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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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10/30

第10話: 黄昏の声

 朝。手帳を開いた。


 昨夜の書き置きは一行だけだった。箇条書きの報告もない。追伸もない。いつもは追伸で手帳の半分を埋めてくるくせに——たった一行。


 『明日の夕暮れ、黄昏帯の廃塔に来い。話がある。——R』


 話って、何だ。同じ体にいる相手と、どうやって「話す」のだ。


 怖い。


 でも——会いたい。


 手帳を閉じた。追伸のない書き置きを何度も読み返した朝は、これが初めてだ。一行だけ。それが、いつもの十五行より重かった。




 その日一日、ヒカルは心ここにあらずだった。


 午前の哨戒任務。聖光剣は問題なく振るえた。体が覚えている動き。だが目が、南を見ていた。


「ヒカル」


 ガレスの声が飛んだ。盾を背負った大男が汗を拭きながらこちらを見ていた。


「どうした。今日は元気ねえな」


「——いや。ちょっと寝不足で」


「寝不足? お前、いつも寝不足だろ」


 ガレスが笑った。その笑い方を無意識にコピーしそうになって、止めた。今日だけは、借り物の笑顔を貼りつけたくなかった。


「夕方から、ちょっと用がある」


「用?」


「一人で行く。心配するな」


 ガレスの小さな目が3秒見つめた。何も聞かなかった。


「……気をつけろよ」


 何を気をつけるのか、聞かなかった。聞く必要がなかった。ガレスの優しさは、秘密を暴かない形をしている。




 17時。


 光都の城門を出た。


 セレナが門の脇に立っていた。紫の瞳がヒカルの進行方向を一瞬で走査した。


「南に向かうのですね」


「……ああ。ちょっと、散歩だ」


「散歩」


 セレナの声が下がった。嘘をつくたびに下がるあの温度。


「……また」


 振り返らなかった。振り返ったら、嘘がもう一つ増える。


 光都の結界を抜けた。永遠の昼の白い光が消え、黄昏帯の赤と紫のグラデーションが広がる。光走で走った。南へ。廃塔へ。




 17時20分。廃塔が見えた。


 崩れかけた石造りの監視塔。どちらの陣営にも属さない、二人だけの場所。


 石段に座った。空を見上げた。


 西の赤が濃くなっている。もうすぐだ。


 右手の甲を見た。文字の痕跡が残っている。闇属性のインクで書かれた、五日前のメッセージ。もう読めないほど薄くなっている。だが指が覚えていた——最初にあの字を見た時の恐怖を。


 『この体は俺のものだ。出て行け。——R』


 あの日から五日。五日間で、何が変わった。


 敵意は消えていない。レインは魔王で、俺は勇者だ。その構図は変わらない。だが書き置きが変わった。命令と罵倒が、座標の共有になり、食料の報告になり、傷の治療報告になり——追伸になった。追伸が本文の三倍になった。虹の話になった。


 そして今日——「話がある」の一行になった。


 手帳をポケットに戻した。立ち上がった。


 空が、赤から紫に変わり始めていた。光と闇が混じる色。昼でも夜でもない色。


 俺たちに似ている、と思った。




 17時30分。


 黄昏の30分が始まった。


 最初に気づいたのは、髪の色が変わっていくことだった。金色が褪せて、茶色に沈む。碧い目も紫に変わっているはずだ。光も闇も、どちらでもない中間色。


 そして——体が、動かなくなった。


 じわりと、足の先から力が抜けていった。膝の力が消え、腰が石段に落ち、背中が壁にもたれた。指先を動かそうとした。動かない。首も。腕も。


 拮抗。黄昏帯の中央では、どちらの人格も体の操作権を持たない。


 目だけが生きていた。紫に染まった空を見つめていた。静かだった。世界から音が消えたみたいに——静かだった。


 そして。


 聞こえた。


 耳ではなかった。もっと深い場所——骨の奥、心臓の裏側。体の内側に直接響く、もう一つの声。


「——ちゃんと来たのか」


 低い声だった。冷たい声だった。角張った書き置きの文字が、そのまま声になったような——だがどこか、若かった。書き置きの冷徹さとは違う、生々しい質感があった。文字は嘘をつける。声は、つけない。


