2:弱い騎士前に出て即死
アルトが剣の柄に指をかけた瞬間、空気が凍りついた。
それは物理的な冷気ではない。あまりにも鋭く、研ぎ澄まされた殺意が、周囲の湿気や音さえも吸い込んでしまったかのような静寂だった。
魔物は、さきほど騎士を薙ぎ倒した勢いのまま、次の獲物を求めて咆哮を上げた。三体。どれもが筋骨逞しく、どす黒い体毛に覆われている。その眼には知性はなく、ただ食欲と破壊衝動だけがぎらついていた。
村人たちは腰を抜かし、あるいは震えながらその場に釘付けになっている。
倒れた騎士の側では、一人の女が悲鳴を上げようとして、声すら出せずに口を押さえていた。
アルトは、まるで散歩にでも出るような足取りで、騎士の横を通り過ぎる。
「……死んじゃいない。運が良かったな」
地面に転がる騎士を一瞥し、短く言った。
騎士の鎧は胸元が大きく裂けていたが、致命傷は免れている。だが、意識はない。
アルトの前に、一体の魔物が立ちはだかる。
丸太のような腕を振り上げ、一気に叩きつける。
「あぶない!」
誰かが叫んだ。
凄まじい衝撃音が響き、土煙が舞い上がる。
だが、そこにアルトの姿はなかった。
魔物が怪訝そうに腕を上げたときには、アルトはその懐に滑り込んでいた。
剣はまだ、鞘の中にある。
「遅い」
左手で魔物の肘を軽く叩き、軌道を逸らす。
流れるような動作で右手を柄に添え、わずかに引き抜いた。
キィィィィン、と高い音が一つ。
抜刀から納刀まで、瞬きをする間もなかった。
アルトが魔物の背後に回り込んだとき、その巨体は音もなく縦に割れ、左右に崩れ落ちた。
血飛沫さえ、彼の服を汚すことはない。
残り二体。
仲間が一瞬で肉塊に変えられたのを理解したのか、魔物たちの動きが止まる。
彼らは本能的に悟った。目の前にいるのは、ただの旅人ではない。自分たちが今まで出会ったどんな捕食者よりも、冷酷で絶対的な死神だということを。
「逃げてもいいぞ」
アルトは鞘に手を置いたまま、淡々と言った。
声に怒りはない。ただ、作業をこなす職人のような平坦さ。
魔物たちは、恐怖をかき消すように同時に襲いかかった。
左右からの挟撃。逃げ場を塞ぎ、鋭い爪がアルトの頭部と胴体を狙う。
アルトは一歩も引かなかった。
逆に、前へ。
右側の魔物の懐へ入り込みながら、今度は鞘ごと相手の喉元を突き上げる。
ごきり、と嫌な音がして魔物の首が不自然な方向に曲がった。
そのまま死体を盾にし、左側から迫る爪をやり過ごす。
流れるような体術。
無駄な筋力は一切使わず、相手の力と自重を利用して、最小限の動きで最大の結果を出す。
「これで最後か」
アルトは動かなくなった魔物を蹴り飛ばし、最後の一体と対峙した。
生き残った一体は、すでに戦意を喪失していた。後ずさり、森の中へ逃げ込もうとする。
だが、アルトは逃がさない。
彼が地を蹴った。
砂塵が舞う。
次の瞬間には、魔物の背後に音もなく着地していた。
「……終わりだ」
今度は、剣を抜くことすらなかった。
逆手に握った鞘の末端を、魔物の項に正確に叩き込む。
それだけで、巨体は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
静寂が戻る。
村の中央。倒れた三体の魔物。
そして、その中心に立つ一人の男。
アルトは乱れた息一つ吐かず、腰の剣の座りを確認した。
再び、ただの「主張しない旅人」の顔に戻っている。
村人たちは、何が起きたのか理解できず、呆然と彼を見つめていた。
井戸で水をくれた女も、宿の主人も、まるで化け物を見るような目で彼を見ている。
アルトはそれらを気にする様子もなく、倒れている騎士の元へ歩み寄った。
懐から小さな瓶を取り出し、騎士の傷口に無造作に振りかける。
「う……あ……」
騎士が薄く目を開けた。
ぼやけた視界の中で、自分を見下ろすアルトの姿を捉える。
「……魔物は?」
「片付いた。あんたの剣が少しだけ時間を稼いでくれたおかげだ。感謝しな」
嘘だった。
実際には騎士の攻撃は何の役にも立っていなかったが、アルトは平然とそう言った。
誇りを守ってやるのも、年長者の仕事だとでも思っているのかもしれない。
「そうか……良かった……」
騎士は安堵したように再び目を閉じ、深い眠りに落ちた。
村人たちが、おそるおそる集まってくる。
感謝の言葉を述べようとする者、畏怖のあまり遠巻きに見る者。
先ほどまで静かだった村は、別の意味で騒がしくなろうとしていた。
アルトは、それらが自分に届く前に、宿の主人に向かって手を上げた。
「悪い。やっぱり一泊はキャンセルだ。落ち着いて寝られそうにない」
「え、ああ……でも、あんた、命の恩人だ……!」
「いいよ、そういうのは」
アルトは足早に宿から自分の袋を回収してくると、そのまま村の出口へと歩き出した。
引き留める声もあったが、彼は一度も足を止めない。
村の入り口。
歪んだ柵と、低い杭。
道端では、騒ぎに驚いて起きた犬が、また欠伸をして丸くなっていた。
アルトは一度だけ森の奥を見つめた。
空気の揺らぎは、もうない。
森は再び、深い沈黙に包まれている。
「……さて、次の街までどれくらいかかるかな」
独り言を呟きながら、彼は乾いた土の道を歩き出す。
踏むたびに、細かな砂が靴にまとわりつく。
その背中には、英雄の華々しさも、剣士の鋭さも、何一つ残っていない。
ただの、どこにでもいる旅人。
太陽は西に傾き始め、彼の影を長く伸ばしていた。
一人の男が歩いていく。
荷は軽い。背に簡素な袋。腰に剣。
やがてその姿は、陽炎の向こうへと消えていった。
残されたのは、乾いた道と、平穏を取り戻した小さな村。
そして、誰もその正体を知ることのなかった、一人の旅人の記憶だけだった。




