第十話
エルシュタット公国へと持ち帰る交易品を仕入れるために、武装商船は長期間スプルース大陸に滞在した。その間、ヨラは武装商船の大砲を磨き、弾薬庫の弾丸を磨いた。金属製の大砲や弾丸は海の潮風で錆びてしまうことがあるし、それで射角や飛距離に影響が出るとせっかくの照準が狂ってしまう。
物珍しいスプルース大陸の港町の様子や、穏やかな陸での暮らしは、ヨラの中の海賊への憎しみを薄れさせそうになる。ヨラはその憎しみを決して忘れないように、しばしば大砲や弾丸を磨いた。
砲身の中は特に綺麗に汚れを落とす。最初は煤が多くついたが、次第にそれもなくなってきた頃、ヨラの思いついた弾丸が仕上がって来た。砲手は「ブドウ弾は外から見ただけじゃ、わからんなぁ!」と笑い、ブドウ弾と書いた紙を糊で弾丸に貼り付けた。
船長や航海士のばあさんは交易品の買い付けに忙しいようだ。スプルース大陸の商会や市場によく出かけている。砲手は砲弾を、主計は食料備蓄や水を、それぞれに仕入れているようだった。武装商船には数人が寝泊まりし、倉庫番の猫の食事係も担当している。
武装商船が港に停泊している間も、ヨラは甲板で太陽の向き、風の向きや強さ、潮の流れを観測しては、手帳に書き綴った。記録を続けていれば、いずれ年間を通じて、どこの土地でどの季節にどんな風が吹きやすいだとか、こんな天候になりやすいだとかいう大まかな傾向がわかるようになる。
そういったものは航海士たちにとって一つの財産だと、ヨラはドリス商会の船員たちから教わった。もっとも、教えてくれた船員の何人かはアインツと同じ船に乗っていて、行方知れずになってしまったけれど。
手帳の後ろのページには、ヨラが思いついたアイデアが書き留めてある。残りのページが少なくなってきたことに気付いて、ヨラは港町に下りたときに新しい手帳を買い足した。
武装商船が入港して二週間ばかりが過ぎた頃、ようやく船に積荷が運び込まれだした。ヨラは交易品の積み込みをしながら、運び込まれた珍しい動物や織物、装飾品の数々に目を丸くし、航海士のばあさんはそんなヨラに満足そうに笑った。
「あたしの目利きだよ。悪くないだろう?」
食料品や水を積み込んで、武装商船が出航する。エルシュタット公国での出航のような鐘の音はない。代わりに、角笛の音が港町に響き渡った。文化が違えば習慣も変わるものだなと、ヨラはごく当たり前のことを実感した。
武装商船はゆっくりと海原へ漕ぎ出して、エルシュタット公国への復路についた。数日のうちは快晴で波も穏やかだったが、すっかり陸が見えなくなった頃、大雨が降った。武装商船の甲板にぽつぽつとぶつかって小さく跳ねていた雨はやがて本降りになり、甲板の上はすっかり水浸しになった。
「雨だ!」
「おい、久しぶりに真水で風呂に入れるぞ!」
雨で海が荒れているというのに、歴戦の船乗りたちはこぞって甲板に飛び出して、ゴシゴシと身体を洗っている。波がうねるのを遠くに眺めながらヨラは足元をふらつかせ、海綿でできたスポンジで身体をゴシゴシと洗った。
「ちょいと! ヨラ!」
航海士のばあさんが操舵室からヨラを呼んでいる。急いで操舵室に向かうと、航海士のばあさんはウキウキと「風呂用の木桶に、雨水をためておくれ」と海図に目を向けたまま、鼻を鳴らした。
「アイアイサー……アイアイマム?」
「アイアイサーでいいよ、面倒くさい」
ヨラは風呂用の大きな木桶を甲板に出す。甲板には既にいくつもの木のバケツが並んでいて、雨水が溜まりはじめていた。海が大きくうねるとバケツは船の片側に寄る。甲板を滑るバケツをかわしながら、ヨラは髪から滴り落ちる雨の雫を拭った。
きっと航海士のばあさんも、風呂に入りたかったのに違いない。歳をとっているとはいえ、男性がほとんどの船の上でばあさんが入浴するのは大変だろうなと、ヨラは今更ながらに考えた。
もしかしたら雨水を溜めた大きな水桶を、操舵室に運び込まされるかもしれない。いつも海図が乗っているテーブルとソファを操舵室の外に出せば、おそらく入浴用の木桶くらいなら入るだろう。もしもヨラの知らないうちに外にテーブルとソファが出ていたら、そのときは操舵室の中に入らないようにしよう、レディの入浴中かもしれないのだし……と、ヨラはロープから滴る雨水を眺めた。
見張り番がマストの上で、注意深く海上の岩礁に目を凝らしているのが見えた。荒波の中で岩礁を見つけるのは骨の折れることだろう。けれどもその作業を怠れば、船が座礁してしまうかもしれない。見張り番と、船の進路を確かめる航海士、舵を取る船長は、船の中でも特別なポジションだ。ヨラはマストの上にいる見張り番の分もバケツを出して、雨水を溜めておくことにした。
「あれ……船か?」
見張り番の呟きがヨラの耳に入った。ハッとして海に視線を送る。見張り番の声が聞こえていた船員たちの間に、突如として緊張感が増した。
「船だ! こっちに向かって来てる!」
報告を聞いたヨラは弾けるように、雨で滑る甲板を駆け出す。途中で何度か足元がふらついた。操舵室の扉を開けて、「船が接近中!」と報告する。航海士のばあさんはソファで一息ついていたところにそんな報告が入って来たものだから、気色ばんで立ち上がった。
「どこの船だい! こっちも嵐で舵が利きづらい! 避けられるかわかったもんじゃないよ!」
航海士のばあさんが珍しく操舵室を出て甲板に向かう。ヨラはその後を追った。ばあさんがマストの上の見張り番に声を張り上げている。
「どこの船かわかるかい!?」
「この嵐で旗が見えない!」
「……ヨラ、船長に報告。念のために戦闘準備しておきな!」
近づいてくるのが商船ならいいが、海賊船の可能性もある。ヨラは唇を引き結んで、強くなってきた風の中を駆け回った。