 息が止まった。恐怖でもない。驚きでもない。もっと根源的な何か。同じ体の中に、別の生き物がいる。その生き物が今、声を発した。


「…………お前が、レイン」


 口は動いていなかった。声帯も震えていない。なのに声が出ている。体の中で。意識が直接、言葉を形にしている。


「そうだ」


 短い返答。一語。だがその一語に込められた重みが、手帳の百行分と同じだった。「そうだ」。俺はここにいる。お前の中に。


「……声、聞こえるんだな。こうやって」


「黄昏帯の拮抗だ。体の操作権がどちらにもない代わりに、互いの意識が直接接触する。理論的には予測していた」


「理論的って……試したの初めてだろ」


「……初めてだ」


 レインの声に、微かな間があった。書き置きでは見せない間。言葉を選んでいる——というより、言葉が追いつかなかった、という感じの間。


 初めてなのだ。レインにとっても。


 俺と同じで、初めてなのだ。




 最初の数分は、確認だった。


「お前がHか」


「ヒカルだ。Hじゃない。ちゃんと名前で呼べ」


「……ヒカル」


 体の内側で、自分の名前が反響した。他人に呼ばれるのとは違う。骨に直接刻まれるように響いた。


「お前は——レイン」


「そうだ」


「声、思ってたのと違う。もっと怖い感じかと」


「字と声は違う。字は嘘をつける。声はつけない」


 それは、ヒカルがさっき思ったことと同じだった。


「……同じこと考えてた」


「当然だ。同じ体にいる」


 合理的。書き置きでもよく使う言葉だ。声で聞くと——「合理的」という言葉で自分を武装している感じがした。俺が「勇者」を演じるのと、たぶん同じだ。




「状況を整理する」


 レインの声が、少し硬くなった。本題に入るトーン。


「この体には二つの人格が存在する。昼はお前。夜は俺。ここまでは書き置きで確認済みだ。問題がある」


「……問題?」


「この体の元の持ち主がいる。死んだ男だ」


 声が、一段低くなった。冷たさが増した——のではなく、何かを押し殺しているような低さだった。


「元の持ち主?」


蒼馬そうま。この体が異世界に来る前の人間。俺はそいつの記憶を持っている。お前は持っていない」


 蒼馬。知らない名前だ。だが声に乗せられたその名前が、体の奥の——ヒカルにはアクセスできない場所で、何かを震わせた気がした。


「……その蒼馬って奴は、今どうしてるんだ」


「いない。分裂した。光と闇に。お前と俺になった」


「じゃあ俺たちは——そいつの、抜け殻なのか」


 自分で言って、胸が冷えた。


「今はいい」


 レインが遮った。説明を拒んだのではなかった。声のトーンで分かった。これ以上話すと——自分が崩れる、と知っている声だった。


「……わかった」


「もう一つ、問題がある。こっちの方が差し迫っている」


「何だ」


「自分の指先を見ろ」


 体は動かない。だが視線だけは動いた。膝の上の右手。指先に目をやった。


 右手の小指と薬指の先端が——微かに、半透明だった。向こう側の石段の灰色が透けて見える。注意しなければ気づかないほど僅かに。だが確かに——薄くなっていた。


「……何だ、これ」


「自壊の兆候だ」


 レインの声が、初めて——冷徹ではない色を帯びた。警告。純粋な、警告。


「二つの魂が一つの体を拒み合えば、体が保たなくなる。まだ初期段階だ。だが放置すれば進行する。物を掴む力が弱くなる。魔法が暴走する。最後には——体が裂ける。お前も俺も、道連れだ」


