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愛しているなら、私のために何かしてくれると思っていました  作者: 黒猫と珈琲


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2/8

第二話 初恋の人は、私を選ばなかった

 ルイスは、その後もしばらく変わらず優しかった。キャロルが会いたいと言えば会いに来た。欲しいと言った本を覚えていて、街で見つければ買ってきてくれた。


 学園の帰りにはできるだけ一緒に帰り、休日にも時間を作った。だからキャロルは、自分たちはうまくいっていると思っていた。


「ねえ、ルイス。来週の休日、湖へ行かない?」


 放課後。二人で学園の庭を歩きながら、キャロルは思いついたように言った。


「湖?」

「ええ。少し前にクラリスが行ったんですって。水辺に白い花が咲いていて、とても綺麗だったって」

「いいね」

「でしょう?」


 キャロルは嬉しそうに笑う。


「じゃあ、行きましょう」


 ルイスは少しだけ言葉に詰まった。


「来週は……」

「何かあるの?」

「父と領地へ行く予定なんだ」

「領地?」

「ああ。春から話は聞いていただろう? 今年から少しずつ仕事を覚えることになっていて」

「でも、一日くらい空けられないの?」

「今回は難しいと思う」

「そう」


 キャロルの笑顔が消える。ルイスはすぐに続けた。


「再来週ならどうかな」

「その頃には、花が終わってしまうかもしれないわ」

「じゃあ、別のところへ行こう。君が行きたい場所を探して――」

「私は湖へ行きたいの」

「キャロル」

「だって、ずっと行ってみたかったんだもの」


 実際には、湖の話を聞いたのは数日前だった。けれど今は、本当に行きたくなっていた。


 そしてそれ以上に。


 ルイスが自分のために予定を変えてくれるか、知りたかった。


「お父様に頼んでみてくれない?」

「仕事なんだ」

「一度くらい休んでもいいでしょう?」

「そういうわけにはいかないよ」


 ルイスの声は穏やかだった。けれど、以前のように「仕方ないな」と笑って折れてはくれなかった。


 キャロルは胸の奥がざわつく。


「……分かったわ」

「怒らないで」

「怒っていないもの」

「だったら、こっちを見てくれないか」

「見たくないの」

「それを怒ってるって言うんじゃないかな」

「知らないわ」


 キャロルは足を速めた。ルイスが追いついてくる。


「キャロル」

「何?」

「本当に今回は無理なんだ」

「分かったって言ったでしょう」

「でも――」

「もういいわ」


 そう言いながら、キャロルは少しもよくなかった。


 以前なら、最後には自分を選んでくれた。なのに最近、ルイスは「無理だ」と言うことが増えた気がする。


 父親との約束。友人との予定。勉強。将来のための仕事。


 キャロル以外のものが、少しずつ彼の時間を占めるようになっていた。


 それが嫌だった。


 ◇


「ねえ、最近ルイスと喧嘩しているの?」


 昼食の席でクラリスに尋ねられ、キャロルは眉を寄せた。


「喧嘩なんてしていないわ」

「そう? 前ほど一緒にいないでしょう」

「ルイスが忙しいのよ」

「家の仕事?」

「そうみたい」

「卒業も近いものね」


 クラリスは納得したように頷いた。それがまた、キャロルには気に入らなかった。


「でも、少しくらい時間を作れると思わない?」

「作っているんじゃないの?」

「前より減ったわ」

「それは仕方ないでしょう。ずっと学生でいるわけじゃないんだから」

「クラリスまでルイスの味方をするの?」

「味方とかじゃなくて」


 クラリスが呆れた顔になる。


「キャロルだって卒業したら、今までと同じ生活じゃないでしょう?」

「私は変わらないわ」

「そんなわけないでしょう」

「少なくとも、好きな人を後回しにはしないもの」


 クラリスは手にしていたカップを置いた。


