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愛しているなら、私のために何かしてくれると思っていました  作者: 黒猫と珈琲


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第五話 私はあなたのお金が欲しいのではありません

 ローレンスと口論をしてから、数日が過ぎた。


 キャロルは意地を張るつもりはなかった。けれど、どちらからともなく話しかけることが減った。


 朝食では必要なことだけを話す。夕食の時間が合えば同じ席につくが、以前のように一日の出来事を話すことはない。


 ローレンスは相変わらず忙しかった。仕事へ行き、クラブへ顔を出し、狩猟の予定を立て、知人との食事にも出かける。


 キャロルも友人との茶会や観劇へ出かけた。


 傍から見れば、何も変わっていない夫婦に見えただろう。


 けれどキャロルには分かっていた。


 以前より、ずっと遠い。


 ◇


「奥様、仕立て屋から新しい見本帳が届いております」


 午後。侍女が数冊の見本帳を運んできた。


「そこへ置いて」

「ご覧になりますか?」

「あとで見るわ」


 以前なら、すぐに開いていた。新しい布。流行の刺繍。季節に合わせた色。


 眺めているだけでも楽しかった。


 けれど今は、少し気が重い。どうせ何か欲しいと言えば、またローレンスに「似たものを持っている」と言われる。


 そう思うと、楽しむ気になれなかった。


 侍女が部屋を出ていく。


 キャロルはしばらく見本帳を眺めていた。結局、一冊だけ手に取る。


 深い青。淡い紫。柔らかな灰色。


 ページをめくっていると、薄い金色の布が目に留まった。派手ではない。光の加減で、少しだけ白く見える。


「綺麗……」


 思わず指でなぞる。


 自分の髪にも合いそうだった。今度の冬の夜会にいいかもしれない。


 そう思った。


 けれど次の瞬間。


 ――また新しいものを?


