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愛しているなら、私のために何かしてくれると思っていました  作者: 黒猫と珈琲


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6/8

第六話 あの頃の私は、愛を試していた

 離婚して最初にキャロルがしたことは、実家へ戻らないと決めることだった。


「本当に戻ってこないの?」


 母ジョアンナに尋ねられたとき、キャロルは迷わず頷いた。


「ええ。王都で暮らすわ」

「でも、一人で?」

「使用人はいるもの」

「そういう意味ではなくて」


 ジョアンナは少し困ったような顔をした。


「何も、無理に一人で暮らさなくてもいいでしょう。あなたの部屋はそのままにしてあるのよ」

「ありがとう、お母様」


 キャロルは微笑んだ。


「でも、自分で暮らしてみたいの」

「どうして急に」

「急ではないわ」


 離婚を考え始めた頃から、ずっと考えていた。


 実家へ戻れば、きっと何も困らない。父がいて、母がいて、弟のダニエルがいる。昔から知っている使用人たちもいる。


 食事も、衣服も、馬車も、何もかも用意されるだろう。


 けれど今は、そこへ戻りたいとは思わなかった。


「一度くらい、自分がどんな暮らしをしたいのか、自分で決めてみたいの」


 ジョアンナは何か言いかけた。


 結局、


「そう」


 とだけ答えた。


「困ったら、いつでも戻ってきなさい」

「ええ」


 以前のキャロルなら、その言葉にも何かを求めたかもしれない。


 引き止めてほしい。離れて暮らすなんて寂しいと言ってほしい。


 けれど今は、そのまま受け取ることができた。


 母は母なりに心配している。


 それだけでいい。


 ◇


 キャロルが選んだのは、王都の中心部から少し離れた場所にある小さな邸宅だった。


 小さいといっても、もちろんキャロルの基準である。二階建てで、客間もある。裏手には小さな庭もついていた。


 けれど侯爵邸と比べれば、驚くほどこぢんまりとしている。


「……近いわね」


 新しい寝室へ入ったキャロルは、思わず呟いた。


「何がでございますか?」


 長年仕えている侍女のエレンが首を傾げる。


「窓と寝台が」

「そうでしょうか」

「侯爵邸では、寝台から窓までこの部屋一つ分くらいあったもの」

「それは侯爵邸が広すぎたのでございます」

「そうなの?」

「はい」


 きっぱり言われて、キャロルは笑った。


 今回連れてきた使用人は、侍女のエレンと、料理や掃除を受け持つ夫婦だけだった。馬車も一台。


 以前のように、用途に合わせて何台も使い分けることはない。


 最初にその話を聞いたとき、キャロルは、


「もう一人くらい侍女がいてもいいんじゃない?」


 と言った。


 すると、家計を任せることになった執事経験のある使用人から、毎月かかる費用を細かく説明された。


 給金。食費。馬の飼料。薪。蝋燭。


 衣服の手入れ。屋敷の補修。税。


 キャロルは途中から黙ってしまった。


「……暮らすって、お金がかかるのね」


 ぽつりと言う。


 目の前の男は、一瞬だけ困った顔をした。


「そうでございますね」

「今までだって、きっとたくさんかかっていたのよね」

「もちろんでございます」

「全然知らなかったわ。本当に私って無知だったのね」

「奥様――」


 言いかけて、男が止まる。


 もう侯爵夫人ではない。


 キャロルは気にせず笑った。


「キャロル様でいいわ」

「失礼いたしました」

「いいの。それより、もう一人侍女を増やすと、どれくらい変わるの?」


 金額を聞く。


 キャロルは少し考えた。


「……今はいらないわね」

「よろしいので?」

「エレン一人では大変?」

「私は問題ございません」


 即答される。


「なら、しばらくこれでやってみるわ」


 自分で決めた。


 たったそれだけなのに、少しだけ気分がよかった。


 ◇


 一人で暮らし始めてみると、知らないことがいくつもあった。


「薪って、こんなに使うの?」

「冬になれば、もっと増えます」

「もっと?」

「はい」

「暖炉って贅沢なのね」

