1:アルト村到着(気さく)
乾いた土の匂いが鼻をついた。
アルトは宿の薄暗い土間に立ち、差し出された鍵を受け取る。二階の角部屋。階段を上がると、床板が軋む音がやけに響いた。
部屋に入る。袋を壁際に置き、剣を枕元へ。
窓を開けると、井戸の周りで女たちが話している。平和な光景だった。
だがアルトの視線は、そこにはない。
森の境界。
(……いるな)
空気の揺らぎ。獣でも人でもない、粘つくような気配。
アルトはベッドに倒れ込んだ。
「さて、どうするか」
天井を見ながら指先でリズムを刻む。
守る壁もない。戦える人間もいない。
あそこから溢れたら、この村は終わる。
――一時間後。
アルトは宿の食堂に降りた。
「飯と酒」
短く言う。
出てきたのは、薄いスープと固いパン、酸味の強い酒。
アルトは文句も言わず食べる。
「静かな村だな」
主人に声をかける。
「ああ、何もないのが取り柄さ。森も最近は誰も入らねえ。気味が悪いってな」
「家畜が減ってるとかは?」
「……ああ、まあ、ちょっとな。狼だろうよ」
危機感はない。
アルトはそれ以上言わなかった。
夜。
アルトは音もなく窓から外に出た。
屋根を伝い、地面へ。
そのまま森へ向かう。
境界を越えた瞬間、空気が変わる。
湿気。腐臭。
そして――拍動。
「出てこい」
低く言う。
茂みが揺れた。
現れたのは四腕の魔物。濁った目。よだれ。
アルトは剣を抜いた。
魔物が跳ぶ。
――遅い。
半歩ずらす。踏み込む。
一閃。
魔物は縦に割れた。
血が飛ぶ前に、アルトは下がっている。
「……浅いな」
周囲にまだ気配がある。
だが、ここで全部やる必要はない。
アルトは踵を返した。
翌朝。
村は何も変わらない。
井戸、笑い声、乾いた道。
誰も知らない。
アルトは宿代を払う。
「もう行くのか?」
「ああ」
外へ出る。
そこで――止まる。
ほんの一瞬だけ。
「……森、しばらく入るなよ」
振り返らずに言う。
主人が顔をしかめる。
「やっぱり何かいるのか?」
アルトは肩をすくめた。
「もう大物はいない。けど、流れは悪いままだ」
沈黙。
主人が低く言う。
「……また出るのか?」
「出るな」
短い。
空気が変わる。
主人が息を吐く。
「……どうすりゃいい」
アルトはそのまま言う。
「流せ」
一拍。
「素材は俺が持っていく。代わりに――」
少しだけ間。
「この村、俺の流れに乗せる」
主人が目を細める。
「……それは、どういう意味だ」
「簡単だ。俺が回す」
沈黙。
「……断ったら?」
アルトは即答する。
「次は助けない」
静寂。
風の音だけが通る。
主人は視線を落とし、数秒考え――
頷いた。
「……分かった。頼む」
「……一つ言っとく。昨日のは、全部処理してない」
アルトは軽く手を振る。
「じゃあ決まりだ」
そのまま歩き出す。
振り返らない。
背後では、村の空気が少しだけ変わっていた。
何も知らないままの平和ではない。
――選ばれた平穏だ。
アルトの足取りは軽い。
ただの旅人のように。
だが、その一歩で、流れは変わっていた。
その日、村の外れで、誰にも気づかれない“もう一つの動き”が始まっていた。




