第9話: 追伸
十三日目の朝。
ヒカルは手帳を開いた。
もう手順を迷わない。廃塔の石段に座り、まだ薄暗い空の下で、ポケットの手帳を引き抜く。表紙の端が折れている。十三日間で角が丸くなった。最初はまっさらだったこの手帳が——今では、一日で一番大事なものになっている。
昨夜の書き置き。角張った字。闇のインク。
レインの本文はいつも通り簡潔だった。
『報告: ①夜城北門の哨戒交代を把握。周期4時間。②廃塔南の沢で水が汲める。③体の左膝に違和感。お前の訓練が雑だ。直せ。——R』
三行。いつもの三行。
——問題は、その下だ。
追伸が五行ある。
『追伸: 目覚めた時、口の中がにんにく臭かった。何を食った。——だが認める。夜城の食事よりはマシだった。魔族は味覚という概念を持たないらしい。2000年の食文化が塩と肉の煮込みしか生み出さなかった事実に、歴代魔王として遺憾を表明する。』
『追伸2: 夜城の空に星が出る。名前がわからない。蒼馬は天文学に興味がなかったらしい。光都の書庫に星図はあるか? ——くだらない。忘れろ。』
『追伸3: お前の字が少しだけ読みやすくなった。前は象が踏んだような字だった。まだ象だが、小さい象になった。』
『追伸4: ガレスという名がやたらと出てくるが、何者だ。お前の書き方だと人間か犬か判別がつかない。詳細を報告しろ。』
『追伸5: 蒼馬の記憶に「虹」がある。雨の後に空に出る光の帯。七色だと蒼馬は思っていたが、実際は連続スペクトルだ。——お前は虹を見たことがあるか?』
五行。
本文の倍近い。
ヒカルは追伸を読み返した。二度、三度。にんにくの文句。星座への関心。象の比喩。ガレスへの偵察。虹の質問。
——座標報告じゃない。
最初の頃の追伸は、座標と注意事項だけだった。「廃塔から北東3kmにC級魔獣」「水筒を満たしてから出ろ」。任務の延長。報告の残り滓。
それが——変わってきている。
質問が混じり始めた。感想が混じり始めた。蒼馬の記憶の断片が——こぼれ始めた。
「R」は、追伸でだけ本音を書く。本文は完璧に箇条書きで、冷徹で、無駄がない。でも追伸になると——崩れる。長くなる。余計なことを書く。消したいのに消せない。消そうとした形跡すらある。「——くだらない。忘れろ」。自分で書いて自分で打ち消す。でも書いてしまった時点でもう遅い。
ヒカルは、くすっと笑った。
この追伸を書いている時の「R」の顔が想像できる。眉間に皺を寄せて、舌打ちして、「なぜ俺はこんなことを書いている」と苛立ちながら——結局、消さない。
笑いながら、ペンを取った。
返事を書く。
レインの質問に一つずつ答えていく。丁寧に。几帳面に。——いや、「几帳面」は嘘だ。字は相変わらず丸くて大きくて力が入りすぎている。でも一つ一つ、ちゃんと答える。
にんにくについて——『にんにく!! ガレスが焼いてくれたやつ!! うまかったんだ!! ごめん!! でもうまかったんだ!!(大事なことだから2回書いた) あとそっちの飯まずいのか!! かわいそう!!』
星座について——『書庫で星図見た! セレナにも教えてもらった! 北の空に出る大きい星座はこんな形→』。その横に、星座の絵を描いた。北辰の冠——になるはずだったが、線が歪んで六角形と三角形の中間のような何かになった。
象について——『象って何だ? お前もわからないものあるんだな!!』
ガレスについて——『犬じゃない!! 人間だ!! 俺の仲間だ!! お前より背がでかい!! たぶん!!!』
虹について——少し、ペンが止まった。
『虹は見たことない。でもいつか見たら教える。約束する。——H』
書き終えた。手帳をぱたんと閉じた。
立ち上がって、薄明の空を見上げた。雲が東に流れている。今日は晴れそうだ。虹は——出ないだろう。
でも、いつか。
十三日目の夜。
レインは廃塔の地下室で手帳を開いた。
ヒカルの返事を読む。いつも通り丸くて大きくて力が入りすぎた字。読みにくい。だがもう慣れた。十三日間で、この下手な字を解読する技術が身についてしまった。蒼馬の記憶にある「暗号解読」より余程難しい。
にんにくの返事を読んだ。「大事なことだから2回書いた」。……馬鹿か。「かわいそう」。——同情されている。魔王が、勇者に、食事の質で同情されている。屈辱だ。事実だが。
星座の返事を読んだ。
——絵が描いてある。