「火をつけなければ寒うございますよ」

「それは困るわ」


 別の日には、仕立て屋から新しい布地の見本が届いた。


 キャロルは以前と同じように、嬉しくなって何冊も広げた。


「これ、素敵」


 淡い青の布。


「こっちもいいわ」


 薄紫。


「これも好き」


 銀糸の入った白。


 エレンが横から覗き込む。


「三着お作りになりますか?」

「ええ」


 答えてから。


 キャロルは机の端に置いてある帳面を見た。


 今月使える金額。


 先日、自分で確認したばかりだった。


「……待って」

「はい」

「三着作ったら、いくら?」


 おおよその金額を聞く。


「そんなにするの?」

「いつもご利用の仕立て屋でございますので」

「知っているわ。でも、今までは値段まで見ていなかったもの」


 キャロルは三つの布を見比べた。


 どれも欲しい。


 本音を言えば全部欲しい。


「……一着にするわ」

「よろしいのですか?」

「よくないわ」


 エレンが目を瞬く。


 キャロルは真剣に布を見る。


「全部欲しいもの」

「では――」

「でも、全部買ったら、来月ほかのものを我慢しないといけないんでしょう?」

「そうなりますね」

「それは嫌」

「では、一着に?」

「ええ」


 しばらく悩んで、淡い青の布を選ぶ。


「これにするわ」

「かしこまりました」

「でも、来月になってまだ紫が欲しかったら、そのとき考える」

「はい」


 エレンが微笑んだ。


「何?」

「いいえ」

「何か言いたそうね」

「少しだけ、変わられたなと思いまして」


 キャロルは眉を寄せた。


「前の私は、そんなにひどかった?」

「私の口からは何とも」

「それ、ひどかったってことじゃない」


 エレンが笑う。


 キャロルもつられて笑った。


 それでも、節約そのものが楽しいわけではなかった。


 欲しいものを諦めれば、普通に残念だった。気に入ったお菓子が少し高ければ、買うか迷った。


 馬車を使わず歩ける距離だと言われれば、


「この靴で?」


 と不満にもなった。


 キャロルは急に慎ましい女性になったわけではない。綺麗なものは好きだった。美味しいものも好きだった。


 できるなら、上質なものを選びたい。


 ある日の午後。


 買い物から戻る途中、花屋の前で足を止めた。白い小さな花が束ねられている。


「綺麗」


 何気なく言う。


「お買いになりますか?」


 エレンが尋ねる。


「どうしようかしら」

「必要なものではございませんね」


 キャロルは花を見る。


 確かに必要ではない。なくても困らない。食べられるわけでもない。暖かくなるわけでもない。


 ただ。


 朝起きたとき、この花が窓辺にあったら少し嬉しいと思った。


「買うわ」

「よろしいので?」

「ええ」


 キャロルは笑った。


「必要じゃないけれど、欲しいもの」


 小さな花束を買って帰った。寝室の窓辺に飾る。


 翌朝。


 カーテンを開けると、朝の光の中に白い花が見えた。


 キャロルは少しだけ嬉しくなった。


 誰かが贈ってくれたわけではない。自分で選んだ。自分のお金で買った。


 自分が見たかったから、ここにある。


「……悪くないわね」


 誰もいない部屋で呟いた。


 ◇


「思っていたより、ちゃんと暮らしているじゃない」


 新居を訪ねてきたクラリスは、開口一番そう言った。


「失礼ね」

「だって心配していたのよ」

「何を?」

「一週間で『やっぱり実家へ戻る』って言い出すかと」

「言わないわよ」

「本当に?」

「今のところは」

「今のところなのね」


 二人で笑った。


 クラリスは窓辺の花に気づいた。


「綺麗な花ね」

「でしょう?」

「もらったの?」

「私が買ったの」

「あなたが?」

「何よ」

「いいえ。あなたって、自分で花を買う人だったかしらと思って」


 キャロルは考える。


「買ったことはあると思うけれど……自分の部屋に飾るためだけに買ったのは、初めてかも」

「そう」


 クラリスが柔らかく笑った。


「気に入ってる?」

「ええ」

「ならよかったじゃない」


 キャロルは花を見る。


「前は誰かにもらう方が嬉しいと思っていたの」

