第二話 初恋の人は、私を選ばなかった
ルイスは、その後もしばらく変わらず優しかった。キャロルが会いたいと言えば会いに来た。欲しいと言った本を覚えていて、街で見つければ買ってきてくれた。
学園の帰りにはできるだけ一緒に帰り、休日にも時間を作った。だからキャロルは、自分たちはうまくいっていると思っていた。
「ねえ、ルイス。来週の休日、湖へ行かない?」
放課後。二人で学園の庭を歩きながら、キャロルは思いついたように言った。
「湖?」
「ええ。少し前にクラリスが行ったんですって。水辺に白い花が咲いていて、とても綺麗だったって」
「いいね」
「でしょう?」
キャロルは嬉しそうに笑う。
「じゃあ、行きましょう」
ルイスは少しだけ言葉に詰まった。
「来週は……」
「何かあるの?」
「父と領地へ行く予定なんだ」
「領地?」
「ああ。春から話は聞いていただろう? 今年から少しずつ仕事を覚えることになっていて」
「でも、一日くらい空けられないの?」
「今回は難しいと思う」
「そう」
キャロルの笑顔が消える。ルイスはすぐに続けた。
「再来週ならどうかな」
「その頃には、花が終わってしまうかもしれないわ」
「じゃあ、別のところへ行こう。君が行きたい場所を探して――」
「私は湖へ行きたいの」
「キャロル」
「だって、ずっと行ってみたかったんだもの」
実際には、湖の話を聞いたのは数日前だった。けれど今は、本当に行きたくなっていた。
そしてそれ以上に。
ルイスが自分のために予定を変えてくれるか、知りたかった。
「お父様に頼んでみてくれない?」
「仕事なんだ」
「一度くらい休んでもいいでしょう?」
「そういうわけにはいかないよ」
ルイスの声は穏やかだった。けれど、以前のように「仕方ないな」と笑って折れてはくれなかった。
キャロルは胸の奥がざわつく。
「……分かったわ」
「怒らないで」
「怒っていないもの」
「だったら、こっちを見てくれないか」
「見たくないの」
「それを怒ってるって言うんじゃないかな」
「知らないわ」
キャロルは足を速めた。ルイスが追いついてくる。
「キャロル」
「何?」
「本当に今回は無理なんだ」
「分かったって言ったでしょう」
「でも――」
「もういいわ」
そう言いながら、キャロルは少しもよくなかった。
以前なら、最後には自分を選んでくれた。なのに最近、ルイスは「無理だ」と言うことが増えた気がする。
父親との約束。友人との予定。勉強。将来のための仕事。
キャロル以外のものが、少しずつ彼の時間を占めるようになっていた。
それが嫌だった。
◇
「ねえ、最近ルイスと喧嘩しているの?」
昼食の席でクラリスに尋ねられ、キャロルは眉を寄せた。
「喧嘩なんてしていないわ」
「そう? 前ほど一緒にいないでしょう」
「ルイスが忙しいのよ」
「家の仕事?」
「そうみたい」
「卒業も近いものね」
クラリスは納得したように頷いた。それがまた、キャロルには気に入らなかった。
「でも、少しくらい時間を作れると思わない?」
「作っているんじゃないの?」
「前より減ったわ」
「それは仕方ないでしょう。ずっと学生でいるわけじゃないんだから」
「クラリスまでルイスの味方をするの?」
「味方とかじゃなくて」
クラリスが呆れた顔になる。
「キャロルだって卒業したら、今までと同じ生活じゃないでしょう?」
「私は変わらないわ」
「そんなわけないでしょう」
「少なくとも、好きな人を後回しにはしないもの」
クラリスは手にしていたカップを置いた。
「キャロル」
「何?」
「好きな人が一番大事でも、いつも一番にしなきゃいけないわけじゃないわよ」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
「分からないわ」
「でしょうね」
「もう」
キャロルは頬を膨らませた。クラリスは小さく笑っただけで、それ以上は言わなかった。
◇
それから数週間後。
キャロルは学園の廊下で、ルイスが友人たちと話しているところを見かけた。楽しそうだった。声を立てて笑っている。
最近、自分といるときにはあまり見なくなった笑い方だった。そのことに気づいた瞬間、胸が痛んだ。
「ルイス」
声をかけると、彼が振り向く。
「キャロル」
笑顔は消えなかった。けれど友人たちと話していたときとは、少し違って見えた。
「今から帰るの?」
「ああ。少し寄るところがあるけど」
「どこ?」
「友人の家だよ。卒業後のことを相談することになってる」
「また?」
思わず口から出た。ルイスの眉がわずかに動く。
「また、って?」
「最近、ずっとお友達と一緒でしょう」
「そんなことはないよ」
「この間の休日も会えなかったわ」
「あれは領地へ行っていたからだろう」
「昨日も一緒に帰れなかった」
「先生に呼ばれていたんだ」
「今日はお友達」
ルイスが息をつく。その小さなため息に、キャロルは傷ついた。
