第四話
数日後、ドリス商会の幹部に呼ばれたヨラとアインツは、そわそわと落ち着かない様子で書斎に向かった。幹部に割り当てられた書斎は内装こそ同じだが、調度品などは各自の好みが反映されている。
ヨラたちは長い廊下を進んで、ズボンに手をこすりつける。手汗がじんわりと浮かんでいる。陸酔いはもうしていないはずなのになと、ヨラは視線を伏せた。重厚な扉を震える手でノックすると、秘書らしき女性の「どうぞ」という声がした。
樫の木を磨き上げた扉を開けて書斎に入ると、ふさふさとした髭をたくわえた副会長が手を組んで二人を出迎えた。マホガニー製のつやつやとした机には海図と、先日二人が受付嬢に渡した手紙、紋章の刺繍が置いてある。部屋の中にはたくさんの本棚があって、さまざまな本や、紙をまとめた束が並んでいる。
「状況はどうだね?」
「……はい」
ヨラは自分の声が、緊張でうわずっているのに気がつく。秘書に「どうぞ」と二人がけのソファに案内されて、アインツはいそいそと座った。アインツの目がわずかに丸くなる。柔らかい座り心地に驚いたらしかった。ヨラも続けてソファに座ると、恐々と息を吐き出した。
「商船の旗がかかっていたんですが、途中で下りて海賊の旗があがって……そこから大砲が飛んできました」
簡単に状況を説明したヨラに、副会長はゆっくりと目を閉じて長く息を吐いた。そうして目を開けると、二人を手招きした。二人がソファから立ち上がって机に寄ると、副会長は海図を見せた。
「どの海域かのう?」
「航海士じゃないのでわかりませんが……おそらくはこの辺りです」
「ふむ。これから出航する船に、何か残っていないか聞いておこう。話を聞くに、船の損害が大きかったようじゃ。そのまま難破船になっているかもしれんし、海賊に接収されてしまったかもしれんのう」
「あの、船長たちは」
「もちろん、船長や船員たちも探すとも。しかし海賊というのは大半が、捕らえた船員を殺すか手下にするかじゃよ。……あの船長なら、最期を迎えるそのときまで戦っていそうな気はするが」
ヨラは恐々と頷いて、海域を示していた指を引っ込める。副会長はふさふさとした髭を、まるで猫でも撫でるような手つきで整えながら口を開いた。髭に埋もれていて、口元がよく見えない。
「次に乗る船の手配はどうするかね? しばらく陸で過ごすのもよし、すぐに次の船に乗るのもよし……」
「あ、オレは、すぐにでも船に乗りたいです。手配をお願いします」
「わかった。アインツは船……と。そっちの、ヨラだったか、君は?」
「俺は……」
──武装商船に乗ることになれば、ひとまずドリス商会を辞めることになる。
ヨラはくすんだ金髪をわしわしと掻いて返答に窮した。副会長はそっと目を細めて、口元から息が漏れるような笑い声をあげると「よいよい。しばらく陸で過ごしなさい」と続けた。
副会長の書斎を出て、二人はドリス商会の船員たちが集まる部屋に戻る。仕事のない間は、酒を飲んだりカードに興じたりと、船員たちはめいめいに過ごしている。
アインツが荷物をまとめはじめるのをぼんやりと見つめながら、ヨラは何度も自分の指を組み替えた。
「おーい! 船が港に着いたぞ! 荷物を下ろすのを手伝ってくれ!」
悩んでばかりいても仕方がない。渡りに船だと、ヨラは外国から届いた荷物を下ろしに出かける。他の船員たちと並んで歩くと、ヨラはほんの少しだけ背伸びをしているような気分になる。まだ少年であるヨラは、屈強な船員たちの筋骨隆々とした腕と自分のやや細い腕を見比べて、ほんの少し落ち込んだ。