 ローレンスの声が頭に浮かんだ。


 キャロルは見本帳を閉じた。


「……もういいわ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 ◇


 その日の夕方。


 屋敷の前が少し騒がしくなった。


「何かあったの?」


 廊下へ出ると、使用人たちが大きな木箱を運び込んでいる。近くにいた侍女が答えた。


「旦那様がお求めになった品が届いたそうです」

「何を?」

「絵画だと伺っております」


 キャロルは足を止めた。


「絵?」

「はい」


 ちょうどそこへローレンスが帰ってきた。いつもより機嫌がいい。


「ローレンス」

「ただいま、キャロル」

「それ、何?」

「ああ。届きましたか」


 ローレンスが木箱へ目を向ける。


「以前から探していた画家の作品です」

「買ったの?」

「ええ」

「ずいぶん大きいのね」

「実物を見るのが楽しみだ」


 ローレンスは珍しく少年のような笑顔を見せた。キャロルは少し驚いた。


「そんなに欲しかったの?」

「何年も探していたんですよ」

「何年も?」

「ああ。市場に出ることがほとんどない作品でね」

「それでは、結構高かったでしょう?」

「まあ、それなりに」


 ローレンスは軽く答えた。


 以前、馬を買ったときも同じことを言っていた。「それなり」と言いながら、実際にはかなりの額だった。


「いくらだったの?」


 何気なく聞く。


 ローレンスが答えた金額に、キャロルは目を瞬いた。


「……そんなに?」

「希少なものですから」

「そう」


 キャロルは木箱を見る。


 欲しいものを手に入れて、嬉しそうにしている夫。


 その顔を見ていると、胸の奥が妙にざわついた。


「楽しみね」

「ああ」


 ローレンスは笑った。


 それから使用人たちとともに、絵を飾る部屋へ向かっていった。


 キャロルはその背中を見送った。


 ◇


 数日後。


 キャロルはクラリスと買い物へ出かけた。冬の夜会に向けて、街の店には新しい商品が並び始めている。


 宝石店の前を通ったとき、キャロルは足を止めた。


 店内に、細い金の腕輪が飾られている。中央に小さな青い石が一つだけついた、控えめなものだった。


「気になるの?」


 クラリスが聞く。


「ええ。少し」

「入る?」

「……どうしようかしら」

「珍しいわね。あなたが迷うなんて」

「そう?」

「昔なら、気になった時点でもう店に入っていたでしょう?」


 キャロルは苦笑した。


「そうだったかも」

「何かあった?」

「別に」

「またそれ?」

「本当に大したことじゃないの」


 キャロルは腕輪をもう一度見る。


「ローレンスがね」

「うん」

「最近、私が何か欲しいと言うと、必要なのかって聞くの」

「必要?」

「似たものを持っているとか、今あるもので十分だとか」

「そう」

「だから……」


 キャロルは言葉を止めた。


「買ってもらうのが嫌になった?」

「違うわ」

「じゃあ?」

「分からない」


 自分で買えばいい。実際、そうできる。


 ローレンスから与えられている生活費もあるし、自分の持参金から自由に使える分もある。欲しいなら買えばいい。


 それなのに。


「前は、私が少し見ただけで気づいてくれたの」


 キャロルは小さく言った。


「そうだったわね」

「欲しいって言わなくても、似合うと思ったって言ってくれた」

「うん」

「今は、欲しいって言っても必要かどうか聞かれる」


 クラリスは黙って聞いている。


「私、そんなに贅沢なのかしら」

「贅沢ではあると思うわ」

「もう」

「でも、それが悪いとは言ってないわよ」


 クラリスは笑う。


「あなたは昔から綺麗なものが好きでしょう?」

「ええ」

「好きなものを好きだって思うことまで、やめる必要はないわ」

「じゃあ、どうしてこんなに嫌なのかしら」


 クラリスは少し考えた。


「キャロル」

「何?」

「あなた、その腕輪が欲しいの?」


 キャロルは店内を見る。


 綺麗だと思う。欲しいかと聞かれれば、欲しい。


 でも。


「……今は、買わなくてもいいわ」

「そう」

「ただ」


 キャロルは唇を噛んだ。


「ローレンスが、私に似合うと思ってくれたら嬉しかったのかも」


 口にしてから、自分で少し驚いた。


 クラリスも何も言わなかった。


「変よね」

「どうして?」

「結局、ローレンスに買ってほしいってことでしょう?」

「同じかしら」

「違うの?」

「それは、あなたが考えることじゃない?」


 クラリスはそう言って、先へ歩き始めた。


 キャロルもそのあとを追った。


 胸の奥に、小さな引っかかりが残った。


 ◇


 決定的な口論になったのは、その週の終わりだった。


 夕食後。


 キャロルは応接室でローレンスと二人きりになった。夫は酒を飲みながら、届いたばかりの美術品の目録を眺めている。


「また何か買うの?」

「見ているだけですよ」

「本当に?」

「気になるものはいくつかありますが」


 ローレンスは楽しそうだった。


 キャロルは少し迷ったあと、口を開いた。


「私も、冬の夜会用に新しいドレスを作りたいの」


 ローレンスが目録から顔を上げる。


「またですか?」


 その一言に、胸が冷える。


「またって?」

「この前も作ろうとしていたでしょう」

「あれは結局作らなかったわ」

「そうでしたか?」

「そうよ」

「なら、好きにすればいい」

「……本当に?」

「何がです?」

「作ってもいいの?」


 ローレンスが少し怪訝そうな顔をした。


「私はあなたの保護者ではありませんよ」

「そういう意味じゃなくて」

「では、何です?」


 キャロルは言葉に詰まった。


「その……あなたにも見てほしいの」

「布を?」

「ええ」

「私はドレスのことは分かりません」

「前は一緒に選んでくれたでしょう?」

「前?」

「結婚する前よ」

「ああ」


 ローレンスはようやく思い出したようだった。


「でも今は忙しいんです」

「少しくらい時間を取れない?」

「仕立て屋に任せればいいでしょう」

「私はあなたに見てほしいの」