「キャロル」

「何?」

「好きな人が一番大事でも、いつも一番にしなきゃいけないわけじゃないわよ」

「どういう意味?」

「そのままの意味」

「分からないわ」

「でしょうね」

「もう」


 キャロルは頬を膨らませた。クラリスは小さく笑っただけで、それ以上は言わなかった。


 ◇


 それから数週間後。


 キャロルは学園の廊下で、ルイスが友人たちと話しているところを見かけた。楽しそうだった。声を立てて笑っている。


 最近、自分といるときにはあまり見なくなった笑い方だった。そのことに気づいた瞬間、胸が痛んだ。


「ルイス」


 声をかけると、彼が振り向く。


「キャロル」


 笑顔は消えなかった。けれど友人たちと話していたときとは、少し違って見えた。


「今から帰るの?」

「ああ。少し寄るところがあるけど」

「どこ?」

「友人の家だよ。卒業後のことを相談することになってる」

「また?」


 思わず口から出た。ルイスの眉がわずかに動く。


「また、って?」

「最近、ずっとお友達と一緒でしょう」

「そんなことはないよ」

「この間の休日も会えなかったわ」

「あれは領地へ行っていたからだろう」

「昨日も一緒に帰れなかった」

「先生に呼ばれていたんだ」

「今日はお友達」


 ルイスが息をつく。その小さなため息に、キャロルは傷ついた。


「キャロル」

「何よ」

「ここで話すことじゃない」

「じゃあ、私の家へ来て」

「今日は無理だ」

「どうして?」

「今言っただろう。約束があるんだ」

「断って」


 一瞬、ルイスが黙った。


「キャロル」

「今日くらいいいでしょう?」

「よくないよ」

「私が話したいって言っているのに?」

「ああ」


 はっきりとした返事だった。


 キャロルは目を見開く。こんなふうに言われたのは初めてだった。


「……私より、その人たちの方が大事なの?」

「そういう話じゃない」

「同じでしょう」

「違うよ」

「違わないわ」


 キャロルは声を抑えた。周囲にはまだ生徒たちがいる。本当なら、こんな場所で言い争いたくなかった。


 それでも止められなかった。


「私が会いたいって言っているのに、ほかの人との約束を選ぶんでしょう?」

「先に約束していたからだ」


「好きなら、私を一番にしてくれるでしょう?」


 ルイスの顔から表情が消えた。


 キャロルはその変化に気づいた。けれど、もう引けなかった。


「前はそうしてくれたじゃない」

「……そうだね」

「だったら――」


「だから、僕が悪かったんだと思う」


 キャロルは言葉を失った。


「何、それ」

「最初から、できないことはできないって言えばよかった」

「どうしてそんなことを言うの?」

「君が怒るからだよ」

「私のせいなの?」

「そういう意味じゃない」

「だったら何?」


 ルイスは困ったように額へ手を当てた。


「今日は行かないと」

「また逃げるの?」

「逃げてないよ」

「じゃあ家に来て」

「行けない」

「……分かったわ」


 キャロルは背を向けた。


「もういい」


「キャロル!」


 呼び止められたが、振り返らなかった。


 きっと追いかけてくる。少し待てば、いつものように謝ってくれる。


 そう思っていた。


 けれど。


 その日、ルイスは追いかけてこなかった。


 ◇


 数日が過ぎても、ルイスから謝罪はなかった。学園では挨拶をする。話しかければ答える。けれど以前のように、毎日キャロルを待ってはいなかった。


 キャロルは耐えきれなくなり、放課後に彼を呼び止めた。


「ルイス」

「キャロル」

「少し話せる?」

「ああ」


 断られなかったことに、少し安心した。


 二人は人の少ない庭へ移動した。夕暮れが近く、花壇の向こうに長い影が伸びている。


「ルイス。この前のこと、まだ怒っているの?」

「怒ってはいないよ」

「じゃあ、どうして最近避けるの?」


 ルイスはすぐには答えなかった。