「今は違う?」

「もらうのも嬉しいわよ」


 即答する。


「そこは変わらないのね」

「だって嬉しいものは嬉しいでしょう?」

「ええ」

「でも、自分で買っても嬉しいものなのね」


 キャロルは少し不思議そうに言った。


「今まで知らなかったわ」


 クラリスは何も言わず、紅茶を飲んだ。


 しばらくして。


 キャロルはふと思い出した。


「ねえ、クラリス」

「何?」

「昔、あなたが言ったことを覚えている?」

「たくさん言ったけれど」

「ルイスのこと」


 クラリスの手が止まる。


「ルイス?」

「私が、彼を試すのはやめなさいって」


 クラリスは少し目を丸くした。


「覚えていたの?」

「覚えていたわ」

「てっきり忘れたのかと思ってた」

「失礼ね」

「だって、聞く気がなさそうだったから」


 キャロルは苦笑した。


「当時は確かにそうだったわ」


 キャロルは少し間を置いてから、口を開いた。


「私ね」

「うん」

「ルイスのこと、本当に好きだったと思う」

「そうね」

「でも、好きだったからこそ、何度も確かめたかったの」


 クラリスは黙って聞いている。


「会いたいって言ったら来てくれるか。友人より私を選ぶか。忙しくても時間を作ってくれるか」

「うん」

「してくれると、安心したの」


 キャロルは自分の手を見る。


「私のことが好きなんだって」

「……そうね」

「でも、少し経つとまた不安になった」


 次はどうだろう。


 今度も来てくれるだろうか。


 また自分を選んでくれるだろうか。


「だから、また確かめた」


 言葉にすると、本当にそれを何度も繰り返していたのだと分かった。


「あの頃の私、ずっとルイスの愛情を試していたのね」


「……そうだと思う」


 クラリスは静かに答えた。


「何よ、クラリス。あなた、昔はもっとはっきり言ったじゃない」

「今さら『だから言ったでしょう』なんて言っても仕方ないもの」

「言わないの?」

「言ってほしい?」

「いえ、遠慮しておくわ」

「なら言わない」


 キャロルは少し笑った。


 それから。


「どうして、あんなに確かめたかったのかしら」


 ぽつりと言った。


 クラリスは答えなかった。キャロル自身が続けるのを待っているようだった。


「私、小さい頃から何でも持っていたの」

「うん」

「服も、お菓子も、玩具も。欲しいって言えば、大抵のものは用意してもらえた」

「知ってるわ」

「侍女もずっといたし、病気になったら看病もしてくれた」


 何不自由なかった。


 本当に。


「でも、お母様はいつもダニエルを見ていた」


 キャロルはゆっくり言う。


「お父様は仕事ばかりだった」


 クラリスは何も挟まない。


「私ね、弟が嫌いだったわけじゃないの」

「ええ、そうね」

「今だって普通に好きよ。少し頼りないところはあるけれど」

「それは本人に言わないであげて」

「言ってるわ」

「言ってるの?」


 少し笑いが混じる。


 それで、話しやすくなった。


「ダニエルが嫌だったんじゃない」


 キャロルは窓辺の花を見る。


「お父様とお母様がダニエルを見るみたいに、私のことも見てほしかったんだと思う」


 言った瞬間。


 胸の奥のどこかが痛んだ。


 でも、以前のように息苦しくはなかった。


「誰かに何かしてもらうとね」

「うん」

「私を選んでもらえたような気がしたの」


 ルイスが友人との約束を変えてくれたとき。ローレンスが仕事を調整して海へ連れていってくれたとき。欲しがったものを覚えていてくれたとき。


 そのたびに。


 自分は大事にされている。


 自分は選ばれている。


 そう思えた。


「だから、キャロルは付き合う相手にいつも何かしてほしかったのね」

「たぶん」

「愛されているって、分かるために?」

「ええ」


 キャロルは小さく息を吐いた。


「面倒な女ね、私」

「ええ。それも、かなりのね」


 キャロルは顔を上げた。


「そこは否定しなさいよ」

「嘘はよくないでしょう?」

「本当に昔から容赦ないわね」


 二人で笑った。


 しばらくして、クラリスが言った。


「でも、今は分かったんでしょう?」