「キャロル」


 ローレンスの声に、早くも面倒そうな響きが混じった。


「またその話ですか?」

「またって何よ」

「私が何かしないと、あなたは満足しないんですか?」

「そんなこと言ってないわ」

「同じでしょう」

「違うわ」

「ドレスを作るなら作ればいい。宝石が欲しいなら買えばいい。あなたには十分なお金を渡している」


 キャロルは目を見開いた。


「そういう話じゃないって言っているでしょう?」

「では何なんです?」

「私は――」


 言いかける。


 けれど、うまく言葉にならない。


 ローレンスがため息をついた。


「正直に言いますが」


 嫌な予感がした。


「何?」


「君は本当にお金のかかる女だな」


 その言葉で。


 キャロルの中の何かが、ぴたりと止まった。


「……何ですって?」

「いや」


 ローレンスも言いすぎたと思ったのか、少し顔をしかめる。


「そういう意味では――」

「今、そう言ったでしょう」

「最近、あれが欲しい、これが欲しいと――」

「私がいつ言ったの?」

「ドレスだの、宝石だの、旅行だの」

「旅行?」

「海へ行きたいと言ったのも君でしょう」


 キャロルは息を呑んだ。


「あれは、結婚前の話よ」

「同じでしょう」

「あなたが連れていってくれたのよ」

「君が行きたいと言ったからだ」

「そうよ」

「だから行った」

「好きだからって言ったじゃない」


 ローレンスが黙る。


「私が望むことなら、できるだけ叶えてあげたいって」

「交際中の話でしょう」


「どうして結婚したら変わるの?」


「だから何度も言っている。今は夫婦なんです」

「夫婦になったら、私を喜ばせたいと思わなくなるの?」

「極端な言い方をしないでくれ」

「だって、そうでしょう?」


 キャロルの声が震えた。


「あなたは自分の馬にはお金を使う。絵にも使う。狩猟にも、酒にも、クラブにも使う」

「私のお金です。好きに使って何が悪い」

「私だって、あなたの金を全部使わせろなんて言ってないわ!」

「では何が不満なんだ!」


 ローレンスも声を荒らげた。


「この家に住み、使用人もいて、好きな服を着て、食べたいものを食べている。何不自由なく暮らしているだろう!」


 キャロルは何も言えなかった。


「何がそんなに不満なんです?」


 その言葉が。


 ひどく懐かしかった。


 正確には、同じ言葉を聞いたわけではない。


 でも。


 昔からずっと、同じことを言われてきた気がした。


 必要なものは侍女に言いなさい。服ならあるでしょう。食事も用意されているでしょう。


 何も困っていないでしょう。


 ◇


 七歳の頃。


 熱を出した夜。冷たい布を替えてくれたのは侍女だった。


 翌朝、母が来た。けれど弟の声がすれば、すぐにそちらへ向かった。


 十二歳の頃。


 学校で褒められた刺繍を母に見せたかった。けれどジョアンナはダニエルの家庭教師と話していた。


「あとで見せてちょうだい」


 そう言われた。


 あとで。


 そのあとが来たかどうか、もう覚えていない。


 十五歳の頃。


 父の誕生日に、自分で選んだペンを贈った。


 アルバートは、


「ありがとう。大切に使うよ」


 と笑った。


 けれどその直後には仕事の話をしながら部屋を出ていった。


 嫌われてはいなかった。何も与えられなかったわけでもない。


 ドレスもあった。宝石もあった。菓子もあった。侍女もいた。


 欲しいものは、たいてい与えられた。


 それでも。


 ずっと何かが足りなかった。


 ◇


「……私は」


 キャロルはゆっくり口を開いた。


「あなたのお金が欲しいんじゃないわ」


 ローレンスが眉を寄せる。


「では何が欲しいんです?」

「分からない」

「分からないのに、私に求めるんですか?」


「今まで、分からなかったのよ!」


 キャロルは初めて大きな声を出した。自分でも驚くほどだった。


「でも、お金じゃない」


「キャロル」


「宝石が欲しかったんじゃないわ」


 言葉が、少しずつ出てきた。


「あの真珠だって」

「真珠?」

「結婚前にくれたでしょう」

「ああ」

「あれが嬉しかったのは、高かったからじゃない」


 ローレンスが黙る。


「私が見ていたのを覚えていてくれたからよ。私に似合うと思ったって言ってくれたから」


 胸が苦しい。


 でも、一度口にしたら止まらなかった。


「海だってそう」


「……」


「海が見たかったのは本当よ。でも、それより、あなたが私と行こうと思ってくれたのが嬉しかった」

「実際、私は連れていったでしょう」

「そうよ!」


 キャロルは目に涙を浮かべる。


「だから嬉しかったの!」


 ローレンスは戸惑ったようにキャロルを見る。


「なのに今は、何を言っても友人と行けばいい、使用人に任せればいいって」

「それの何が悪いんです?」


 その返事に。


 キャロルは、ようやく分かった。


 この人には、伝わらないのだ。


「……悪くないわ」

「なら」

「悪くない」


 キャロルは小さく笑った。


「でも、私が欲しかったものとは違ったの」


 ローレンスの顔に苛立ちが浮かぶ。


「結局、何が言いたいんです?」


「あなたに、私を見てほしかったのよ」


「見ているでしょう」

「見ていないわ」

「毎日同じ家にいる」

「そういう意味じゃない!」


 声が震えた。


「私が何を好きで、何を嬉しいと思うのか。どこへ行きたいのか。何を話したいのか」

「そんなことを毎回気にしていられません」


 はっきりと言われた。


 キャロルは黙った。


「私には仕事がある。付き合いもある。自分の時間も必要です」

「……そう」

「夫婦だからといって、何もかも君中心にはできない」

「分かってる」

「分かっていないでしょう」


「今は分かるわ」


 ローレンスが怪訝そうにする。


 キャロルは泣きそうになりながら、それでも妙に静かな気持ちになっていた。


「私、あなたにずっと私を選んでほしかったんだと思う」


「……」


「私を一番にしてほしかった」


 ルイスにもそう言った。


 好きなら、私を一番にしてくれるでしょう?


