く。
次の瞬間、物理法則を無視した速度で水の刃が放たれた。
「……ぎっ」
悲鳴すらまともに上がらない。村に侵入しようとしていたオークたちの首が、一斉に宙を舞った。抵抗の余地も、防御の隙もない。ただ、そこにあった命が、機械的に切り離されていく。
アルトは止まらない。
群れの中央へと歩を進めながら、次々と魔法を起動させる。
火も、雷も使わない。ただの「水」という、どこにでもある物質を、彼は絶対的な死の道具へと変えていく。
ゴブリンの群れが、パニックに陥った。
目の前の男は、戦っているのではない。ただ、そこに存在するだけで、周囲の生命を消去している。
「リュミエラ」
アルトが名前を呼ぶ。
彼女は、血の海と化した惨状に腰を抜かしながらも、必死に彼を見た。
「村の中へ入れ。動けるやつを集めて、火を消させろ。残りの処理は俺がやる」
「……あ、はい!」
リュミエラは震える足で立ち上がり、村へと駆け出した。
彼女の背中を見送りながら、アルトは再び魔力の密度を上げる。
ボックスの中には、まだ十分な素材がある。
処理速度を上げれば、あと数分で全て終わるだろう。
「……効率が悪いな」
アルトは独り言を呟き、大きく手を振り下ろした。
空中に滞留していた水の刃が、雨のように村の外縁に降り注ぐ。
魔物たちの断末魔が、一瞬だけ響き、そして消えた。
一時間後。
村の火は消し止められ、生き残った村人たちが広場に集まっていた。
皆、茫然自失の体で、血の匂いが漂う空を見上げている。
アルトは村の入り口にある古びた井戸に腰掛け、剣の鞘を布で拭いていた。
そこへ、リュミエラが歩み寄ってくる。彼女の顔は煤で汚れ、あちこちが返り血を浴びていたが、その瞳には確かな生の実感が宿っていた。
「終わりました……。皆、助かりました」
彼女はアルトの前で膝をつき、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。アルトさん。あなたが……あなたが来てくれなければ、この村は今頃……」
「礼を言われる筋合いはない。俺は素材を回収しただけだ」
アルトは立ち上がり、背後の惨状を一瞥した。
すでに「回収」は終わっている。魔物たちの骸は消え、そこにはただ、平穏を取り戻しつつある静かな村の風景があるだけだ。
「これから、どうするんだ」
アルトの問いに、リュミエラは顔を上げ、少しだけ迷いを見せた。だが、すぐにその迷いは消える。
「村を立て直します。それから……私も、もっと強くなりたい。あなたのように、誰かを助けられるくらいに」
「……そうか」
アルトは歩き出す。
村の出口へ向かう彼の背中を、リュミエラが慌てて追ってきた。
「また、会えますか」
アルトは足を止めず、軽く手を上げた。
「縁があればな」
その言葉が、肯定なのか否定なのか、彼女には分からなかった。
だが、彼が歩いていくその道の先に、いつか自分も辿り着きたいと、心から思った。
アルトは一人、夕闇の迫る道を歩いていく。
背後には、彼が救った二つの村。
前方には、まだ見ぬ未知の土地。
彼の足取りは、どこまでも軽く、そして無慈悲なほどに揺るぎない。
ただの旅人。
そう見える程度には、彼はやはり、何も主張していなかった。
弱いまま、それでも進む者を、アルトは見捨てなかった。




