第11話: 二重生活
六時。
目を開けた。
石の天井。苔の匂い。頬に硬い石段の感触——。
知っている。ここを知っている。
ヒカルは体を起こした。廃塔の石段。昨日、レインと声を交わした場所。
——同じ場所で、目が覚めた。
十五日間。毎朝、知らない場所で目を開けてきた。闇の森。夜城の近く。一度は湿地帯の泥の中。走って光都に戻る二時間の恐怖。毎朝の「ここはどこだ」。
それが——なかった。
約束を、守ってくれた。
息を吸った。石と苔の匂い。慣れた匂いだ。二人の匂い。
安堵が胸を満たした。安堵がこんなに温かいものだとは知らなかった。目覚めて最初に感じたのが恐怖ではなく安堵だというだけで——こんなに、体が軽い。
手帳を開いた。レインの書き置き。角張った字。闇のインク。
『報告:
①ハンドオフルール初日。5:30に廃塔到着。予定通り。
②夜城の情勢に変動なし。ガルムが北東方面の偵察を進言。許可した。
③体調良好。指先の透明度に変化なし。
④廃塔の地下室に水瓶を設置した。飲料可。
⑤北東の森にC級魔獣の群れ。毒牙種3体以上。座標は廃塔から北東12km。お前の仲間なら対処可能。情報料は不要。——R』
⑤を二度読んだ。
魔王軍の偵察情報を、勇者に渡している。おかしくないか、これ。
——おかしい。だがレインはただ「危ない」と伝えている。俺の体が傷つけば自分も困る。合理的判断。あいつの口癖。
追伸を読んだ。
『追伸: 地下室に毛布を敷いておいた。石の床で寝ると腰を壊す。お前が腰を壊すと俺も痛い。合理的判断だ。
追伸2: 昨日の黄昏帯。声が聞こえたのは廃塔の拮抗効果だ。他の場所では再現しない可能性が高い。つまり毎日ここに戻る意味は——合理的に存在する。
追伸3: 5つも追伸をつけるのはお前だけだと思っていたが、俺も3つ書いている。くだらない。忘れろ。——R』
笑った。声が出た。朝の廃塔に笑い声が響いた。
「忘れろ」と書きながら追伸を消していない。もう何度目だ、このパターン。
ペンを取った。
七時。光都の城門。
書き置きを読んで三十分、光走で三十分。永遠の昼の結界に入った瞬間、体が喜ぶのがわかる。光の魔力が百二十パーセント。
城門でガレスが待っていた。塔盾ペトラを背に、腕組み。
「遅え」
「悪い! 遠くから来てて——」
口を閉じた。「遠くから」は余計だった。
ガレスの小さな目が3秒見つめた。何も聞かなかった。
「飯は」
「……まだ」
「食堂。行くぞ」
ヒカルはその背中についていった。パンを齧りながら、今日の任務を聞いた。
「北東。魔獣討伐。C級」
手帳の書き置きが頭をよぎった。同じ情報を、人間の斥候隊と魔王軍の偵察隊が、別々に掴んでいる。
同じ世界を、昼と夜で二つの目が見ている。
北東の森。三人編成。ガレスが先頭、ヒカルが右、セレナが後方。
セレナの紫の瞳が光る。【解析の瞳】。
「前方200メートル。魔力反応3つ。C級毒牙種。……4つ目、奥にもう1体。計4体です」
聖光剣を抜いた。光の斬撃が一体目を貫く。ガレスが盾で二体目を弾き、ヒカルが三体目を斬った。四体目が木の影から飛んだ。
備えていた。レインが「3体以上」と書いていた。心のどこかで、もう1体いると知っていた。
一閃。四体目が裂けて落ちた。
静寂。四体。全滅。
「終わり」
ガレスがペトラの表面を拭いた。「よくやった」の代わりに盾を叩いた。ペトラへの労い。それがガレスの褒め方だ。
ヒカルは聖光剣を収めた。手が震えていた——戦闘の高揚ではない。魔王の偵察情報で勇者が戦った。ガレスもセレナも、この情報の出所を知らない。誰も気づかない矛盾。
「ヒカル様」
セレナが手帳を開いている。
