第三話 十四歳年上の侯爵様
ルイスが結婚してから、しばらく経った。キャロルは二十三歳になっていた。
学園時代の可愛らしさはそのままに、今では社交界でもひときわ目を引く女性になっている。淡い金髪は艶やかに背へ流れ、澄んだ青い瞳には以前より落ち着きが加わった。
舞踏会へ出れば声をかけられる。観劇へ行けば、翌日に花が届く。食事会で好きだと言った菓子を覚えていて、後日届けてくれる男性もいた。
けれど、誰とも長く続かなかった。
優しい人はいた。気の利く人もいた。キャロルを綺麗だと言ってくれる人なら、いくらでもいた。
それでも、どこか足りない。
自分が会いたいときに、予定があると言われる。欲しいものを何気なく口にしても、忘れられることがある。こちらが誘っても、仕事を理由に断られる。
そんな小さなことが重なるたびに、キャロルの気持ちは冷めていった。
――この人も違う。
そう思ってしまう。
ルイスと別れた頃よりは、さすがに分別もついた。誰かに突然会いたいと言って、夜中に呼び出すようなことはもうしない。
けれど心の奥では、変わらず思っていた。
好きなら、自分を一番にしてくれるはず。自分のためなら、時間も手間も惜しまないはず。
そうでなければ、どうやって愛されていると分かるのだろう。
◇
ローレンス・グレイヴズ侯爵と初めてまともに言葉を交わしたのは、王都で開かれた音楽会だった。
名前は以前から知っていた。社交界で知らない者の方が少ない。
侯爵家の当主。裕福で、領地経営にも成功している。若い頃に妻を亡くし、その後は長く再婚していないという話も聞いたことがあった。
キャロルより十四歳年上。年齢だけ聞けば、ずいぶん離れている。
けれど実際に会ってみると、老けた印象はまるでなかった。
濃い茶色の髪をすっきりと整え、落ち着いた灰青色の瞳をしている。背が高く、立ち居振る舞いにも余裕があった。
若い男性たちのように、キャロルを見た途端に分かりやすく浮き足立つこともない。それがかえって新鮮だった。
「ウェストン伯爵令嬢」
休憩時間。飲み物を受け取ろうとしていたところへ、ローレンスが声をかけてきた。
「先ほどから、ずいぶん退屈そうにしていらっしゃる」
キャロルは目を瞬いた。
「まあ。そんな顔をしていました?」
「少なくとも、演奏に夢中な顔ではありませんでしたね」
「失礼ですわね」
「違いましたか?」
キャロルは少し考えてから笑った。
「……半分くらいは当たっています」
「半分?」
「最初の曲は好きでした。でも、そのあとの三曲は少し長かったです」
「正直だ」
「侯爵様が聞いたのでしょう?」
「確かに」
ローレンスも笑う。からかわれているのに、不快ではなかった。
「では、次の曲も退屈だったら?」
「どうしましょう」
「抜け出しますか?」
「え?」
「ここから少し歩いたところに、夜まで開いている菓子店があります」
キャロルは思わず彼を見た。
「侯爵様が音楽会を抜け出して?」
「私はもう十分聴きました」
「でも、周りに何か言われるのでは?」
「言わせておけばいいでしょう」
さらりと言われる。
キャロルは少し笑った。
「ずいぶん自由なのですね」
「この年になると、多少は好きにしても許されます」
「十四歳年上だから?」
「私の年齢をご存じでしたか」
「有名ですもの」
「年齢まで?」
「侯爵様は有名人ですから」
ローレンスは楽しそうに目を細めた。
「では、その有名な侯爵と菓子を食べに行くのはどうです?」
冗談めかした誘いだった。
けれどキャロルは、少しだけ胸が高鳴った。
◇
その日のうちに抜け出すことはしなかった。さすがに初対面に近い男性と二人で会場を離れるほど、キャロルも無邪気ではない。
けれど、次の週。