「少しだけ」

「なら、それでいいんじゃない?」

「そんな簡単でいいの?」

「簡単じゃなかったから、今になったんでしょう」


 キャロルは黙った。


「それに」


 クラリスが窓辺の花を見る。


「今のあなたなら、前とは少し違うんじゃない?」

「そうかしら」

「少なくとも、自分で自分に花を買えるようにはなったわ」

「それ、そんなに大きなこと?」

「あなたにとってはね」


 キャロルは花を見る。


 また少し笑った。


「そうかもしれないわね」


 ◇


 アーネスト・バークリーと知り合ったのは、それから少し経った頃だった。


 クラリスに誘われた小さな食事会でのことだった。大きな夜会ではない。親しい者だけが集まる、気楽な席だった。


 離婚後、キャロルは大勢が集まる場へ以前ほど頻繁には出なくなっていた。別に人目を避けているわけではない。


 ただ、自分が本当に行きたいと思う場所だけを選ぶようになった。


「キャロル、こちらアーネスト・バークリー様」


 クラリスに紹介され、キャロルは男性へ視線を向けた。


 三十歳前後だろうか。濃い栗色の髪に、落ち着いた茶色の瞳。


 派手な美男子というわけではない。けれど背が高く、姿勢がよく、静かな雰囲気があった。


 何より、こちらを見る目が穏やかだった。


「初めまして」

「初めまして、ウェストン伯爵令嬢」

「キャロルでいいわ。もう侯爵夫人でもないし」


 アーネストは少しだけ目を細めた。


「では、キャロル様と」

「様はつくのね」

「初対面ですので」

「真面目なのね」

「よく言われます」


 さらりと返される。


 キャロルは少し笑った。すると、アーネストもほんのわずかに笑った。


 思っていたより、柔らかい顔をする人なのだ。


 なぜか、そんなことを思った。


 食事の席では、隣同士になった。


 話してみると、アーネストは思っていたより話しやすかった。無口ではない。ただ、相手の話を遮らない。


 キャロルが話せば最後まで聞き、そのあとで自分の意見を言う。それが妙に心地よかった。


「アーネスト様。新しくできたお菓子のお店、もう行かれた?」

「いいえ」

「とても美味しいのよ。果物の焼き菓子が特に」

「それは気になりますね」

「でしょう? 今度良ければ一緒に行かない?」


 キャロルは何気なく誘った。


 深い意味はなかった。話の流れで、自然に口から出ただけだった。


「明日とか、ご都合はどう?」


 アーネストは少し考えた。


「明日は無理です」


 あまりにもあっさり断られて。


 キャロルは一瞬、言葉を失った。


「……そう」

「先約がありますので」

「そうなの」


 胸の奥が、ほんの少しだけ引っかかる。


 昔なら、その感覚にすぐ理由をつけただろう。


 自分より大切な予定がある。


 自分のためには変えてくれない。


 だから、自分はそれほど大切ではない。


 でも今は。


 そこまで考える前に、アーネストが続けた。


「明後日の午後なら時間を取れます」


 キャロルは彼を見る。


「明後日?」

「はい。キャロル様のご都合が合えば」

「……合うけれど」

「では、その日に」


 何でもないように言う。


 キャロルは妙な気分になった。


 断られた。


 少し面白くない。


 でも、嫌ではなかった。


「本当に明後日は空けてくれるの?」

「ええ」

「忘れない?」


 アーネストが不思議そうにする。


「約束しましたから」


 それだけだった。


 キャロルは少し黙ってから、


「そう」


 と答えた。


 二日後。


 約束の時間より少し前。


 キャロルが店へ着くと、すでにアーネストがいた。


「早いのね」

「キャロル様も」

「私は待たされるのが嫌いなの」

「私も人を待たせるのは好きではありません」


 二人で席につく。


 窓際の小さな席だった。午後の光が差し込み、アーネストの栗色の髪が少し明るく見える。


 キャロルは何となく、その横顔を見た。


「どうしました?」


 気づかれた。


「別に」

「そうですか」


 アーネストはそれ以上聞かなかった。


 そのことに少しほっとして。


 同時に、なぜ自分が彼を見ていたのだろうと思う。


