第十一話 誰もいない外
決行の夜は、やけに静かだった。
風も、ほとんど吹いていない。
赤い線の周りだけ、時間が固まっているみたいに、誰も大きな声を出さなかった。
広場の端。
志織は、配電盤の前にいた。
「じゃ、落とすよ」
誰に言うでもなくつぶやいて、スイッチに指をかける。
太いケーブルの先には、タレットの制御盤。
予備系統も、全部まとめて。
「ほんとにやるのかよ」
横で見ていた兵士が、思わず口を挟んだ。
「やらないと、線がただの絵にならないから」
志織は、淡々と返す。
「大丈夫。ここは“真っ暗にするためのスイッチ”じゃない。“誰も撃たないためのスイッチ”だから」
そう言って、彼女は最後のレバーを下ろした。
瞬間、施設の灯りがふっと落ちる。
すぐに非常灯が点く。
それでも、空気の色は明らかに変わった。
タレットの作動音が、完全に消える。
いつも夜になると耳の奥に残っていた、低いモーターの唸り。
それが、今夜だけはどこにもなかった。
◇
狙撃塔では、砂原が最後の確認をしていた。
視認装置の電源は落ちている。
銃は、分解して部品を布で包んだ。
弾倉は空で、鍵のかかった箱に入れ、その鍵をわざと配電室の床に置いた。
「撃つための道具は、これで全部“間に合わない場所”にある」
砂原は、小さく息を吐いた。
塔の窓から見える赤い線は、新しく塗られた場所で赤々としている。
その手前に、薄暗い人だかり。
「……ここに残るか?」
階段の下から、同僚の兵士が声をかけた。
「命令じゃ、俺たちも“待機”ってことになってる」
「待機はするよ」
砂原は、銃のない手でヘルメットを押さえた。
「ここじゃなくて、下で」
階段を降りる。
鉄の段差を踏むたび、足の裏に軽い震えが伝わる。
塔の外に出ると、空気が冷たく肌を刺した。
いつもなら、ここで構えるはずの銃を、彼はゆっくりと地面に置いた。
銃身が、石の上で乾いた音を立てる。
「俺は撃たない」
誰に向けたとも知れない言葉を残し、砂原は塔から離れた。
塔の窓には、もう誰もいない。
◇
監視室の奥の小部屋で、霧島は一人、無線機の前に座っていた。
ヘッドセット越しに聞こえてくるのは、遠い雑音と、時折混じる機械のノイズだけ。
“上”からの声は、今日も相変わらず顔を見せない。
机の上には、さっき届いたばかりの短い電文がある。
〈第三区隔離施設 行動観察フェーズ3へ移行〉
〈線の再定義に伴う越境行動の観察〉
〈必要と判断される場合、抑止行動を優先せよ〉
文末に、署名はない。
「……聞こえますか」
霧島は、無線に向かって静かに話し始めた。
「こちら第三区隔離施設、責任者の霧島です」
返答は、少し遅れてきた。
『聞こえる。報告を』
「タレットの送電は、不審な断線事案を受けて停止中。復旧の目処は未定です」
『復旧を急げ。抑止機能の低下は観察データに影響する』
「そうでしょうね」
霧島は、軽く笑った。
「ですが、こちらにも事情があります」
『事情?』
「……人を撃たずに済むなら、何を失ってもいい」
一瞬、通信が途切れたかと思うほど、静かになった。
『繰り返せ』
「人を撃たずに済むなら、何を失ってもいいと、私は考えています」
霧島は、自分の声を聞きながら、ゆっくりとヘッドセットを外した。
『霧島、君は――』
途中で、回線の音量を切る。
ダイヤルを回し、電源を落とした。
無線機の灯りが消える。
部屋には、何も音が残らなかった。
霧島は椅子から立ち上がると、帽子を手に取り、扉の方へ向かった。
「観察は、ここで終わりにします」
誰にともなくそう呟いて、扉を開けた。
◇
礼拝所には、灯りが一つだけ残っていた。
小さなランプ。
御子柴が、いつも祈りを始める前に火を灯す。
その灯りの前に立ち、彼はしばらく両手を組んでいた。
外のざわめきが、扉越しにわずかに届く。
「……」
祈りの言葉が、喉の奥で渦を巻く。
“守ってください”“導いてください”――そんな定型の言葉たち。
だが今夜、そのどれもが妙に薄っぺらく感じた。
外では、線を越えようとする誰かがいる。
塔では、銃を置いた兵士がいる。
医務室では、誰かが誰かの手を握っている。
祈りは、いつも“止めるための音”だった。
暴走や絶望にブレーキをかけるための、言葉の鎖。
今夜だけは、その鎖が要らない気がしてならなかった。
「……」
御子柴は、ランプに手を伸ばした。
火を消す。
細い煙が、ひと筋上がって消えた。
礼拝所は、非常灯の薄い光だけになる。
言葉も、止めた。
祈りも、止めた。
音を足すことでしか止められないものがある。
けれど、音を止めることでしか始まらないものもある。
今は、後者の番だと、御子柴は信じることにした。
胸ポケットには、結び直した赤い紐が一つ入っている。
それを指で確かめ、彼は静かに礼拝所を出た。
◇
赤い線の前に、ユウは立っていた。