ローレンスから正式に茶会への招待が届いた。さらにその数日後には観劇。その次は食事。
会う回数は自然に増えていった。
ローレンスといる時間は心地よかった。彼は話題が豊富だった。
旅行の話。珍しい絵画の話。領地で採れる葡萄から作った酒の話。王都で最近評判になっている店の話。
キャロルが知らないことをたくさん知っているのに、それをひけらかすことはなかった。
「キャロル嬢は、甘いものがお好きですね」
ある日の午後。店で出された焼き菓子を嬉しそうに食べていると、ローレンスが言った。
「好きですわ」
「特に?」
「果物を使ったものが好きです。季節で味が変わるでしょう?」
「なるほど」
「でも、この店なら蜂蜜の菓子も美味しいです」
「覚えておきましょう」
「何を?」
「あなたが果物の菓子を好むことを」
キャロルは少し笑った。
「そんなことまで覚えてくださるのですか?」
「大事なことですから」
「お菓子の好みが?」
「あなたを喜ばせるには必要でしょう?」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
数日後。屋敷へ戻ると、大きな箱が届いていた。
「何かしら」
侍女が箱を開く。
中には、あの日話していた店の果物菓子が綺麗に並んでいた。添えられたカードには短く、
――季節のものが入ったそうです。
とだけ書かれている。
キャロルは思わず笑った。
「本当に覚えていたのね」
嬉しかった。高価なものだからではない。
自分が何気なく口にしたことを覚えていてくれた。それが何より嬉しい。
◇
ローレンスは、贈り物が上手だった。
宝石を贈ることもあった。けれど、ただ高価なものを選ぶわけではない。
ある日、キャロルが青みを帯びた真珠を眺めていると、
「気に入りましたか?」
と聞かれた。
「綺麗だと思っただけです」
「欲しい?」
「そこまでは」
そう答えたのに。
数日後、その真珠を使った小さな耳飾りが届いた。派手ではない。けれど、キャロルの青い瞳によく似合った。
「侯爵様は、何でも買ってしまうのね」
次に会ったとき、キャロルがそう言うと、ローレンスは笑った。
「何でもではありません」
「でも、私が見ていたからでしょう?」
「ええ」
「欲しいって言わなかったのに」
「欲しそうでしたから」
「そんなに分かりやすかった?」
「私は人を見るのが得意なんです」
そう言って、ローレンスはキャロルの耳元を見る。
「やはり似合っていますね」
キャロルは無意識に耳飾りへ触れた。
褒められたことより、自分に似合うと思って選んでくれたことの方が嬉しかった。
◇
「ローレンス侯爵とは、ずいぶん親しくなったのね」
ある日、クラリスに言われた。二人は街の店で昼食を取っていた。
「ええ」
「楽しそう」
「楽しいわよ」
「珍しいわね」
「何が?」
「あなたがこんなに長く同じ人の話をするの」
キャロルは少し不満そうに眉を上げた。
「失礼ね」
「褒めてるのよ」
「全然そう聞こえないわ」
クラリスは笑う。
「でも、本当に大事にされているみたいね」
「でしょう?」
キャロルは嬉しくなった。
「この前もね、私が海を見たいって言ったの」
「海?」
「ええ。子どもの頃以来行っていないから、久しぶりに見たいって」
「それで?」
「来月、行くことになったわ」
クラリスが目を丸くする。
「もう?」
「侯爵領へ行く途中に海辺の街があるんですって。滞在先も手配してくれたの」
「ずいぶん段取りが早いわね」
「仕事の予定も調整してくれたそうよ」
「そう」
クラリスは少し考えるような顔をした。
「何?」
「別に」
「また何か言いたそう」
「今回は何も言わないわ」
「本当に?」
「ええ。あなたが楽しそうだから」
キャロルは満足して、紅茶を一口飲んだ。
◇