 あの頃と同じだった。


「でも」


 キャロルは息を吐く。


「あなたが悪いだけじゃないのね」


 ローレンスが眉を寄せる。


「何の話です?」

「私、ずっと誰かに証明してもらおうとしていたのかもしれない」


「キャロル」


 彼を見る。


「だから、今のあなたと一緒にはいられないわ」


 ローレンスの表情が変わった。


「何を言っている?」

「私たち、たぶん欲しいものが違いすぎるのよ」

「夫婦なんてそんなものです」

「そうかもしれない」

「なら」


「でも私は」


 キャロルは震える指を握りしめた。


「このまま、あなたに何かしてもらえるたびに安心して、何もしてもらえないたびに不安になる生活を続けたくない」


 自分で言って。


 初めて、その言葉の意味が胸に落ちた。


 自分はずっとそうだった。


 何かしてもらえば安心する。断られれば不安になる。選ばれれば愛されていると思う。選ばれなければ、捨てられたと思う。


「少し考えたいわ」

「何を?」

「これからのことを」


 ローレンスはしばらく黙っていた。


 それから低い声で言った。


「まさか、離婚でもするつもりですか?」


 キャロルはすぐには答えなかった。


 離婚。


 その言葉を自分から口にする勇気は、まだなかった。


 けれど。


 このままここに残る未来を想像すると、息が詰まった。


「……ええ」


 自分でも驚くほど静かな声だった。


「そのつもりよ」


 ◇


 離婚の話し合いは、簡単ではなかった。侯爵家と伯爵家の婚姻だった。親族もいる。財産の整理も必要になる。


 父アルバートからは、一度だけ確認された。


「本当に、それがお前の望みなのか」

「はい」

「生活に困っているわけではないのだろう?」


 その言葉に。


 キャロルは一瞬だけ笑いそうになった。


 やっぱり父も同じなのだ。


 悪気はない。


 本当に分からないだけ。


「困ってはいません」

「なら、何が――」


 アルバートはそこで言葉を止めた。キャロルの顔を見たからかもしれない。


「……いや」


 父は小さく息をついた。


「お前が決めたなら、私は止めない」

「ありがとうございます」


 それだけだった。


 昔なら、もっと何か言ってほしいと思ったかもしれない。自分を引き止めてほしい。心配してほしい。何より大切だと言ってほしい。


 でも今は。


 父は父なりに、自分の決断を尊重したのだと思えた。


 それだけでよかった。


 ◇


 ローレンスとの離婚が正式に決まった日。


 キャロルは侯爵邸の自室を見回した。


 美しい部屋だった。大きな窓。上質な家具。お気に入りの絵。


 何着ものドレス。宝石。香水。贈られたものもたくさんある。


 何一つ、不自由のない生活だった。


 それなのに。


 ここで暮らしていた最後の一年。


 ずっと寂しかった。


 キャロルは小さな箱を手に取った。


 中には、結婚前にローレンスから贈られた青みを帯びた真珠の耳飾りが入っている。


 指先でそっと触れる。


 これをもらったときは、本当に嬉しかった。あの気持ちまで嘘だったとは思わない。


 ローレンスも、あの頃は本当に自分を喜ばせたいと思ってくれていたのだろう。


 ただ。


 それだけでは続かなかった。


「……私はまた、同じところに来てしまったのね」


 幼い頃。


 何不自由ない部屋で、侍女に世話をされながら、どうして寂しいのか分からなかった自分。


 今も同じだった。


 欲しいものはあった。


 でも。


 本当に欲しかったものは、別にあった。


 そしてきっと。


 それを誰かに与えてもらうことばかり考えてきた。


 キャロルは耳飾りの箱を閉じた。


 まだ全部は分からない。どうすればよかったのかも。これからどうしたいのかも。


 ただ一つ。


 今度は少しだけ。


 誰かに満たしてもらう前に、自分のことを知ってみたいと思った。


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