「避けてるわけじゃない」

「嘘」

「……少し考えていたんだ」

「何を?」


 ルイスがキャロルを見る。


 優しい灰色の瞳。


 好きだった。今もきっと好きなのだと思う。


 だからキャロルは、次に彼が何を言うのか分からなかった。


「僕たちのこと」

「私たち?」

「ああ」

「何を考える必要があるの?」


「キャロル」


 ルイスは少し迷ってから言った。


「僕は、君のことが好きだった」


 だった。


 その言葉に、胸がざわつく。


「どうして過去形なの?」

「今も嫌いじゃないよ」

「そんなこと聞いてないわ」

「うん」

「私のこと、好きじゃなくなったの?」


 ルイスは答えなかった。


 その沈黙だけで、涙が込み上げてくる。


「どうして?」


「……疲れたんだ」


 キャロルは目を瞬いた。


「疲れた?」


「ずっと、君が僕を好きでいられるようにしなきゃいけない気がしていた」

「そんなこと頼んでないわ」

「頼んでたよ」


 穏やかな声だった。責める響きはなかった。だから余計に苦しかった。


「君が会いたいと言えば、どんな予定でも変えた。断ったら悲しむから」

「それは、私に会いたかったからでしょう?」

「会いたかったときもある」

「……何、それ」

「でも、疲れている日もあった。友人と過ごしたい日もあった。勉強しなきゃいけない日も、家のことをしなきゃいけない日もあった」

「だったら言えばよかったじゃない」

「言ったら、君は『私より大事なの?』って聞くだろう?」


 キャロルは何も言えなかった。確かに聞いた。一度だけではない。


「そのたびに、僕が君を一番にしないと、君は僕に愛されていないって思う」

「だって……」


 声が震える。


「好きなら、そうするものだと思っていたもの」


「僕も最初は、君を一番にできると思ってた」


 ルイスは少し寂しそうに笑った。


「君が喜ぶのが嬉しかったから」

「だったら――」


「でも、ずっとはできないよ」


 はっきりと言われた。


「これから先も、僕には君以外のものがある。家族も、友人も、仕事もある」

「私だって、全部捨てろなんて言ってないわ」

「分かってる」

「ただ、私を一番にしてほしかっただけよ」


「それが、僕にはできないんだ」


 キャロルの胸に、冷たいものが落ちた。


「……そう」

「キャロル」

「だったら、もういいわ」

「待って」

「何を待つの?」


 キャロルは笑おうとした。けれどうまくできなかった。


「私を一番にできないんでしょう?」

「そういう意味じゃ――」

「同じよ」

「違う」


「私には同じなの」


 涙を見られたくなくて、キャロルは顔を背けた。


「もう帰るわ」

「送るよ」

「いらない」

「でも――」


「いらないって言っているでしょう!」


 初めて、ルイスに声を荒らげた。


 彼は黙った。


 キャロルはそのまま歩き出した。


 今度こそ、追いかけてこなかった。


 ◇


 ルイスと別れたあとも、学園生活は続いた。


 最初のうちは、すぐに戻ると思っていた。何日か経てば、ルイスがやっぱり自分を好きだったと気づく。


 そうしたら少しくらい怒ってから許してあげよう。そんなことを考えていた。


 けれど、一週間が過ぎても。


 一か月が過ぎても。


 ルイスは戻らなかった。


 卒業の日。


 キャロルはクラリスと並んで校門を出た。少し離れたところに、ルイスの姿があった。友人たちと話している。


 キャロルに気づくと、彼は少し迷ってからこちらへ歩いてきた。


「卒業、おめでとう」

「ルイスも」

「元気で」

「……ええ」


「キャロル」

「何?」


 ルイスは何かを言いかけて、やめた。


「いや。幸せになって」


 キャロルは胸の奥が痛くなった。


「あなたに言われなくてもなるわ」

「ああ」


 ルイスは少し笑った。


 以前なら、その笑顔だけで安心できた。


 今はもう違った。