海辺への旅行は、想像していた以上に楽しかった。もちろん二人きりではない。キャロルの侍女も同行し、ローレンス側の従者たちもいた。
それでも、朝から夕方まで一緒に過ごす時間は長かった。
海は青く、空も広い。王都とは違う潮の香りがする。
「綺麗」
宿の前に広がる海を見て、キャロルは素直に声を上げた。
「来てよかった?」
「ええ」
「それならよかった」
「侯爵様は何度も来ているのでしょう?」
「仕事ではね」
「仕事?」
「港の視察や交易の話ばかりです。景色を眺めたことはほとんどない」
「もったいない」
「私もそう思います」
ローレンスが海ではなくキャロルを見る。
「あなたと来て、初めてそう思いました」
キャロルは少しだけ頬が熱くなった。
若い男性に似たようなことを言われたことはある。でもローレンスが言うと、不思議と軽く聞こえなかった。
◇
その夜。
宿の食堂で夕食を終えたあと、キャロルは窓際で海を眺めていた。月明かりが水面に細く伸びている。
「寒くありませんか?」
後ろからローレンスに声をかけられる。
「少しだけ」
すると彼は、自分の上着をキャロルの肩へかけた。
「ありがとう」
「部屋へ戻った方がいい」
「もう少しだけ見ていたいの」
「では、付き合いましょう」
「疲れていない?」
「多少は」
「だったら休んでいいのよ」
「あなたがまだここにいたいのでしょう?」
「ええ」
「なら、私もいます」
あまりにも自然に言われた。
キャロルは彼を見る。
「侯爵様って、本当に私に甘いのね」
「今頃気づきましたか?」
「気づいていたけれど」
「なら聞く必要はないでしょう」
「聞きたいときもあるの」
ローレンスは小さく笑った。
「何度でも答えますよ」
「本当に?」
「ええ」
「私のためなら、何でもしてくれる?」
冗談半分だった。
けれどローレンスは、ほとんど迷わなかった。
「できることなら」
「それでは答えになっていないわ」
「では、かなりのことは」
「曖昧ね」
「あなたは難しい人だ」
そう言いながらも、ローレンスは楽しそうだった。
「でも」
彼が続ける。
「あなたが望むことなら、できるだけ叶えてあげたいとは思っています」
キャロルは黙った。
「なぜ?」
「好きだからでしょうね」
胸が大きく鳴った。
「……ずいぶん簡単に言うのね」
「難しく言う必要がありますか?」
「普通はもう少し」
「私はもう若くないので」
ローレンスは穏やかに笑う。
「好きな女性に好きだと言うくらい、素直にしていたい」
キャロルは海へ視線を戻した。
唇が勝手に緩んでしまう。
こんなふうに言われるのは、嫌いではなかった。
◇
ローレンスとの交際が始まってから、キャロルが不安になることはほとんどなかった。
会いたいと言えば時間を作ってくれる。欲しいものを覚えていてくれる。行きたい場所があれば連れていってくれる。忙しい日でも手紙は届く。
急に予定が変わって会えなくなれば、必ず別の日を用意した。
何より。
キャロルが何かを望んだとき、ローレンスは面倒そうな顔をしなかった。
「またですか」
とも。
「どうして私が」
とも言わない。
むしろ、
「次は何がしたい?」
と聞いてくれる。
それが、キャロルには心地よかった。
◇
「ずいぶん高価なものね」
母ジョアンナが、キャロルの首元を見て言った。そこにはローレンスから贈られた淡い青色の宝石が輝いていた。
「綺麗でしょう?」
「ええ。あなたによく似合っているわ」
「侯爵様が選んでくださったの」
「そう」
ジョアンナは微笑む。
「大切にされているのね」
その言葉に、キャロルの胸が満たされた。
「ええ」
大切にされている。
母からそう言われると、なぜかいつも以上に嬉しかった。
「侯爵様はとてもお忙しい方でしょう?」