足元には、塗り直されたばかりの赤が光っている。
少し内側に移動した新しい線。その手前には、古い線の欠片。
背中側には、人の気配。
誰も大声は出さないが、息づかいと、靴の擦れる音と、布の触れ合う音だけで、どれだけの視線が自分に注がれているか分かる。
「ユウ」
少し離れたところで、アヤがミオを支えて立っていた。
ミオは白いマスクをして、細い腕でユウに手を振る。
その手が震えているのは、寒さのせいだけではない。
砂原は、二人の少し後ろで周囲を見張っていた。
塔の方を一度も振り返らない。
そこがもう“見ているだけの場所”になったのを、知っているからだ。
志織は、配電室の方角から走ってきて、親指を立てた。
「落ちてる。タレット、完全に死んでる」
短く、それだけ言う。
霧島は、群衆の輪の一番後ろにいた。
帽子を脱ぎ、指先でぎゅっと握っている。
「……」
彼は、何も言わない。
“越えるな”“戻れ”――そのどちらも、今は口にしてはいけない言葉だと、ようやく分かったからだ。
「行くよ」
ユウは、自分自身に言うようにつぶやいた。
いつか頭の中で何度もシミュレーションした動き。
第一歩。
第二歩。
第三歩。
足を線にかける。
塗料はもう乾いていて、感触は普通のコンクリートと変わらない。
誰かの叫びが飛ぶかと思った。
命令の声が飛ぶかと思った。
何も、飛んでこなかった。
第一歩。
線の上に、体重が乗る。
世界は何も変わらない。
第二歩。
線の向こう側へ、身体の半分が移る。
心臓の音だけが速くなる。
第三歩。
完全に、“外側”に出る。
銃声は、鳴らなかった。
タレットも、塔も、どこからも弾は来ない。
風が少しだけ強くなり、ユウの髪を揺らす。
誰かが息を呑む音だけが、背中に届いた。
ユウは、振り返らなかった。
振り返ったら、戻りたくなると思ったからだ。
彼は、まっすぐ補給庫へ向かって歩き出した。
◇
補給庫の扉は、思っていたより軽かった。
錆びついた金属のノブを回すと、きい、と乾いた音を立てて開く。
中は、ひんやりとしていた。
外よりも空気が冷たい。
棚が、ずらりと並んでいる。
薬品を入れるはずの箱。
救急用のバッグ。
缶詰や水のタンクが積まれていたスペース。
すべて、空だった。
「……どういう」
ユウは、奥へ進む。
棚板には、かすかに箱の跡が残っている。
埃の薄い色と、濃い色の境目。
最近まで何かが置かれていたことだけは分かる。
でも今は、何もない。
奥の机の上に、一枚だけ紙が置かれていた。
ユウは、それを手に取る。
ペンのインクは、まだ新しい。
紙には、こう書かれていた。
〈撤収完了〉
〈観察対象:境界条件下の社会行動〉
それだけ。
署名も、印もない。
「……ふざけんなよ」
ユウの手が、紙を握りしめた。
紙は、簡単に折れ曲がる。
二つに、四つに、八つに。
胸の中で、何かが大きく崩れた。
外には、やっぱり“解決”なんてなかった。
“治る薬”も、“橋渡しの薬”すらも、もうここにはない。
あったのは、自分たちが“観察対象”だったという事実だけ。
線の内側でどれだけ喧嘩をしても、泣いても、祈っても、全部どこかで数字として記録されていた。
怒りより先に、空虚さが来た。
「……」
紙を握った手を、ゆっくりと開く。
折り目の付いた紙は、机の上に静かに戻された。
「ミオの一日を延ばすどころか、“誰かのグラフの一つ”になってたわけか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
ユウは、机から顔を上げた。
窓が一つ。
外の光が、薄く差し込んでいる。
ユウは、扉から外へ出た。
◇
風が、海の匂いを運んでいた。
潮の匂い。
錆びた鉄と、湿った土と、遠くで打ち寄せる波の音。
ユウは、施設の外側に出て、初めて“本当の外”の景色を見た。
道路は、ひび割れている。
アスファルトの隙間から、細い雑草が伸びている。
白いセンターラインはほとんど消えかけていた。
街灯のポールは、途中で折れているものもあった。
電線は途中で垂れ下がり、その先はぶつりと途切れている。
志織が言っていた“送電線の落ちた先”が、そのまま目の前に広がっていた。
建物の窓は、いくつも割れている。
中には誰もいない。
車が何台か道端に止まったまま、タイヤだけがぺしゃんこになっていた。
風に運ばれてくるのは、海の匂いだけだった。
人の匂いは、どこにもない。
「……誰も、いない」
ユウは、ぽつりと言った。
足元の砂利を踏む音だけが、耳に届く。
誰かの笑い声も、怒鳴り声も、泣き声も、ここにはない。
ここにいるのは、ただ、風と、海と、壊れかけたものたちだけ。
この世界の“外”は、思っていたよりずっと静かだった。
「こんなところに、薬なんて……」
言いかけて、ユウは口をつぐんだ。
外に“解決”はない。
