第四話 結婚したら、何もくれなくなった
結婚して最初の半年ほど、キャロルは幸せだった。グレイヴズ侯爵家の屋敷は、実家のウェストン伯爵家よりずっと大きい。
王都の屋敷だけでも使用人の数は多く、季節ごとに領地の本邸へ移れば、窓の向こうには広い庭園が広がっていた。
結婚式のあとには二人で南部へ旅行した。ローレンスが以前からキャロルを連れていきたいと言っていた土地だった。
美しい湖を見て、名物の料理を食べ、街では好きなだけ店を見て回った。
「これ、綺麗」
キャロルがショーケースの中の髪飾りを眺めると、ローレンスが隣から覗き込んだ。
「欲しい?」
「見ていただけよ」
「なら、見ているだけにしましょうか」
からかうように言われ、キャロルは彼を見上げる。
「欲しいと言ったら?」
「買いますよ」
「本当に?」
「新婚旅行で妻に髪飾りの一つも買わなかったら、後々まで言われそうですから」
「そんなこと言わないわ」
「どうでしょうね」
「もう」
二人で笑った。
結局、その髪飾りはローレンスが買ってくれた。
夜の食事のときにつけていくと、
「やはり似合っていますね」
と嬉しそうに言った。
キャロルも嬉しかった。
この人と結婚してよかった。
そう思った。
◇
変化は、本当に少しずつだった。
結婚して一年ほど経った頃。
「ねえ、ローレンス。今夜、一緒に食事をしない?」
午後のお茶を終えたあと、キャロルは書類に目を通している夫へ声をかけた。
「今夜?」
「ええ」
「生憎、今夜はクラブへ行く予定なんです」
「あら、そうなの?」
「前から約束していたので」
ローレンスは書類から顔を上げない。キャロルは少し考えた。
「何時頃戻るの?」
「遅くなると思いますよ」
「それなら、出かける前に一緒に食べない?」
「時間が半端でしょう」
「少しくらい早くてもいいわ」
「私は向こうで食べます」
「……そう」
キャロルはカップへ視線を落とした。
以前なら。
そう考えてから、すぐに打ち消す。
以前は恋人同士だった。今は夫婦なのだから、毎日のように一緒にいる。わざわざ一度の夕食くらいで気にすることではない。
「楽しんできて」
「ありがとう」
ローレンスは微笑んだ。
その夜。広い食堂で一人で食事をしながら、キャロルは少しだけ寂しいと思った。
けれど翌朝にはローレンスも戻っていたし、朝食では普通に話した。
だから、それ以上考えなかった。
次は週末だった。
「今度の日曜日、郊外へ行かない?」
朝食の席でキャロルが言う。
「郊外?」
「ええ。この前、クラリスから聞いたの。少し先に庭園があって、今ちょうど薔薇が見頃なんですって」
「日曜日は狩猟に行きます」
「あら」
ローレンスは新聞をめくった。
「来週なら?」
「来週?」
「ええ」
「来週は領地から人が来る予定ですね」
「その次は?」
「まだ分かりません」
キャロルはパンを小さくちぎった。
「ずいぶん忙しいのね」
「この時期は仕方ありません」
「でも、狩猟には行けるのでしょう?」
ローレンスが新聞から目を上げた。
「それは前から決まっていたので」
「私との予定も、決めればいいじゃない」
「日曜日に薔薇を見ることを?」
「そうよ」
「別の日でも見られるでしょう」
あまりにも簡単に言われて、キャロルは黙った。
「……そうね」
ローレンスはまた新聞へ目を戻した。
しばらくして、
「行きたいなら、馬車を使えばいい。侍女も連れていくといいですよ」
と言った。
「あなたと行きたいの」
「また今度にしましょう」
「いつ?」
「予定が分かれば」
それで話は終わった。
キャロルはその日、結局庭園へ行かなかった。一人で見たいわけではなかったからだ。
「これ、素敵でしょう?」
別の日。
キャロルは仕立て屋から届けられた見本帳をローレンスの前へ広げた。淡い青の布地だった。細い銀糸が織り込まれ、光の角度によってわずかに色が変わる。