「ええ。でも、私のためなら時間を作ってくださるわ」
「それはよかったわね」
ジョアンナはそう言うと、ちょうど部屋へ入ってきたダニエルへ視線を向けた。
「あら、ダニエル。今日の勉強は終わったの?」
「はい」
「どうだった?」
ジョアンナの声が少し柔らかくなる。
昔から変わらない。
キャロルは一瞬だけ二人を見た。けれど、すぐに首元の宝石へ指を触れた。
今はもう、昔とは違う。
自分には、自分を一番にしてくれる人がいる。
そう思えば、胸の奥に浮かんだ小さな寂しさもすぐに消えた。
◇
ローレンスから正式に求婚されたのは、それから半年ほど経った頃だった。
場所は、二人が何度か訪れた王都のレストランだった。個室には淡い色の花が飾られている。
食事を終えたあと。
ローレンスは小さな箱をテーブルへ置いた。
キャロルはすぐに意味を察した。
「キャロル」
いつも余裕のある彼が、このときだけ少し真面目な顔をしている。
「私と結婚してくれませんか」
箱の中には指輪があった。
大きすぎない宝石。
キャロルの好きな青。
以前、何気なく「こういう色が好き」と言ったことを、きっと覚えていたのだ。
「……覚えていたのね」
「何を?」
「この色が好きって言ったこと」
「もちろん」
その一言だけで、胸がいっぱいになった。
「どうして私なの?」
聞かなくてもよかった。
それでも聞きたくなった。
「あなたなら、もっと素敵な女性を選べるでしょう?」
「そうですね」
「否定しないの?」
「事実ですから」
ローレンスは笑った。
「あなたは綺麗で、明るくて、一緒にいると退屈しない」
「それだけ?」
「まだありますよ」
「聞きたいわ」
「欲張りですね」
「知っているでしょう?」
「ええ」
ローレンスは少し考える。
「あなたは、自分が何を好きかをよく分かっている。食べたいもの、行きたい場所、欲しいもの。そういうことを素直に言える人は、私は好きです」
キャロルは目を瞬いた。
「わがままだと思わない?」
「多少は」
「まあ」
「でも、それもあなたでしょう」
ローレンスは穏やかに続けた。
「私は、あなたが欲しいと言うものを与えるのが嫌ではない」
キャロルの胸が震えた。
「それに」
「まだあるの?」
「あります」
ローレンスはキャロルを見る。
「あなたが喜ぶ顔を見るのが好きです」
その瞬間。
キャロルは、昔ルイスに言われたことを思い出した。
――君が喜ぶのが嬉しかったから。
ほんの一瞬だけだった。
でも、そのあとの言葉も同時に蘇った。
――でも、ずっとはできないよ。
胸の奥が少しだけ冷たくなる。
けれど目の前にいるローレンスは、ルイスとは違う。
十四歳も年上で。落ち着いていて。裕福で。自分の時間も金も、自分で自由に使える人。
何より、この半年。
キャロルを一度も不安にさせなかった。
「結婚しても?」
キャロルは尋ねた。
「何がです?」
「今みたいに、私を大切にしてくれる?」
ローレンスは少し驚いたように目を瞬いた。それから、当然のことを聞かれたように笑った。
「もちろん」
「本当に?」
「ええ」
「忙しくなっても?」
「時間くらい作りますよ」
「私が欲しいものがあったら?」
「相談してください」
「行きたいところがあったら?」
「連れていきましょう」
キャロルは笑った。
胸の奥に残っていた不安が、綺麗に消えていく。
この人なら大丈夫。
ルイスとは違う。
自分を一番にしてくれる。自分のために時間を使ってくれる。自分が喜ぶことを、喜んでしてくれる。
ようやく見つけた。
自分を本当に大切にしてくれる人。
「はい」
キャロルは手を差し出した。
「喜んで」
ローレンスがその手を取る。指に青い石の指輪がはめられた。
キャロルは幸せだった。
少なくとも、そのときは心からそう思っていた。