 彼は去っていく。キャロルは背中を見送った。


「追いかけなくていいの?」


 隣でクラリスが尋ねる。


「どうして私が?」

「そう」


 クラリスはそれ以上言わなかった。キャロルも、泣かなかった。


 泣いたら、本当に自分が捨てられたような気がしたから。


 ◇


 数年後。


 キャロルは二十二歳になっていた。学園時代のお人形のような可愛らしさは残しながらも、女性らしい華やかさが加わっていた。


 社交界では相変わらず人気があった。舞踏会に出れば声をかけられ、花や菓子が届けられることも珍しくない。


 それでも、誰かと長く付き合うことはなかった。


 そんなある日。


 クラリスの家でお茶を飲んでいると、何気ない会話の中でルイスの名前が出た。


「そういえば、ルイスが結婚したのは知っている?」


 キャロルの手が止まった。


「……知らないわ」


 クラリスも一瞬しまったという顔をした。


「ごめんなさい。てっきり聞いているものだと思って」

「いいのよ」


 キャロルはカップを置いた。


「いつ?」

「先月」

「そう」

「相手は北部の子爵家の方よ」

「知っている人?」

「私は少しだけ。あなたも一度くらい会ったことがあるかもしれないわ」

「どんな人?」


 聞かなくてもいいのに、口から出た。クラリスは慎重に答えた。


「穏やかな方よ」

「綺麗?」

「え?」

「その人」

「……綺麗だと思うわ。でも、どちらかというと可愛らしい感じかしら」

「そう」


 キャロルは笑った。


「ルイスらしいわね」


 何がルイスらしいのか、自分でも分からなかった。


 ◇


 その年の秋。


 キャロルはある夜会で、ルイス夫妻を見かけた。


 遠くからだった。ルイスの隣には、淡い茶色の髪をした女性がいた。豪華な宝石を身につけているわけでもない。社交界でひときわ目を引く美貌というわけでもなかった。


 けれど、よく笑う人だった。


 ルイスが何かを言う。彼女が笑う。今度は彼女が何かを言い、ルイスが声を立てて笑った。


 その姿を見た瞬間。


 キャロルは、昔の学園の廊下を思い出した。


 友人たちと話していたときのルイス。自分といるときには、最後の頃ほとんど見なくなっていた笑い方。


 胸が締めつけられた。


「キャロル?」


 一緒にいたクラリスが呼ぶ。


「何?」

「大丈夫?」

「何が?」


 キャロルは微笑んだ。


「ルイスのこと?」

「別に」

「そう」


 クラリスは何も言わなかった。


 キャロルはもう一度だけ、二人を見る。ルイスの妻が何かに気づいて彼の袖を軽く引いた。ルイスが自然に身を屈める。


 何かを頼まれたわけではない。どちらかが相手に合わせようと必死になっている様子もない。


 ただ、二人でいる。


 それだけだった。


 キャロルには、その関係が少し不思議に見えた。


「……私ではなく、あの人を選んだのね」


 ぽつりと言う。


 クラリスがキャロルを見る。


「キャロル」

「分かっているわ」


 キャロルはグラスを持ち直した。


「もう終わったことよ」


 本当に、もう終わっている。何年も前に。


 それでも胸の奥には、昔と同じ思いが残った。


 結局、ルイスも自分を一番にはしてくれなかった。


 だから別の女性を選んだ。


 その頃のキャロルには、まだそれ以上のことは分からなかった。ルイスが自分を選ばなかった理由も、彼といる間、自分が何を求め続けていたのかも。


 ただ一つ分かっていたのは。


 次に誰かを好きになるなら。


 今度こそ、自分を一番にしてくれる人がいい。何を望んでも惜しまず与えてくれる人がいい。自分のために、時間も手間も使ってくれる人。


 そういう人なら。


 きっともう、愛されているのか不安にならずに済む。


 キャロルはそう信じていた。


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