「今度の王宮の夜会にどうかと思って」
「いいんじゃないですか」
「でしょう?」
「ええ」
キャロルは笑った。
「では、これで新しいドレスを作ろうかしら」
「新しいものを?」
ローレンスが初めて見本帳をしっかり見る。
「ええ」
「この前も作っていませんでしたか?」
「春の園遊会のもの?」
「たしか、青いドレスだったでしょう」
「全然違うわ。あれはもっと淡い色だし、形も昼用よ」
「私には同じに見えますが」
キャロルは思わず笑った。
「男性って本当に分からないのね」
いつもなら、ここでローレンスも笑う。
そう思った。
けれど彼は、
「似たものを持っているなら、今回は必要ないんじゃないですか?」
と言った。
「……え?」
「まだ着られるものがあるでしょう」
「あるけれど」
「なら、それでいいのでは?」
キャロルは少し戸惑った。
結婚前。ローレンスは、キャロルが店先で真珠を見ていただけで耳飾りを贈ってくれた。欲しいと言っていないものまで、自分に似合うと思えば選んでくれた。
それなのに。
「でも、王宮の夜会よ?」
「毎回新しいドレスを作る必要もないでしょう」
「毎回なんて作っていないわ」
「そうですか?」
「そうよ」
少し語気が強くなった。
ローレンスは面倒そうに息をつく。
「それなら好きにすればいい」
キャロルは黙った。
欲しいと言えばいい。
そう言われただけなのに。
なぜか少しも嬉しくなかった。
「……もういいわ」
「そうですか」
ローレンスは書類へ戻った。キャロルは見本帳を閉じた。
結局、そのドレスは作らなかった。
それから、似たようなことが増えた。
「今度、新しくできた店に行ってみたいの」
「友人と行ってくればいいでしょう」
「この絵、素敵だと思わない?」
「置く場所がありませんよ」
「今年も海へ行かない?」
「わざわざ同じ場所へ?」
一つ一つは、些細なことだった。
ローレンスはキャロルに何も与えなくなったわけではない。誕生日には宝石が届いた。結婚記念日には花もあった。
けれど、それらはいつからか使用人が選んで手配したものになった。
「侯爵様からでございます」
と言われて箱を開ける。
美しい。高価だろう。
けれど。
「ローレンスが選んだの?」
侍女へ尋ねると、少し言いにくそうに答えた。
「旦那様から、奥様がお好きそうなものを用意するようにと」
「……そう」
キャロルは宝石を箱へ戻した。
嫌いなものではない。むしろ好みには合っている。長く仕えている使用人なら、それくらい知っているのだろう。
なのに、以前のようには嬉しくなかった。
その一方で、ローレンス自身の生活は何も変わっていなかった。
「また馬を買ったの?」
ある日の朝。厩舎へ新しい馬が入ったと聞き、キャロルが尋ねる。
「ええ。いい馬が見つかったので」
「この前も買ったでしょう?」
「あれとは血統が違います」
「そうなの?」
「今度の馬は走りがいい。秋の狩猟にも向いている」
ローレンスは珍しく楽しそうだった。
「見に行きますか?」
「馬はよく分からないもの」
「残念だな。いい馬ですよ」
「高かった?」
「それなりに」
「それなりって?」
金額を聞いて、キャロルは少し驚いた。
「そんなに?」
「価値がありますからね」
「でも私のドレスには、似たものがあるって言ったでしょう?」
ローレンスの表情が止まった。
「何の話です?」
「この前の」
「ああ」
「馬だって、何頭もいるじゃない」
「馬とドレスを一緒にするんですか?」
「だって同じでしょう。もう持っているのに、新しいものが欲しかったんでしょう?」
「用途が違います」
「ドレスだって用途が違うわ」
「キャロル」
ローレンスは苦笑した。
「そんなにあのドレスが欲しかったなら、作ればよかったでしょう」
「そういう話じゃないの」
「では、どういう話です?」
キャロルは口を開いた。けれど、うまく説明できなかった。
自分でも分からなかった。