 風が吹いた。指先を見つめていた。ずっとあったのに、気づかなかった。


「……どうすればいい」


「敵対を止めれば進行は停止する。だが今すぐ敵対を解消するのは不可能だ。お前は勇者で、俺は魔王だ」


「じゃあどうしろって——」


「取引だ」




 取引。


 レインの声が、再び硬くなった。計算された言葉を並べるトーン。書き置きの箇条書きに一番近い声。


「毎日、切替時刻までにこの廃塔に体を戻せ。互いの領土で覚醒するリスクを消す」


「……」


「今は毎日、互いの領土で目覚めて往復各2時間を浪費している。廃塔で切り替えれば無駄がなくなる。合理的だろう」


「……なんで俺がお前の提案に従わなきゃいけないんだ」


「互いに利がある。対等な取引だ」


「対等って言うけど、全部お前が仕組んだだろ」


「そうだ。仕組まなければお前は来なかった。——仕組まれたのが気に食わないか」


 黙った。体の中の沈黙は、外の沈黙とは違う。もう一つの意識が、答えを待っている。


 正直に言えば気に食わない。全部レインのペースだ。だが——反発しているのは、そういう理由じゃない。


「……わかった」


「何がわかった」


「取引を受ける」


「…………理由は」


「合理的だからだ」


 嘘だ。レインにはたぶん、嘘だとわかっている。だがレインは追及しなかった。合理的という言葉を受け入れた。


 本当の理由は——こうすれば、毎日ここに来る理由ができる。毎日、黄昏の30分をここで過ごす理由ができる。


 もう一度、この声を聞く理由が。




「条件を詰める」


 レインが実務的に切り出した。朝6時に廃塔で覚醒し光走で光都へ。17時に発ち17時30分までに廃塔に戻る。レインは18時に覚醒、影走で夜城へ。5時に発ち5時30分までに廃塔。活動時間は各10時間。往復ロスは今の半分以下。


「廃塔に水と食料を置いておいた方がいいんじゃないか」


 間があった。書き置きにはない種類の間。


「……それは、合理的だ」


 声のトーンが微かに緩んだ。取引の条件ではなく、二人の生活の話。それだけのことが、指先の冷えを少し和らげた。




 空の色が変わり始めていた。


 紫がさらに深くなり、闇の気配が濃くなる。あと数分で18時。レインの時間が来る。


 ヒカルの意識が薄くなり始めていた。闇の力が勝り始めている。レインの意識が前に出てきて、ヒカルが奥に沈んでいく。自分という存在が、体の底に落ちていく感覚。


「待て」


 沈んでいく意識を、意志で繋ぎ止めた。


「……虹。見つけたら、教える」


 沈黙。長い沈黙。書き置きなら追伸を三回書き直す長さの沈黙。


「——追伸」


 レインの声が変わった。冷徹でも実務的でもない。書き置きの追伸に一番近い——不器用で、剥き出しの声。


「虹を、見つけたら教えろ」


 同じことを言い返された。だが意味が違った。ヒカルのは約束。レインのは——頼みだ。昼の空を知らない。夜しか知らない自分には、頼むしかない。


 意識が沈んだ。最後に感じたのは心臓の鼓動だった。自分のものであり、レインのものでもある鼓動。


 暗い。静かだ。でも——怖くなかった。




 18時。


 レインは目を開けた。


 廃塔の石段。空は暗い。闇の魔力が体を満たしていく。指先に力が戻る。体が、自分のものに戻っている。


 手帳を取り出した。開いた。


 ヒカルの書き置き。丸くて大きな字。力が入りすぎて紙が凹んでいる。


 本文は二行だった。


 『取引の件、了解した。明日から廃塔ルールを開始する。——H』


 その下に、追伸があった。


 追伸は——本文の三倍の長さだった。


 『追伸: お前の声、思ってたのと違った。もっと怖いと思ってた。全然怖くなかった。いや嘘、最初はちょっと怖かった。でもすぐ平気になった。なんでだろ。たぶん声に年齢があるからだと思う。お前、声若いな。書き置きだと百歳くらいに見えるけど。

 追伸2: 指先の件、気づいてなかった。ありがとう。ありがとうって書くとお前は「感謝は不要、合理的判断だ」って言うだろうけど、俺は言いたいから言う。ありがとう。

 追伸3: 蒼馬のこと、いつか教えてくれ。今じゃなくていい。お前が話せる時でいい。

 追伸4: 虹、絶対見つける。待ってろ。

 追伸5: また明日。——H』


 レインは手帳を見つめた。


 舌打ちした。


 五つも追伸をつける奴があるか。本文より追伸が長い奴があるか。「声若いな」とは何だ。百歳とは何だ。くだらない。


 手帳を閉じた。立ち上がった。


 明日からは、この廃塔がスタート地点になる。毎晩ここで目覚め、毎晩ヒカルの書き置きを読む。


 歩き出して三歩目、首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。レインはこれを「バグ」と呼んでいる。直らない。


 口元が、微かに緩んでいた。


 自分では気づいていなかった。だが闇の中を走るレインの顔は——追伸を書いている時の、あの顔だった。消そうか迷って、結局消さない時の。


 また明日。


 追伸を五つもつける馬鹿の声を、明日もまた聞く。


 レインは走った。闇の中を。夜城に向かって。


 今夜の書き置きは報告だけにする。そう決めた。


 ——嘘だ。たぶん、また長くなる。

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