第一話 愛しているなら、してくれるでしょう?
キャロル・ウェストンは、幼い頃から可愛いと言われることに慣れていた。淡い金色の髪に、澄んだ青い瞳。白い頬はなめらかで、少し笑えば人形がそのまま動き出したようだと褒められる。
王都の学園へ入ってからも、それは変わらなかった。
「キャロル嬢、今日の髪飾りもよく似合っていますね」
「まあ、ありがとう」
「今度の休日、よろしければ――」
「ごめんなさい。その日は予定があるの」
断るときでさえ、キャロルはにこやかだった。だから腹を立てる者は少ない。むしろ、断られたあとまで「やっぱり可愛かった」と言われることの方が多かった。
「相変わらずね」
昼休み。中庭のベンチに腰掛けたクラリスが、呆れたように言った。
「何が?」
「今ので今日三人目よ」
「私が声をかけているわけではないもの」
「それはそうだけど」
クラリスは肩をすくめた。
キャロルの学友である彼女は、焦げ茶色の髪をきっちりとまとめた、落ち着いた印象の少女だった。華やかなキャロルとは対照的だが、二人は入学して間もない頃から気が合った。
「でも、断るならもう少し早く断ってあげればいいのに」
「すぐ断ったでしょう?」
「そうじゃなくて。最後まで全部聞かせるから、相手が期待するのよ」
「だって、途中で遮ったら失礼じゃない」
「そういうところだけ妙に律儀なのよね」
キャロルはくすくす笑った。
「それに、私にはルイスがいるもの」
「はいはい」
クラリスの返事が急に雑になる。
「何よ、その言い方」
「だって、どうせまたその話になるでしょう?」
「ならないわよ」
「昨日は『ルイスが夜遅くまで話を聞いてくれた』で、その前は『欲しかった本を見つけてくれた』。その前は――」
「もういいわ」
キャロルは唇を尖らせる。けれど、不機嫌になったわけではなかった。むしろ少し嬉しい。
クラリスがそこまで覚えているということは、それだけ自分がルイスの話をしていたということだからだ。
ルイス・ハーディング。同じ学園に通う青年で、キャロルより一つ年上。柔らかな茶色の髪に、穏やかな灰色の瞳をしている。
派手さはないが、誰に対しても親切で、怒ったところをほとんど見たことがない。そしてキャロルには、とても甘かった。
「そういえば、今日も一緒に帰るの?」
「ええ。そのつもり」
「昨日も一緒だったでしょう」
「昨日は昨日よ」
「毎日会って飽きないの?」
キャロルは目を丸くした。
「好きなのに?」
「……そういうもの?」
「そういうものよ」
クラリスは何か言いたそうだったが、ちょうど鐘が鳴ったため、それ以上は続けなかった。
午後の授業が終わると、キャロルはいつものように校舎の外へ向かった。石造りの回廊を抜けたところで、ルイスが待っている。
キャロルを見つけると、すぐに表情を柔らかくした。
「お疲れさま、キャロル」
「待った?」
「いや、今来たところだよ」
その言葉に、キャロルは満足そうに笑った。ルイスはいつも、自分より先に来て待っている。それが当然になっていた。
二人で校門を出る。春の終わりの風はまだ涼しく、並木道には若葉が揺れていた。
「今日、数学の小試験があったの」
「どうだった?」
「たぶん大丈夫」
「キャロルは計算が速いからね」
「でも最後の問題だけ少し自信がないわ」
「あとで一緒に見てみる?」
「本当?」
「ああ」
キャロルは嬉しくなって、彼の腕に軽く手を添えた。
「じゃあ、うちに寄って」
「今日?」
「ええ」
ルイスが少しだけ困った顔をした。
「今日は友人と約束があるんだ」
「そうなの?」
「前から誘われていて。夕食を一緒に取ることになってる」
キャロルの手が止まる。
「……そう」
声が自然に低くなった。ルイスが横を見る。
「キャロル?」
「別に」
「怒った?」
「怒っていないわ」
「でも――」