「キャロル」
「何よ」
「ここで話すことじゃない」
「じゃあ、私の家へ来て」
「今日は無理だ」
「どうして?」
「今言っただろう。約束があるんだ」
「断って」
一瞬、ルイスが黙った。
「キャロル」
「今日くらいいいでしょう?」
「よくないよ」
「私が話したいって言っているのに?」
「ああ」
はっきりとした返事だった。
キャロルは目を見開く。こんなふうに言われたのは初めてだった。
「……私より、その人たちの方が大事なの?」
「そういう話じゃない」
「同じでしょう」
「違うよ」
「違わないわ」
キャロルは声を抑えた。周囲にはまだ生徒たちがいる。本当なら、こんな場所で言い争いたくなかった。
それでも止められなかった。
「私が会いたいって言っているのに、ほかの人との約束を選ぶんでしょう?」
「先に約束していたからだ」
「好きなら、私を一番にしてくれるでしょう?」
ルイスの顔から表情が消えた。
キャロルはその変化に気づいた。けれど、もう引けなかった。
「前はそうしてくれたじゃない」
「……そうだね」
「だったら――」
「だから、僕が悪かったんだと思う」
キャロルは言葉を失った。
「何、それ」
「最初から、できないことはできないって言えばよかった」
「どうしてそんなことを言うの?」
「君が怒るからだよ」
「私のせいなの?」
「そういう意味じゃない」
「だったら何?」
ルイスは困ったように額へ手を当てた。
「今日は行かないと」
「また逃げるの?」
「逃げてないよ」
「じゃあ家に来て」
「行けない」
「……分かったわ」
キャロルは背を向けた。
「もういい」
「キャロル!」
呼び止められたが、振り返らなかった。
きっと追いかけてくる。少し待てば、いつものように謝ってくれる。
そう思っていた。
けれど。
その日、ルイスは追いかけてこなかった。
◇
数日が過ぎても、ルイスから謝罪はなかった。学園では挨拶をする。話しかければ答える。けれど以前のように、毎日キャロルを待ってはいなかった。
キャロルは耐えきれなくなり、放課後に彼を呼び止めた。
「ルイス」
「キャロル」
「少し話せる?」
「ああ」
断られなかったことに、少し安心した。
二人は人の少ない庭へ移動した。夕暮れが近く、花壇の向こうに長い影が伸びている。
「ルイス。この前のこと、まだ怒っているの?」
「怒ってはいないよ」
「じゃあ、どうして最近避けるの?」
ルイスはすぐには答えなかった。
「避けてるわけじゃない」
「嘘」
「……少し考えていたんだ」
「何を?」
ルイスがキャロルを見る。
優しい灰色の瞳。
好きだった。今もきっと好きなのだと思う。
だからキャロルは、次に彼が何を言うのか分からなかった。
「僕たちのこと」
「私たち?」
「ああ」
「何を考える必要があるの?」
「キャロル」
ルイスは少し迷ってから言った。
「僕は、君のことが好きだった」
だった。
その言葉に、胸がざわつく。
「どうして過去形なの?」
「今も嫌いじゃないよ」
「そんなこと聞いてないわ」
「うん」
「私のこと、好きじゃなくなったの?」
ルイスは答えなかった。
その沈黙だけで、涙が込み上げてくる。
「どうして?」
「……疲れたんだ」
キャロルは目を瞬いた。
「疲れた?」
「ずっと、君が僕を好きでいられるようにしなきゃいけない気がしていた」
「そんなこと頼んでないわ」
「頼んでたよ」
穏やかな声だった。責める響きはなかった。だから余計に苦しかった。
「君が会いたいと言えば、どんな予定でも変えた。断ったら悲しむから」
「それは、私に会いたかったからでしょう?」
「会いたかったときもある」
「……何、それ」
「でも、疲れている日もあった。友人と過ごしたい日もあった。勉強しなきゃいけない日も、家のことをしなきゃいけない日もあった」
「だったら言えばよかったじゃない」
「言ったら、君は『私より大事なの?』って聞くだろう?」
キャロルは何も言えなかった。確かに聞いた。一度だけではない。
「そのたびに、僕が君を一番にしないと、君は僕に愛されていないって思う」
「だって……」
声が震える。
「好きなら、そうするものだと思っていたもの」
「僕も最初は、君を一番にできると思ってた」
ルイスは少し寂しそうに笑った。
「君が喜ぶのが嬉しかったから」
「だったら――」
「でも、ずっとはできないよ」
はっきりと言われた。
「これから先も、僕には君以外のものがある。家族も、友人も、仕事もある」
「私だって、全部捨てろなんて言ってないわ」
「分かってる」
「ただ、私を一番にしてほしかっただけよ」
「それが、僕にはできないんだ」
キャロルの胸に、冷たいものが落ちた。
「……そう」
「キャロル」
「だったら、もういいわ」
「待って」
「何を待つの?」
キャロルは笑おうとした。けれどうまくできなかった。
「私を一番にできないんでしょう?」