それは、志織のログからうすうす分かっていたはずだ。
補給庫の紙が、それをはっきりと突きつけてきただけ。
それでも、ユウは空を見上げた。
曇っている。
雲の切れ間から、かすかに朝日がこぼれ始めていた。
彼は、深く息を吸った。
肺いっぱいに入ってくる空気は、冷たくて少ししょっぱい。
喉を通って胸に落ちていく感覚が、やけに鮮明だった。
その呼吸が、“薬”になることはない。
どれだけ吸っても、ミオの病気を治すことはできない。
彼女の発作を止めることもできない。
それでも、ユウは息を吐いた。
ここには何もない。
でも、内側にはまだ、人がいる。
アヤがいて、志織がいて、砂原がいて、御子柴がいて。
何より、ミオがいる。
ユウは、ゆっくりと振り返った。
◇
赤い線の“こちら側”――内側。
そこには、まだ人がいた。
線のすぐ手前に、アヤが立っている。
片腕でミオの身体を支え、もう片方の手で彼女のマスクを押さえていた。
ミオは、ユウを見ている。
マスクの奥で、口元が少しだけ笑っているのが分かった。
砂原は、その横で周囲を見守っていた。
塔の方角は、一度も見る必要がない。
そこにはもう“撃つ権利”は残っていないと知っているからだ。
霧島は、少し離れた場所で帽子を脱いでいた。
握り締めた帽子のつばが、皺だらけになっている。
御子柴は、胸ポケットに手を入れたまま、じっと線を見ていた。
指先で触っているのは、あの赤い紐だ。
その姿を見て、ユウは自分の足元の線を見た。
塗り直された赤。
太陽に照らされて、少しだけ色が変わり始めている。
「……」
ユウは、線の上に立った。
さっき越えてきたばかりの場所。
もう一度、その境界の真ん中に身を置く。
外は、無人のまま広い。
内側には、人がいる。
治療薬は見つからないかもしれない。
この先どれだけ歩き回っても、“解決”なんてものには出会えないかもしれない。
それでも。
線は、踏み越えられた。
タレットは沈黙し、塔は空になり、誰の銃口も、今はユウに向いていない。
越えた先で何をするか。
越えたあと何を選ぶか。
それは、もはや“上”ではなく、自分たち次第だ。
ユウは、線の外側から一歩、内側へ戻った。
そしてもう一度、外側へ足を出す。
行ったり来たりしながら、自分の足の動きだけを見つめる。
赤い線が、ただの塗料に戻っていく。
「ユウ!」
ミオの声が飛んだ。
彼女もまた、線の手前まで歩いてきていた。
アヤが慌てて支える。
「だめ。ここまで」
「見たいんだもん」
ミオは、笑いながら咳き込んだ。
「ユウが、線の上を歩いてるところ」
ユウは、ミオの方を向いた。
「……外には、何もなかったよ」
「知ってた」
ミオは、あっさりと言った。
「でも、あなたは行った。それが大事」
「何も持って帰れなかった」
「ううん」
ミオは首を振る。
「“線を越えたあなた”が戻ってきた。それで十分」
ユウは、少しだけ戸惑う。
「何それ」
「だってさ」
ミオは、目を細めた。
「あなた、最初は“線の向こうに薬があるかもしれないから行く”って言ってたけど。今はもう、“薬がなくても行く人”になってる」
言われて、ユウは自分の胸に手を当てた。
確かに、補給庫で紙を見つけたあと、頭の中から“薬”という言葉はほとんど消えていた。
代わりに残ったのは、“線を壊す”“線を無効化する”という決意だけ。
「……本当に越えるべき線は」
口から自然と、言葉がこぼれた。
「はじめから地面じゃなくて、自分の中に引かれてたんだな」
自分で言いながら、その意味が胸に落ちてくる。
外と内を分ける線。
安全と危険を分ける線。
正しさと間違いを分ける線。
それらは全部、“地面にあるもの”だと思っていた。
けれど、本当はいつだって、自分の中に線を引いていた。
“ここから先はしない”“ここから先は諦める”“ここから先は誰かに任せる”。
そう決めていたのは、自分自身だ。
その線を、今夜ようやく踏み越えた。
誰かに命じられたからでも、追い詰められたからでもなく。
自分の意志で、自分の正義の密度で。
「……線、めんどくさいね」
ミオが笑った。
「めんどくさいな」
ユウも笑う。
「でも、めんどくさくてもいい。地面の線は消せる。タレットも止められる。塔も空にできる」
ユウは、線の上にもう一度しっかりと立った。
「そのあと、自分の中の線をどうするかは――俺たちが決める」
誰かが、小さく拍手をした。
それが誰なのか、ユウには分からなかった。
ただ、風が少しだけ強く吹いて、赤い線の上の埃をさらっていった。
線は、そこに残っている。
けれど、もう“絶対”ではない。
ユウは、外に向かって一歩を踏み出した。
その背中には、もう銃口の視線は何ひとつ乗っていない。
外は、無人のまま、広い。
だからこそ、これから何を描くかは、彼ら次第だった。
《了》




