第六話
武装商船の中は以前ヨラがいたときと大きく変わりがない。船倉にはたくさんのハンモックが揺れているし、大砲の前の弾薬庫にはたくさんの弾がロープで固定されている。
ヨラは操舵室で航海士のばあさんの補助を任されて、風の向きや強さ、海の荒れ具合や太陽の方角を報告する。ばあさんはヨラから聞いた情報を元に、海図の上の測量器を少しずつ動かしていく。
「あんた、少し見ない間に手際がよくなったじゃないか」
「ドリス商会で船員たちに教わったんだ」
「悪くない。悪くないよ」
ばあさんがニヤリと目を細めて笑うと、しわに目が埋もれているように見える。ヨラは褒められたのが気恥ずかしくなって「甲板に出てくる」と、操舵室をあとにした。
夕暮れどきの海は輝いて見える。太陽の日差しを反射して煌びやかに輝く海を眺めながら、ヨラはマストに近づいた。海風が心地いい。港町で暮らしていたヨラにとって、潮の香りも少しべたついた海風も馴染みがあるものだ。
「あれなんだ……漂着物か?」
マストの上で見張りがつぶやいた声を聞いて、ヨラはマストを上っていく。手慣れたものだが、波に揺れる船の上では不安定だ。慎重にロープをつけて、少しずつ上る。
「……難破船だ!」
ヨラがマストの見張り台に上がったところで、見張り役をしていた船員が緊張に声を震わせた。
「海賊に襲われた商船?」
「……嵐があったわけじゃないから、多分な。遠くから流れてきた可能性もあるけど」
見張り役の船員と話しながら、ヨラは朱金色に輝く海でぷかぷかと浮き沈みしている積荷の残骸らしきものを見た。破損した船体と木箱が波間に見える。夕日で見えにくいが、海上に点々と果物も浮いていた。
「……船長に報告してくる」
「おう、頼む」
ヨラはマストから下りると、操舵室に向けて甲板を駆け出す。扉を開けると、「どうした」と船長が険しい顔をした。
「難破船がある」
「母さん、少し舵を頼む。見てくる」
「……難破船なんぞ、そんなに珍しいもんじゃなかろう」
「海賊なら、戦闘準備が必要だ」
船長はそう言うと早足で操舵室を出て、さっと海を見渡す。既に甲板にいた何人かの船員たちが集まっている。漂流物はだんだんと近づいてきている。船べりから覗き込んで、ヨラと船長は気づいたことを話した。
「積荷にリンゴがある。おそらくスプルース大陸からの船じゃない」
スプルース大陸からエルシュタット公国までは数ヶ月かかる。リンゴは比較的長持ちする果物だが、交易品にするにはやや不安が残る。近場であれば問題ないが、大陸を越えて何ヶ月も海を渡って交易するときは、シードルなどの酒類やジャムにする方が多い。
「ってことは、出航した船が積んでた食糧ってこと?」
「多分な。……おい、一個拾い上げられるか?」
「アイアイサー」
集まっていた船員が木でできたバケツにロープを結んで、海に放り込む。もう一人が長い棒でちょいちょいと漂流物を寄せ集めて、バケツの中に入れた。
リンゴと海水の入ったバケツを甲板に引き上げると、船長がリンゴを手に取る。バケツの中で、たぷんと海水が跳ねた。
船長は上着の懐からナイフを取り出し、リンゴを割る。さくりという音がして、果物の瑞々しい香りが甲板に広がる。何人かの船員が生唾を飲み込んだのが聞こえた。
「……まだ新しい。漂流して数日ってところだろう」
「おい、食えるぞ! 集めろ!」
甲板にいた船員たちが張り切って、いくつものバケツが海に放り込まれた。入浴用の大きな木桶を使おうとした欲張りな船員は、さすがに止められた。
「お前なぁ、もし何かの拍子に落っことしたら、俺たちまで風呂に入れなくなるんだぞ。わかってんのか」
「ごめんよぉ、いっぱい取りたくて!」
「手間を惜しむなっての」
船長がその横で、リンゴを一口食べる。しゃくっという音がヨラにも聞こえた。
「ん」
半分に切ったリンゴを船長から渡されて、ヨラは恐縮しながら受け取る。久しぶりに食べたリンゴは芳しい香りと共に果汁があふれ、サクサクとした歯触りがある。
「それを食べたら、操舵室に連絡。戦闘準備に入ってくれ」
「……アイアイサー」
ヨラはあわててリンゴの塊を飲み込み、目を白黒させながら操舵室へと向かった。操舵室の舵の前に、航海士のばあさんがいた。
「漂流物はどうだったんだい」