「約束があるなら仕方ないでしょう」
キャロルは前を向いたまま歩く。本当に怒っているつもりはなかった。ただ、胸の奥が少し冷たくなった。
自分より先に予定がある。それだけのことなのに。
「数学なら明日でも見られるよ」
「もういいわ」
「どうして?」
「だって今日見てほしかったんだもの」
ルイスは困ったように息をついた。
「じゃあ、少しだけなら」
キャロルが振り返る。
「いいの?」
「夕食までにはまだ時間があるから」
「でも、お友達との約束は?」
「遅れないように行くよ」
「本当に?」
「ああ」
すると、さっきまでの胸の冷たさが嘘のように消えた。キャロルは笑う。
「ありがとう、ルイス」
「仕方ないな」
ルイスも笑った。その笑顔を見て、キャロルはほっとする。
やっぱり自分のことが好きなのだ。
そう思った。
◇
その日の夜。
キャロルは自室の寝台に腰掛け、昼間ルイスと見直した問題をもう一度眺めていた。結局、彼は予定より少し遅れて友人のもとへ向かった。
別れ際にも、
「ちゃんと分かった?」
と何度も確認してくれた。
思い出すと、自然に口元が緩む。
「お嬢様、そろそろお休みになりますか?」
「まだ少し起きているわ」
「では、お茶をお持ちしましょうか」
「お願い」
「かしこまりました」
侍女が部屋を出ていく。
キャロルは窓の外を見た。夜の庭は静かだった。
ふと、ルイスに会いたくなる。さっきまで一緒にいたのに。でも、もう一度声を聞きたい。
キャロルはしばらく迷ったあと、机へ向かった。短い手紙を書く。
――少しだけ会いたいわ。
使いの者を出せば、ルイスの家まではそう遠くない。帰宅している頃だろう。
侍女がお茶を持って戻ってきたところで、キャロルは手紙を差し出した。
「これ、ルイスに届けてもらえる?」
侍女は一瞬目を瞬いた。
「今からでしょうか?」
「ええ」
「もう遅いお時間ですが……」
「でも、まだ寝てはいないと思うわ」
「承知いたしました」
侍女はそれ以上何も言わず、手紙を受け取った。
キャロルは温かいお茶を飲みながら待った。返事は思ったより早く届いた。
――今から行く。
その文字を見た瞬間、胸がふわりと軽くなった。
やっぱり。
会いに来てくれる。
キャロルは鏡の前へ立ち、乱れていた髪を整えた。それから思い直して、少しだけ可愛い部屋着に着替える。
しばらくすると、屋敷の応接室にルイスが通された。
「本当に来てくれたのね」
「呼ばれたから」
「疲れていたでしょう?」
「少しね」
それでもルイスは笑っていた。キャロルは彼の向かいではなく、すぐ隣に座った。
「今日はありがとう」
「数学のこと?」
「それも。今も」
「会いたいって言われたら、来るしかないだろう」
「そうなの?」
「キャロルが寂しがるから」
その言葉が嬉しかった。
「私が寂しかったら、来てくれる?」
「できる限りは」
「じゃあ、どんなに忙しくても?」
ルイスは少し笑う。
「どんなに、は困るな」
「どうして?」
「本当に無理な時もあるだろう」
キャロルは少しだけ黙った。
「……でも、私が会いたいって言っても?」
「もちろん、会いたいとは思うよ」
「それなら来てくれるでしょう?」
「キャロル」
「だって、好きなら会いたいと思うもの」
ルイスは困ったように笑った。
「君には敵わないな」
そう言って、結局はキャロルの頭を優しく撫でる。それで十分だった。キャロルも機嫌を直した。
◇
キャロルが幼い頃、夜中に熱を出したことがある。まだ七歳くらいだった。
身体が熱く、息苦しくて、何度も目を覚ました。そのたびに、そばには侍女がいた。
「お水をお飲みになりますか?」
「お母様は?」
幼いキャロルは尋ねた。
「奥様はもうお休みです」
「じゃあ、お父様は?」
「旦那様はまだお仕事をされております」
「……そう」
「何か必要なものがあれば、私にお申し付けください」