ドレスを買ってほしいわけではない。買おうと思えば、自分に許された範囲の金で買える。
そうではなくて。
「……もういいわ」
また同じ言葉が出た。
「そうですか」
ローレンスも、それ以上聞かなかった。
◇
「最近、どう?」
クラリスと久しぶりに会ったのは、その頃だった。
クラリスは学園時代から付き合っていた男性とは別の縁で結婚し、今では一児の母になっていた。
二人でお茶を飲んでいる途中、クラリスが何気なく尋ねた。
「何が?」
「結婚生活」
「普通よ」
「普通?」
「ええ」
キャロルは砂糖を一つ紅茶へ落とした。
「ローレンスは忙しいし、私は私で予定があるし」
「そう」
「結婚したら、こんなものなのかしら」
クラリスがキャロルを見る。
「何かあった?」
「別に何も」
「その言い方は何かあるときの言い方よ」
「あなた、昔からそういうところだけ鋭いわね」
「だけ、は余計よ」
キャロルは少し笑った。それから、何でもないことのように話した。
「結婚前は、もっと一緒に出かけていたの」
「うん」
「私がどこかへ行きたいって言えば、すぐ予定を調整してくれたわ」
「今は?」
「忙しいって」
「仕事?」
「仕事のときもあるし、友人との予定や狩猟もあるわ」
「そう」
「私が誘うと、友人と行けばいいって言うの」
クラリスはすぐには答えなかった。
「あなたは、ローレンスと行きたいのね」
「当たり前でしょう?」
キャロルは即答した。
「だったら、そう言った?」
「言ったわよ」
「何て?」
「あなたと行きたいって」
「それで?」
「また今度って」
「……そっか」
クラリスは困ったように眉を下げた。
キャロルはカップを置いた。
「何よ」
「何も」
「またそれ」
「私が口を出すことでもないもの」
「でも、変だと思うでしょう?」
「何が?」
「結婚前と違いすぎるもの」
クラリスはしばらく考えてから言った。
「結婚したら、付き合っていた頃とまったく同じではいられないと思うわ」
「あなたもそうなの?」
「もちろん。夫にも仕事があるし、私にも予定があるから」
「じゃあ、一緒に出かけないの?」
「出かけるわよ。でも毎回じゃない」
「断られても平気?」
「残念だとは思うわ」
あっさり返され、キャロルは少し驚いた。
「怒らないの?」
「予定があるなら仕方ないでしょう」
「私より、彼が自分の予定を優先したとしても?」
「……キャロル」
クラリスが少し笑った。
「その質問、久しぶりに聞いたわ」
キャロルは顔をしかめた。
「何よ」
「学園の頃から変わらないのね」
「私は何もおかしなことを言っていないわ」
「そうね」
クラリスは否定しなかった。
その代わり、
「でも私は、夫が一度私より仕事を優先したからって、私を愛していないとは思わないわ」
と言った。
キャロルは黙った。
「どうして?」
「どうしてって?」
「どうして平気なの?」
「平気じゃないときもあるわよ。寂しいこともあるし、腹が立つことだってある」
「じゃあ同じじゃない」
「でも、それと愛されているかどうかは別でしょう?」
キャロルには、よく分からなかった。
「……難しいわ」
「そう?」
「私には難しいの」
クラリスはそれ以上何も言わなかった。
その夜。
キャロルが屋敷へ戻ると、ローレンスは出かける支度をしていた。
「今からどこへ行くの?」
「クラブですよ」
「また?」
「また、とは?」
「先週も行ったでしょう」
「一週間前ですよ」
「今日は家にいると思っていたわ」
「そう言いましたか?」
「言っていないけれど」
ローレンスは上着の袖を整えた。
「夕食は先に済ませてください」
「ローレンス」
「何です?」
クラリスとの会話が頭に残っていた。
寂しいなら、寂しいと言えばいい。
そんな簡単なことを、なぜか言いづらかった。
「……今日は一緒にいてほしいわ」
ローレンスが少し驚いたように見る。
「何かありました?」