「リンゴが流れてきてた。まだ新しい」
「この近海で最近嵐はなかったよ。……海賊に襲われた船だろうね。かわいそうに」
「船長が戦闘準備しておけって」
「弔い合戦だね。見張り番にも伝えな。船倉で寝てる連中を叩き起こして、大砲の手入れをさせるんだ」
「アイアイサー」
ヨラはついに海賊と武装商船が対峙すると聞いて、胸をざわつかせる。出航のときの鐘が鳴るように、鼓動が早くなる。海賊への憎しみで目の前をチカチカさせながら、ヨラは操舵室を出た。マストの上の見張り番に大声を張り上げて伝え、船倉に向かう。ハンモックで寝ている船員たちに声をかけると、彼らは勢いよく起き上がってバタバタと動きはじめた。大砲の手入れをはじめた船員たちは皆、手慣れている。
薄暗い船倉を照らし出すランタンが揺れると、船員たちの影が不気味に伸び縮みした。
ヨラは胸の隅に湧き上がる不吉な予感には気づかなかった。海賊への憎しみが、それを打ち消していた。
ヨラが甲板に出ると、生ぬるい風が吹いていた。日が暮れて空が群青色に染まり出した頃、武装商船の見張り番が声を張り上げた。
「難破船発見! 二時の方向! エルシュタット公国の船だ!」
ヨラは船べりにしがみついて、暗い色に染まりはじめた海上を見つめた。これほど見えにくい時間でも役目をこなしている見張り番に舌を巻く。ヨラには何も見えない。ただぼんやりとした黒い物体が、海上に浮かんでいるのが見えるだけだ。
──エルシュタット公国の船だって?
ヨラの胸にざわざわと不安が満ちていく。エルシュタット公国の船、最近出航したばかりの船……まさかという気持ちを必死で抑え込んで、ヨラは船べりに添えた手にぎゅっと力を入れた。
──アインツ、どうか無事でいてくれ。
ヨラの祈りも虚しく、見張り番の「ドリス商会の船だ!」という声が頭上から降ってくる。
信じたくない思いで一杯になったヨラは、何度も海上に目を凝らす。見えるのは黒々とした船の影だけだ。次の瞬間、空気を切る音がして、水柱が上がった。
「なんで!? 撃ったのか、武装商船が?」
「違う、向こうが撃ってきた!」
「なんで……あっちはドリス商会の船なんだろ!?」
ヨラは困惑して取り乱すが、武装商船の連中は皆一様に険しい顔をして戦闘準備をはじめている。武装商船が急速に回頭して、次々と水柱が上がる。方向転換の煽りを受けて思わず足をよろめかせながら、ヨラは操舵室に走り出した。勢いよく扉を開ける。
「船長! やめさせてくれよ! ドリス商会の船なんだろ!?」
操舵室に駆け込んで掴みかからんばかりに声を荒げるヨラに、船長は黙って首を横に振った。
「どうして!」
「……乗っ取られちまったのさ。海賊に。だから同じエルシュタット公国の船に大砲をぶっ放してくる。大方、海賊どもが船の修繕に入ってたんだろうよ。直して自分たちの船団に加えるためにね」
航海士のばあさんがいつもより低い声で吐き捨てるように応えた。ヨラはそれ以上何も言えなくなって、呆然と操舵室に立ち尽くした。先ほどまで鼓膜を揺るがしていた大砲の音が、遠くに聞こえるような気がする。
「これは弔い合戦さね」
「武装商船が取り返す。海賊にくれてやるものなんざ、何もねぇ」
船長の低くくぐもった声に、ヨラははっと息を呑む。怒気に満ちた船長の背中に見入るヨラの脳裏に、以前航海士のばあさんから聞いた話が蘇った。
──この船の連中は、海賊に恨みを持ってる奴らばかりだ。船べりに海賊の首を並べて、一つずつ石をぶつけて海に落とすような連中だ。
自分と同じだと、ヨラは唇を噛む。武装商船の船長や船員たちと、ヨラの海賊への憎しみは何も変わることがない。
──アインツ。
あの船には、アインツが乗っていたかもしれない。船が海賊に襲われて、アインツは命を落としてしまったかもしれない。ドリス商会で親切にしてくれた船員たちも、そこにいたのかもしれない。
──だったら、これは航海士の婆さんが言うように、弔い合戦だ。
ヨラは一度ぎゅっと目をつぶって開く。釣り上がった眦に、わずかに涙が浮かんだ。かつて好奇心に輝いていたエメラルド色の瞳が復讐に燃えている。
「……大砲撃つの、手伝ってきます」
「頼む」
ヨラはようやく声を絞り出すと、大砲の衝撃で揺れる武装商船の甲板を駆け出した。