「そういう意味じゃ――」
「同じよ」
「違う」
「私には同じなの」
涙を見られたくなくて、キャロルは顔を背けた。
「もう帰るわ」
「送るよ」
「いらない」
「でも――」
「いらないって言っているでしょう!」
初めて、ルイスに声を荒らげた。
彼は黙った。
キャロルはそのまま歩き出した。
今度こそ、追いかけてこなかった。
◇
ルイスと別れたあとも、学園生活は続いた。
最初のうちは、すぐに戻ると思っていた。何日か経てば、ルイスがやっぱり自分を好きだったと気づく。
そうしたら少しくらい怒ってから許してあげよう。そんなことを考えていた。
けれど、一週間が過ぎても。
一か月が過ぎても。
ルイスは戻らなかった。
卒業の日。
キャロルはクラリスと並んで校門を出た。少し離れたところに、ルイスの姿があった。友人たちと話している。
キャロルに気づくと、彼は少し迷ってからこちらへ歩いてきた。
「卒業、おめでとう」
「ルイスも」
「元気で」
「……ええ」
「キャロル」
「何?」
ルイスは何かを言いかけて、やめた。
「いや。幸せになって」
キャロルは胸の奥が痛くなった。
「あなたに言われなくてもなるわ」
「ああ」
ルイスは少し笑った。
以前なら、その笑顔だけで安心できた。
今はもう違った。
彼は去っていく。キャロルは背中を見送った。
「追いかけなくていいの?」
隣でクラリスが尋ねる。
「どうして私が?」
「そう」
クラリスはそれ以上言わなかった。キャロルも、泣かなかった。
泣いたら、本当に自分が捨てられたような気がしたから。
◇
数年後。
キャロルは二十二歳になっていた。学園時代のお人形のような可愛らしさは残しながらも、女性らしい華やかさが加わっていた。
社交界では相変わらず人気があった。舞踏会に出れば声をかけられ、花や菓子が届けられることも珍しくない。
それでも、誰かと長く付き合うことはなかった。
そんなある日。
クラリスの家でお茶を飲んでいると、何気ない会話の中でルイスの名前が出た。
「そういえば、ルイスが結婚したのは知っている?」
キャロルの手が止まった。
「……知らないわ」
クラリスも一瞬しまったという顔をした。
「ごめんなさい。てっきり聞いているものだと思って」
「いいのよ」
キャロルはカップを置いた。
「いつ?」
「先月」
「そう」
「相手は北部の子爵家の方よ」
「知っている人?」
「私は少しだけ。あなたも一度くらい会ったことがあるかもしれないわ」
「どんな人?」
聞かなくてもいいのに、口から出た。クラリスは慎重に答えた。
「穏やかな方よ」
「綺麗?」
「え?」
「その人」
「……綺麗だと思うわ。でも、どちらかというと可愛らしい感じかしら」
「そう」
キャロルは笑った。
「ルイスらしいわね」
何がルイスらしいのか、自分でも分からなかった。
◇
その年の秋。
キャロルはある夜会で、ルイス夫妻を見かけた。
遠くからだった。ルイスの隣には、淡い茶色の髪をした女性がいた。豪華な宝石を身につけているわけでもない。社交界でひときわ目を引く美貌というわけでもなかった。
けれど、よく笑う人だった。
ルイスが何かを言う。彼女が笑う。今度は彼女が何かを言い、ルイスが声を立てて笑った。
その姿を見た瞬間。
キャロルは、昔の学園の廊下を思い出した。
友人たちと話していたときのルイス。自分といるときには、最後の頃ほとんど見なくなっていた笑い方。
胸が締めつけられた。
「キャロル?」
一緒にいたクラリスが呼ぶ。
「何?」
「大丈夫?」
「何が?」
キャロルは微笑んだ。
「ルイスのこと?」
「別に」
「そう」
クラリスは何も言わなかった。
キャロルはもう一度だけ、二人を見る。ルイスの妻が何かに気づいて彼の袖を軽く引いた。ルイスが自然に身を屈める。
何かを頼まれたわけではない。どちらかが相手に合わせようと必死になっている様子もない。
ただ、二人でいる。
それだけだった。
キャロルには、その関係が少し不思議に見えた。
「……私ではなく、あの人を選んだのね」
ぽつりと言う。
クラリスがキャロルを見る。
「キャロル」
「分かっているわ」
キャロルはグラスを持ち直した。
「もう終わったことよ」
本当に、もう終わっている。何年も前に。
それでも胸の奥には、昔と同じ思いが残った。
結局、ルイスも自分を一番にはしてくれなかった。
だから別の女性を選んだ。
その頃のキャロルには、まだそれ以上のことは分からなかった。ルイスが自分を選ばなかった理由も、彼といる間、自分が何を求め続けていたのかも。
ただ一つ分かっていたのは。
次に誰かを好きになるなら。
今度こそ、自分を一番にしてくれる人がいい。何を望んでも惜しまず与えてくれる人がいい。自分のために、時間も手間も使ってくれる人。
そういう人なら。
きっともう、愛されているのか不安にならずに済む。
キャロルはそう信じていた。