「何もないけれど」
「なら、また別の日にしましょう」
「今日がいいの」
「今日は約束があります」
「一度くらい断れないの?」
口から出た瞬間。
キャロル自身、昔と同じ言葉だと思った。
ルイスにも、何度も言った。
けれどローレンスなら。
この人なら違う。
「キャロル」
夫の声に、わずかな苛立ちが混じった。
「前からの約束なんです」
「でも、私はあなたの妻でしょう?」
「だから?」
キャロルは目を瞬いた。
「……だから、私の方が大切でしょう?」
「またその話ですか?」
「またって何?」
「誰が一番大事だとか、そんなことをいちいち確認する必要がありますか?」
「私は確認したいの」
「なぜ?」
「あなたが最近、私のために何もしてくれないからよ」
ローレンスが眉を寄せた。
「何も?」
「そうよ」
「あなたはこの家で何不自由なく暮らしているでしょう」
「そういう意味じゃないわ」
「なら、どういう意味です?」
「前はもっと――」
言いかけて、キャロルは止まった。
前はもっと。
会いたいと言えば会ってくれた。行きたいと言えば連れていってくれた。欲しそうにしているものを見つければ、何も言わなくても贈ってくれた。
「結婚前は、私のために時間を作ってくれたでしょう?」
「結婚前と今は違います」
ローレンスは当然のように答えた。
「どう違うの?」
「今は夫婦でしょう」
「だから何?」
「毎日のように同じ家にいる。わざわざ何度も予定を空けて会う必要はないでしょう」
キャロルは言葉を失った。
「……必要がない?」
「そういう意味ではなく」
「そう言ったじゃない」
「恋人だった頃とは違うと言っているんです」
「私は違わないわ」
「キャロル」
「私があなたと一緒にいたいと思うのは、結婚したらおかしいの?」
「そんなことは言っていません」
「じゃあ、今日は一緒にいて」
「今日は無理です」
「私とお友達、どちらが大切なの?」
言ってしまった。
ローレンスはしばらく黙った。
その顔に浮かんだのは、困惑でも罪悪感でもない。
明らかな面倒くささだった。
「なぜ、そんなことをいちいち確認するんです?」
その言葉が胸に刺さった。
「……いちいち?」
「私は出かけるたびに、あなたへの愛情を証明しなければならないんですか?」
キャロルは動けなかった。
昔。
似たようなことを言われた気がした。
けれど思い出したくなかった。
「そんなこと言っていないわ」
「同じでしょう」
「違う」
「では、今日は行かせてもらいます」
ローレンスが部屋を出ていく。
扉が閉じた。
キャロルは一人、その場に残された。
◇
その夜。
食卓には、キャロルの好きな料理が並んでいた。料理人が用意してくれたものだ。食後には、果物を使った菓子も出た。それもキャロルの好物だった。
部屋へ戻れば暖炉には火が入り、寝台は綺麗に整えられている。
欲しいと言えば、たいていのものは手に入った。
美しいドレスも。
宝石も。
上質な食事も。
何一つ、不自由していない。
それなのに。
なぜ、こんなに寂しいのだろう。
キャロルは一人で寝台へ腰掛けた。
結婚前。ローレンスが海辺で言った言葉を思い出す。
――あなたが望むことなら、できるだけ叶えてあげたいとは思っています。
――なぜ?
――好きだからでしょうね。
あの言葉が嬉しかった。
愛されていると思えた。
では今は。
何もしてくれなくなった今は。
自分は、もう以前ほど愛されていないのだろうか。
そんな考えが浮かぶ。
キャロルは首を振った。
違う。
きっとローレンスが慣れてしまっただけだ。夫婦になったから、安心しているのだ。
なら。
もう一度、自分がどれだけ大切なのか分かってもらえばいい。
自分を失いたくないと思えば、以前のように戻ってくれるはず。
そう思った。
このときのキャロルはまだ。
自分がまた同じことを始めようとしているとは、気づいていなかった。