星座の図。北辰の冠を描こうとしたらしいが、線がふにゃふにゃで、星の位置が合っていない。星座というより——潰れたヒトデだ。
その横に、追記。
『書庫で星図見た! セレナにも教えてもらった! 北の空に出る大きい星座はこんな形→』
レインは舌打ちした。
星の数が足りない。北辰の冠は七つ星が弧を描く星座だ。昨夜、夜城の空でそれを見た。こいつの絵とは全く合わない。
それなのに——わざわざ書庫に行って、セレナに教わって、絵を描いている。下手くそな絵を。星図を写せばいいのに、自分で描き直して潰れたヒトデにする。
手帳を閉じなかった。
象の返事を読んだ。「象って何だ?」。——知らないのか。召喚された世界に象がいないのか、蒼馬の記憶を受け取らなかったのか。どちらにせよ、象を知らない人間に「象が踏んだような字」は伝わらない。比喩が機能しなかった。
ガレスの返事を読んだ。感嘆符が多すぎる。五つ。一文に感嘆符を五つ使う人間を、蒼馬は知らない。歴代魔王も知らない。レインも——知らなかったが、もう慣れた。こいつの感嘆符は、呼吸みたいなものだ。
「俺の仲間だ」。
その五文字を読んだ時、何かが引っかかった。レインには仲間がいる。ヴェルデがいる。ガルムがいる。だが「仲間」という言葉を、レインは一度も使ったことがない。側近。部下。配下。どれも役割の名前だ。ヒカルのように——「俺の仲間だ」と、感嘆符つきで叫べる関係ではない。
虹の返事を読んだ。
『虹は見たことない。でもいつか見たら教える。約束する。——H』
約束する。
レインは手帳を見つめた。3秒。5秒。
約束。見たこともないものを、見たら教えると言っている。昼間しか見えないものを。夜にしかいないレインには絶対に見ることができないものを。——それを、「教える」と言っている。
この男は——何を約束しているのか、わかっているのか。
手帳を閉じた。
ペンを取った。今夜の書き置きを書く。
本文。報告。箇条書き。
『報告: ①夜城の情勢に変化なし。②体調良好。——R』
二行。それだけ。報告することがないわけではない。だが今夜は——報告を短くした。無意識だった。ペンが、追伸を早く書きたがっていた。
追伸を書き始めた。
——止まらなかった。
『追伸: お前の北辰の冠は星の数が足りない。七つあるはずが五つしかない。次からは図ではなく文字で報告しろ。名前と方角と高度で示せ。——セレナに教わるのは許可する。お前一人では星図も読めまい。』
『追伸2: 象は大きい動物だ。鼻が長い。耳も大きい。蒼馬の記憶では動物園にいた。この世界にはいないらしい。——お前にはいつか見せてやりたいが、方法がない。くだらない。忘れろ。』
『追伸3: にんにくは今後禁止だ。匂いが残る。許可: パン、焼き魚、果物。不許可: にんにく、酒、甘味。甘いものは不快だ。——ガレスとやらが焼くものなら構わない。人間か犬かは了解した。だが感嘆符を五つ使う理由は了解していない。』
三行書いた。消そうか迷った。
——3分くらい考えた。
消さなかった。
そして——もう一行、書いた。
『追伸4: 虹は見たことがある。蒼馬の記憶の中で。綺麗だった。——ここに虹は出るのか? 出たら教えろ。昼間しか見えないものは、お前に頼むしかない。』
書いた。
書いてしまった。
ペンが止まった。自分が書いた文字を見つめた。角張った闇のインクの字が、手帳の上で微かに光っている。
——「昼間しか見えないものは、お前に頼むしかない」。
消すか。
消すべきだ。これは——依頼だ。頼んでいる。レインが、ヒカルに、頼んでいる。「出て行け」と書いた相手に。「この体は俺のものだ」と宣言した相手に。
お前に頼むしかない。
この一文の中に、どれだけの敗北が含まれているか。レインには昼が見えない。虹が見えない。夕焼けが見えない。星は見えるが、虹は——昼間しか出ない。レインがどれだけ足掻いても、永遠の夜の中では虹に手が届かない。
届けてくれるのは——あいつだけだ。
消すか。3分考えた。いや、もう3分は過ぎている。5分。
消さなかった。
書いてしまったものは——もう、消せない。消したところで、書いた事実は消えない。レインが虹を見たいと思った事実。それをヒカルに頼もうとした事実。消したインクの下に、感情の痕跡だけが残る。
ならば——残す。
手帳を閉じた。