侍女は優しかった。冷たい布を額に乗せてくれた。水も飲ませてくれた。朝まで何度も様子を見てくれた。
だから、何も困ることはなかった。
翌朝、熱が少し下がった頃。母ジョアンナが部屋を訪れた。
「具合はどう?」
「もう少しだけ熱があります」
侍女が答える。
「そう。薬は?」
「お医者様にいただいたものを」
「なら安心ね」
ジョアンナはそう言って、キャロルの額へ一度だけ手を当てた。
そのとき、廊下の向こうから幼い弟ダニエルの声がした。
「お母様!」
途端にジョアンナの表情が柔らかくなる。
「まあ、ダニエル。どうしたの?」
「見て。先生に褒められたんだ」
「何を?」
「文字をいっぱい書いたの」
「まあ、すごいわね」
ジョアンナはすぐにそちらへ向かった。扉が閉まる直前まで、楽しそうな二人の声が聞こえていた。
キャロルは寝台の上でじっとしていた。侍女が心配そうに顔を覗き込む。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「何でもないわ」
「本当に?」
「ええ」
幼いキャロルは、そう答えた。
何が寂しいのか、自分でも分からなかった。ちゃんと看病してもらっている。必要なものは全部ある。
だから、寂しいと思う方がおかしいような気がした。
◇
翌日。
昼休みにクラリスへ昨夜のことを話すと、彼女はしばらく何も言わなかった。
「何?」
「……ルイス、夜に呼び出したの?」
「そうよ」
「昨日、友人と食事だったんでしょう?」
「そうみたい」
「そのあとに?」
「だって、会いたかったんだもの」
クラリスが真面目な顔になる。
「キャロル」
「何?」
「そうやって何度も相手を試すの、やめた方がいいわよ」
キャロルは目を瞬いた。
「試す?」
「そうよ」
「試してなんていないわ」
「じゃあ、『忙しくても来てくれる?』とか『私と友達ならどっちを優先する?』とか、そういうことを聞くのは何?」
「確認しているだけよ」
「何を?」
「私のことが好きかどうか」
「それを試すって言うのよ」
キャロルは少し不満そうに唇を尖らせた。
「でも、ルイスは嫌がっていないわ」
「今はね」
「何よ、それ」
「いつか疲れて逃げていくわよ」
「ルイスが?」
「誰だってよ。毎回、自分がどれだけ相手を好きか証明し続けるのは疲れるもの」
キャロルは思わず笑った。
「大げさね」
「大げさじゃないわ」
「だって」
キャロルは頬杖をつく。
昨日の夜、眠そうなのに自分に会いに来てくれたルイスを思い出した。疲れていても笑ってくれた。自分のために時間を使ってくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
「私のことが好きなら、なんでもしてくれるでしょう?」
クラリスは深くため息をついた。
「……あなた、本当にそう思っているのね」
「違うの?」
「私は違うと思うわ」
「でも、何もしないのに好きって言われても、分からないじゃない」
キャロルは何気なく言った。
クラリスが少しだけ黙る。
「キャロル」
「なあに?」
「あなた、ルイスに何をしてもらったら安心するの?」
その質問に、キャロルは考えた。
会いたいときに会いに来てくれること。欲しいものを覚えていてくれること。自分を一番にしてくれること。自分のために予定を変えてくれること。
でも。
それを全部してもらったあとでも、また確かめたくなる気がした。
キャロルは首を傾げる。
「分からないわ」
「でしょうね」
「何、その言い方」
「別に」
クラリスはそれ以上言わなかった。キャロルも、すぐに別の話を始めた。
深く考えるようなことではないと思った。
自分はルイスが好き。ルイスも自分が好き。だから、自分のために何かしてくれる。
それでいい。
その頃のキャロルは、本気でそう思っていた。




