第五話
朝起きると、ヨラはドリス商会の屋根にある風見鶏を見て、風向きと風の強さを確かめるのを日課にした。鱗状の飾り瓦の上にある鉄製の風見鶏はくるくると回り、付属の小さな風車は風の強さを見るのに適していた。
ヨラは真新しい手帳に、その日の天気と風向き、風の強さを書き込んだ。武装商船で教わった通りだ。
──これに方角が加わるんだな。
船の上と違って、方角は変わることがない。気にしはじめると不思議なもので、街中の旗や洗濯物が風に揺れている様子だとか、池に浮かんだままになっている子供が忘れていったおもちゃの小さなヨットが風に乗って池のどの辺りに浮いているかだとかを、ヨラはじっと見つめるようになった。
港で積荷の上げ下ろしをしていると、どんな船が入港したかもなんとなくわかるようになる。ヨラは武装商船が入港するのを心待ちにしたが、彼らはなかなか戻って来なかった。
これまでヨラは船に乗って旅立つ方だったが、陸で待つ方はこれほど長いのかとうんざりした。船員の中には妻帯者もいるが、港で待つ身はどれほど寂しいだろう。アインツが乗った船を見送ったとき、涙ぐんで見送っていた船員の妻たちがいたが、そんな気分になるのも当然だ。とはいえ、街中で彼女たちを見かけると、笑顔で買い物をしていたり、洗濯をしながら井戸端会議をしていたりするのだけれど。
ヨラはドリス商会の本部を船に見立てて、風向きや風の強さに合わせて海図を測量していく。船の大きさや積載量によっても進み具合は違うのだろうなと、ヨラは武装商船の航海士のばあさんを思い出した。あのばあさんなら、船員の妻たちのように待つことはしないだろう。
「なんだヨラ、航海士の真似ごとか?」
「そう。この前少し教わったから、忘れないように」
「じゃあ俺も知ってること教えてやるよ」
ドリス商会には、二段ベッドやハンモックが並ぶ部屋もあれば、食堂や休憩室もある。庭にはマストを模したような木の柱があり、のぼって街を見渡すこともできる。見張り訓練用だ。
さまざまな船のさまざまな船員たちが集まっているから、航海術を知っている者もいた。少しずつ教わりながら見識を深め、ヨラは武装商船が戻ってくるのを待った。スプルース大陸に向かう船は数ヶ月で戻ってくる。じれったさを覚えながら、ヨラは風向きや風の強さに加えて、海の荒れ具合や潮の流れの速さを手帳に書くようになった。
手帳のページが三分の一ほど進んだ頃、武装商船が港に戻ってきた。ヨラは勢い込んで船着場に向かうと、船長を探した。
「おう、ヨラ、久しぶり」
「おかえり。船長を探してるんだけど」
「うちの船の? ……ちょっと待ってな」
波に乗ってゆらゆらと揺れる武装商船の梯子を、船長が下りてくる。灰色の髪の船長はヨラに気がつくと、ひょいと右手を上げた。
「久しぶり。うちの積荷を下ろしに来てくれたのか?」
「依頼があれば手伝うよ。……船長、俺、武装商船に乗りたいんだ」
いつの間にか握り込まれていたヨラの拳が震えた。爪の色が変わるほど、ぎゅっと力が入っていた。船長は一瞬面食らったようにあごを引くと、灰色の髪をわしわしと掻いてヨラの目を見つめた。
「……海賊が憎いか」
「憎い。なんであんな略奪が許されてるんだ。長い航海をして、やっと運んできた積荷を、なんであんなに一方的に奪われなきゃならない? ……あの商船に乗ってた船員は、俺たち以外には誰も戻って来なかった。連中、人殺しだって平気じゃないか。なんで誰も取り締まらない?」
船長は黙ってヨラを見つめているが、その目に厳しさはない。
「俺は武装商船に乗りたい。乗せてください。お願いします」
ヨラは船長に深々と頭を下げて頼み込んだ。船長は腕組みをして、しきりに首を傾げる。悩んでいるようだった。
「ヨラ、お前はまだ若い。腕っぷしだって強くないだろう。お前にうちの船で何ができる? お前が今いるドリス商会は大きな商会だ。船に乗っていなくたって、仕事も食事も寝床もあるだろう? このままドリス商会にいた方が、実入りはいいぞ」
「ドリス商会にいたって、いつ海賊に船が襲われるかわからない。……これ、手帳です。教わった航海術を忘れないようにしてきました」
ヨラが見せた手帳のページを船長はパラパラとめくる。そうして一つ大きなため息をつくと、背筋を伸ばして、じっとヨラの目を見つめた。ヨラは真っ直ぐに見つめ返す。ヨラの目に迷いはない。
「……わかった。うちの船に来い」
「ありがとうございます!」
ヨラが破顔してお辞儀をすると、遠巻きに見守っていた船員たちがわっと歓声をあげる。船長は苦い笑いを浮かべると、ヨラの肩をぽんと叩いた。
「ドリス商会には、俺が話をつけてこよう。もし武装商船を下りることになっても、いつでもドリス商会に戻れるようにな」
「そんなこと、できるんですか」
「できるさ。嘱託というやつだ。うちの船にも何人か、よその商会の船員がいる」
「これからよろしくお願いします」
「うん」
武装商船の船員たちがわらわらと集まってきて、「よかったなぁ!」「よろしくな!」とヨラを歓迎する。ヨラは目を細めてくすぐったそうに笑うと「よろしく」と応えた。
武装商船の出航まで、ヨラは日課となった手帳の記載を忘れず、積荷の上げ下ろしをしたり、武装商船の航海士の老婆から航海術を学んだりした。ドリス商会の面々はヨラとの別れを惜しんだが、割合あっさりしていた。出航すれば同じ船に乗っていない船員としばらく会うことはないから、慣れているのだろう。
やがて武装商船が出航する日がやってきた。ヨラがドリス商会の人々にこれまで世話になったお礼を述べると、細かく書き込んだ海図や保存食を餞別として渡された。
「本当にありがとう」
「達者でな!」
「いってらっしゃい」
「またな、ヨラ!」
「うん。また」
ヨラはドリス商会を出たところで振り返って建物を見上げる。オレンジ色の鱗状の屋根瓦がつやつやと日差しを受けて輝いている。何回も見上げた風見鶏に目を留めて、ヨラは風の強さと風向きをやはり確かめた。
港へと歩き出したヨラの目に、海に浮かぶ武装商船が映った。入江にはいくつもの船が浮いているが、ヨラの目には武装商船がことさら特別に見えた。港町を進むヨラの足取りは軽い。
吹き抜ける海風を浴びながら、ヨラは木製の船着場をとんとんと渡って行き、武装商船の梯子を上った。