報告二行。追伸四行。追伸の方が倍ある。いつからこうなった。最初は追伸など書かなかった。報告だけで充分だった。それが——追伸1。追伸2。追伸3。日に日に増えて、今夜は四行。
明日の朝、あいつがこれを読む。
あいつは——笑うだろうか。あの丸い字で、感嘆符をたくさんつけて、また的外れな返事を書くだろうか。「虹って何色だ?」とか「七色って本当か?」とか、蒼馬なら当たり前に知っていることを、新鮮な顔で聞いてくるだろうか。
たぶん——そうする。
そして、約束する。見たこともないものを、見たら教えると。
……チッ。
期待している自分に、舌打ちした。
十四日目の朝。
手帳を開いた。
箇条書きの報告は二行。追伸は半ページを埋めていた。
追伸の最後に、こう書いてあった。
『追伸4: 虹は見たことがある。蒼馬の記憶の中で。綺麗だった。——ここに虹は出るのか? 出たら教えろ。昼間しか見えないものは、お前に頼むしかない。』
この一文を読んだ時、胸の奥が——きゅっと締まった。
「R」は、昼を知らない。俺が夜を知らないように。
同じ体にいるのに、同じ空を見ることができない。同じ手で同じ手帳に書いているのに、同じ星を見上げることができない。虹も。夕焼けも。昼間の風の匂いも。——全部、「R」には届かない。
蒼馬の記憶の中にしかない虹。それを「綺麗だった」と書いた。だがすぐに——「ここに虹は出るのか」と聞いている。記憶ではなく、この世界の空の虹を知りたがっている。
昼間しか見えないものは、お前に頼むしかない。
頼む「しかない」。この言葉の中に、どれだけのものが詰まっているか——「R」自身は気づいていないだろう。
頼みたくない。でも頼むしかない。嫌だ。だが他に方法がない。不愉快だ。だが——お前しかいない。
それは、裏を返せば。
俺がいなければ、「R」は虹を知ることができない。
俺だけが——あいつに、昼を届けられる。
手帳をぎゅっと握った。ページの端が少し折れた。
笑った。
口元が勝手に緩んだ。ガレスの笑い方ではない。セレナの微笑みでもない。唇の端が持ち上がって——だけどそれは五日目のぎこちない笑みとも違った。もっと自然で、もっと不格好で、もっと——温かかった。
誰の真似でもない、自分だけの笑い方。
十四日目にして。十三日分の書き置きを読んで。追伸に振り回されて。下手な星の絵を描いて。干し肉の文句に大笑いして。虹の約束をして。——その全部が積み重なって、ようやく顔の筋肉が覚えた。この表情の作り方は、どこにもコピー元がない。ヒカルだけの、ヒカルにしかできない笑い方。
そのまましばらく、笑っていた。手帳を膝の上に開いたまま。追伸4を何度も読み返しながら。
廃塔の階段を下りた時、セレナがいた。
いつもの場所。塔の入り口の柱に背を預け、手帳を開いている。ペンが耳にかかっている。目の下の隈。今朝も夜更かしをしたのだろう。
「おはようございます、ヒカル様」
「おう。おはよう、セレナ」
セレナの紫の瞳がヒカルの顔を走査した。いつもの観察。頭のてっぺんから——止まった。顔で、止まった。
「……」
ペンが耳から滑り落ちそうになった。セレナが咄嗟に押さえた。
「どうした?」
「……いえ」
セレナは手帳にペンを走らせた。いつもより速い。文字が小さい。何を書いているのか見えなかったが——筆圧が、いつもより強い。
「……表情が、変わりましたね」
「え?」
「いえ。記録上の所見です。失礼しました」
また同じことを言われた。五日目にも言われた。だが今日のセレナの声は、五日目とは違っていた。五日目は——観察者の声だった。今日のは、もう少し柔らかい。もう少し近い。
セレナは手帳を閉じなかった。開いたまま、ヒカルの隣を歩き始めた。ペンの先が紙の上を滑り続けている。
何を書いているのか、聞かなかった。聞けなかった。
十四日目の夜。
レインは廃塔の地下室にいた。
石の壁。天井の染み。冷たい空気。闇の魔力が満ちている。ここは黄昏帯の中央だから、夜城ほど濃くはない。だが充分だ。呼吸が楽になる。闇の中にいると、体の輪郭が溶けて、世界と一体になるような感覚がある。
手帳を開いた。
ヒカルの返事。
虹について——『出たら絶対教える!! 約束な!! あと夕焼けは毎日違う色だぞ!! 昨日はオレンジっぽかった!! 今日はちょっとピンクだった!! 明日はわからない!! 毎日見とく!!』