 注文を済ませてから、キャロルは尋ねた。


「昨日は、楽しかった?」

「昨日ですか?」

「先約があったでしょう?」

「ああ。仕事関係の知人と会っていました」

「仕事だったの?」

「はい」

「なら、そう言えばよかったのに」

「聞かれませんでしたので」


 キャロルは一瞬黙る。


「……変な人」

「そうでしょうか」

「普通は、断ったらもっと理由を説明するでしょう?」

「先約がある、と説明しました」

「そうだけど」


 アーネストは真面目な顔をしている。


 キャロルは思わず笑った。


「あなた、融通が利かなそうね」

「よく言われます」

「嫌じゃないの?」

「事実なら仕方ありません」


 店員が焼き菓子を運んでくる。


 キャロルは一つ取って、アーネストの皿へ置いた。


「これがおすすめよ」

「ありがとうございます」

「感想は正直に言ってね」

「美味しくなかったら?」

「……少しくらい気を遣って」

「正直にと言ったばかりでしょう」

「そうだけど」


 アーネストが笑った。


 今度は、さっきよりはっきりと。


 キャロルは少しだけ目を見張った。


 真面目で、落ち着いていて。どちらかといえば堅い人だと思っていた。


 でも、笑うと意外に優しい。


「何です?」

「何でもないわ」

「またですか」

「いいでしょう。私にだって言いたくないことくらいあるもの」

「もちろん」


 焼き菓子を一口食べたアーネストが頷く。


「美味しいですね」

「でしょう?」


 なぜか、とても嬉しかった。


 自分が作ったわけでもないのに。


 キャロルも一つ取り、口にする。果物の甘酸っぱい香りが広がった。


 帰り道。


 二人は途中まで同じ方向だった。石畳の道を並んで歩く。


 風が少し強く、キャロルの帽子のリボンが揺れた。


「あ」


 急に吹いた風で、帽子が浮きそうになる。


 キャロルが慌てて押さえるより先に、アーネストの手が帽子の縁を押さえた。


「危ない」


 近い。


 そう思った。


 顔を上げると、思っていたよりすぐそばにアーネストがいる。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 アーネストはすぐに手を離した。


 それだけだった。


 それなのに。


 キャロルは自分の帽子を押さえながら、少しだけ鼓動が速くなっていることに気づいた。


「キャロル様?」

「何?」

「顔が赤いですが、暑いですか?」

「風が強かったからよ」

「風で?」

「そうよ」


 アーネストが少し不思議そうな顔をする。


「何よ」

「いえ。そういうことにしておきます」

「どういう意味?」

「さあ」

「アーネスト様」


 呼ぶと、彼は少し笑った。


 また、その顔だ。


 キャロルは前を向いた。


 何だろう。


 この人といると、不思議と気持ちが乱される。


 でも。


 ルイスのときのような不安とは違う。


 ローレンスに何かをしてもらったときの安心とも違う。


 もっと小さくて。


 もっとくすぐったい。


 自分でも、まだ名前をつけられない感情だった。


 別れ道に着く。


「では、私はここで」

「ええ」


 アーネストが軽く頭を下げる。


「今日はありがとうございました」

「こちらこそ。お菓子、美味しかったでしょう?」

「ええ。またおすすめがあれば教えてください」

「また一緒に行ってくれるの?」

「都合が合えば」

「そこは『もちろん』って言うところじゃない?」

「予定も分からないのに約束はできません」


 キャロルは思わず笑った。


「本当にあなたって融通が利かないわね」

「なんとでも」

「ふふ、仕方ない人ね」


 アーネストも小さく笑う。


「では、また」

「ええ。また」


 彼が歩いていく。


 キャロルは少しだけその背中を見送った。


 断られることもある。


 思った通りの答えが返ってこないこともある。


 それなのに。


 次に会えるのが、少し楽しみだった。


 そのことに気づいて。


 キャロルは自分でも分からないまま、そっと笑った。


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