港は活気に満ちている。船着場には次々と積荷が下ろされて、木箱が積まれていく。中身がなんなのかわからないまま、ヨラは荷車に木箱を乗せた。いくつめかの木箱を乗せたとき、中でごとりと音がして、動物の鳴き声がした。獣特有の匂いもする。
「生き物?」
「珍しい豚だってよ。ほれ」
木箱についた小窓を船員が開けると、ジャガイモをもそもそと食べている豚が数匹見えた。シワの寄った鼻がひくひくと動いている。短い尻尾が、ひょこひょこと動いていた。
「どうするんだ、豚なんて」
「領主様に見せた後、国王陛下のところに運ばれる。その後は、国王陛下のお食事のための牧場で暮らすことになるんだろうな」
「へぇ……。わざわざ食材を取り寄せるんだ」
「せっかく海を渡ってきたんだ。コイツは食材にはならんだろうよ。おそらく品種改良に使われるんじゃないか。病気に強いとか、痩せた土地でも暮らしていけるとか、豚の種類で色々と特徴があるらしい。エルシュタットの豚と掛け合わせて、そういう特徴が引き継がれるか、見るんだろうよ」
船員が小窓を閉めると、豚はフゴフゴ、プギーと鳴いた。ヨラには想像がつかないが、海を渡ってやってきた豚は、おそらく国王陛下の御領牧場で、ヨラよりもずっといい暮らしをするのだろう。食べて寝て、ときどき牧場をぷらぷらと散歩して、獣医に診察されるのだ。荷車で運ばれていく木箱を眺めながら、ヨラは額に浮かんできた汗を拭った。
ヨラが数日間、船から積荷を下ろす仕事を手伝ううち、アインツが出航する日がやってきた。ドリス商会の本部を出て、アインツと並びながら港に向かう。嗅ぎ慣れた潮の香りと、海鳥の鳴き声が港に響き渡っている。
「なあヨラ、あんまり無茶するなよな」
船に乗り込む直前、アインツがぼそりと言ったのに、ヨラは苦笑いを浮かべた。船着場の喧騒に紛れて聞こえたアインツの声は真剣で、ヨラはなんと返せばいいのか迷った。ヨラが武装商船に乗りたがっていることを言いたいのは明白だ。
ヨラとアインツはドリス商会に入ったときから一緒にいた。同じ船に乗り、航海に出て、海賊に襲われた。そこからの苦労は計り知れない。ヨラは大海原に小舟で漕ぎ出したときの心細さを思い出す。アインツの軽口がヨラの気を紛らわせてくれたことは、一度や二度ではない。
「……それはアインツもだろ。元気でね」
「おう。また会おうぜ」
船旅が続けば、元気でいられない日もあるだろう。風が止んでしまって船がほとんど動かなくなることもあれば、食べ物が足りなくなったり、病気が流行ったりすることもある。
それでもヨラたち船乗りは、元気でと言い合う。別れの挨拶というよりは、願いや祈りに近いものなのだろう。
アインツはヨラの肩をぽんと一つ叩くと、船に向かって歩き出す。ヨラは長年連れ添った相棒が、梯子を上って船に乗り込むのを見送った。
他の船員の妻たちなのだろう。桟橋で泣きながら手を振っている女性が何人かいる。ヨラはドリス商会の本部への道をゆっくりと戻りながら、アインツの乗った船を眺めた。ベルがカランカランと軽快な音を立てて鳴り、錨が海中から上がる様子が見えた。
海鳥が何羽も飛び交う中、アインツの乗った商船はセルリア大陸へと旅立つ。ヨラは海風に吹かれながら、港に停泊している他の船を見つめた。
武装商船を探している自分に気がついて、ヨラはごくりと唾を飲み込んだ。武装商船は既に船旅に出たらしい。
──次に戻ってくるのは、いつなんだろう。
港からの帰り道で、ヨラは本屋に寄った。武装商船で教わった航海技術を忘れないように、海図と小さな測定器、それから手帳を買った。