感嘆符が数えるのも面倒なほど並んでいる。
夕焼けの報告。毎日違う色。オレンジ。ピンク。——この男は、レインが夕焼けの話を追伸3で少し書いただけで、毎日の色を報告し始めている。頼んでいない。色の名前を並べただけの、情報としては無価値な報告。
なのに。
「オレンジ」「ピンク」——その二語だけで、蒼馬の記憶が反応した。大学の帰り道。西の空。信号待ちの交差点で見上げた夕焼け。あの時の色は——何色だった? オレンジだったか。ピンクだったか。もう、正確には思い出せない。記憶は劣化する。蒼馬の二十年分の記憶でさえ、細部から色が抜けていく。
だがヒカルは昨日の色を覚えている。今日の色を覚えている。明日も見ると言っている。
——レインの目の代わりに。
手帳を閉じた。
ペンを取った。
今夜の書き置きを書く。
報告。二行。夜城の情勢に変化なし。体調良好。それだけ。
追伸を書き始めた。
『追伸: 夕焼けの報告は——』
消した。
書き直した。
『追伸: 色の名前だけでは不十分だ。オレンジといっても——』
消した。
また書いた。
『追伸: お前は——』
消した。
ペンを置いた。天井の染みを見上げた。
——何をやっている。
レインは自分に問うた。
追伸が止まらない。報告は二行で済む。それなのに、追伸を書き始めると手が止まらなくなる。昨夜は四行書いた。一昨日は五行。その前は三行。日に日に増えている。
蒼馬の記憶が囁いた。これは——感情の漏出だ。
追伸は、レインが唯一本音を書ける場所だ。玉座では魔王を演じている。ヴェルデの前では冷徹を装っている。ガルムの前では強がっている。どこにも——自分を出す場所がない。
追伸だけが、出口だった。
消そうか迷った。今夜の追伸だけではない。この習慣そのものを。追伸を書くことをやめれば、漏出は止まる。報告だけの手帳に戻せば、「R」は元通り冷徹な書き置き主に戻る。
——3分くらい考えた。
消さなかった。
消す理由がない。合理的に考えて、追伸による情報交換はヒカルとの協調行動の効率を上げている。質問と回答は相互理解を促進する。蒼馬の記憶の共有は——
——嘘だ。
効率ではない。合理性でもない。
書きたいから書いている。それだけだ。蒼馬の記憶が、出口を求めている。虹のこと。夕焼けのこと。象のこと。星のこと。全部、この世界では誰にも言えないことだ。ヴェルデに「虹は綺麗だ」と言えるか? ガルムに「象を見せたい」と言えるか? 言えるわけがない。
ヒカルにだけ——書ける。
あいつは蒼馬の記憶を持っていない。だから「虹」も「象」も知らない。知らないのに——知りたがる。「象って何だ?」と聞いてくる。「虹は見たことない」と素直に書いてくる。
その無知が——救いだった。
蒼馬の記憶を知っている相手なら、レインの追伸は「蒼馬の焼き直し」に見える。だがヒカルは蒼馬を知らない。ヒカルにとって、レインが書く虹の話は——レインの話だ。蒼馬の残滓ではなく。
ペンを取り直した。
追伸は書かなかった。
代わりに、一行だけ書いた。
『明日の夕暮れ、黄昏帯の廃塔に来い。話がある。——R』
たった一行。いつもは箇条書きと追伸で手帳の半分を埋めるのに。
ペンを置いた。
手帳を見下ろした。報告二行。追伸なし。最後に一行の呼び出し。余白が——異様に白い。いつもなら追伸で埋まっている場所が、まるごと空白のまま残っている。
この白さが、追伸の百行分よりも雄弁だということを——レイン自身は気づいていなかった。
手帳を閉じた。
石の壁に背を預けた。目を閉じた。
明日の夕暮れ。黄昏の三十分。光と闇が混じる時間。昼でも夜でもない場所。どちらの属性も完全ではない時間帯。
廃塔。二人のハンドオフ地点。毎朝ヒカルがレインの書き置きを読み、毎晩レインがヒカルの返事を読む場所。二人の筆跡が、毎日すれ違う場所。
——話がある。
何を話すのかは、まだ決めていなかった。だが一つだけわかっていることがある。
追伸では足りない。手帳では足りない。書き置きでは——もう、足りない。
目を開けた。
闇の中に、天井の染みがぼんやりと見えた。
ペンを握り直した。
手帳を開かなかった。開いたら、また追伸を書いてしまう。
握ったまま、目を閉じた。
明日の夕暮れ——あいつが、来る。
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