「斥候の報告では3体でした。4体目は——報告にありませんでした」
「……たまたまだろ。群れが増えてたとか」
「そうですね。たまたまですね」
セレナの声が、0.5度下がった。ペンが走った。何を書いているのか——見えなかった。
十七時。光都の城門。
「……南ですか」
セレナが門の脇にいた。昨日と同じ場所。
「散歩だ」
同じ嘘。昨日は一回きりだった。今日からは——毎日だ。
セレナは手帳にペンを走らせなかった。代わりにペンを耳にかけ直した。
「お気をつけて」
声のトーンが下がっていなかった。——いや、違う。昨日からずっと下がったまま、戻っていないだけだ。
振り返らなかった。光走で南へ。廃塔へ。
十七時二十分。地下室に降りた。レインの言った通り、毛布がある。水瓶がある。水筒を二本満たした。一本は飲んだ。一本は——レインの分だ。
手帳を開いた。
『報告:
①北東の毒牙種4体討伐。お前の情報通り。ありがとう。
②体の損傷なし。ガレスのおかげ。
③セレナが毎日南に行くことに気づいてる。嘘がもたない。対策募集。
④水筒を補充しておいた。礼は言うな。——H
追伸: 毛布のおかげで腰が楽だった。ありがとう。「合理的判断だ」って言うのわかってるけど言う。ありがとう。
追伸2: 今日の夕焼け、紫っぽかった。黄昏帯に近いからかも。綺麗だった。
追伸3: パンもらってきた。ガレスが焼いたやつ。甘くないぞ。砂糖嫌いって言ってたから。石棚に置いとく。
追伸4: また明日。——H』
手帳を石段に開いて置いた。レインが目覚めた時、最初に見える場所。
石段に座った。紫が濃くなっている。もうすぐ——体が動かなくなる。意識が沈む。
怖くなかった。歯車が噛み合った音がした。気のせいだ。だが確かに——何かが回り始めている。
十八時。
レインは目を開けた。
石の天井。苔の匂い。指先に力を入れた。動く。体が自分のものに戻っている。闇の魔力が四肢に流れ込み、視界が夜に適応する。
廃塔。予定通りだ。
石段の上の手帳が目に入った。開かれたまま。丸くて大きな字。光のインクが微かに残光を放っている。
報告四行。追伸四行。——また追伸の方が多い。
③セレナが毎日南に行くことに気づいている。対策募集。
面倒だ。だが予想の範囲内だ。解析型の人間に同じパターンを見せれば、三日で看破される。
④水筒を補充しておいた。礼は言うな。
舌打ちした。「礼は言うな」——俺が書いた「感謝は不要」と同じ構造だ。感謝を予防的に否定することで感謝を意識していることが露呈する。あの馬鹿、俺の文体をコピーしている。
石棚のパンを齧った。塩味。噛むと麦の甘さ。砂糖は入っていない。「砂糖嫌い」と一度書いただけで、覚えていた。
……悪くない。
影走で夜城へ。
十九時。夜城ノクターン。玉座の間。
ヴェルデが待っていた。黒の軍服。右の角のヒビを触っていた——レインが入室した瞬間、指が離れた。
「おかえりなさいませ、レイン様」
「状況を」
ヴェルデが作戦卓の地図に手を置いた。
「北東の砦——灰嶺砦跡に、人間の斥候隊が頻繁に出入りしています。過去二週間で巡回頻度が1.4倍に増加。前線基地として再利用される可能性があります」
「砦を再稼働されれば、黄昏帯北東の制空権を失う」
「その通りです。ガルムは先制攻撃を主張しております」
「却下」
ヴェルデの眉が微かに動いた。
「……理由をお聞かせいただけますか」
「先制攻撃は人間側に開戦の口実を与える。停戦均衡を破る利はない」
嘘だ。理由は別にある。あの砦の近くにヒカルのパーティが今日行った。ガルムが先制攻撃をかけた時、ヒカルが近くにいたら——
違う。合理的判断だ。停戦均衡の維持は魔王軍にとっても有利だ。
「灰嶺砦の監視を強化しろ。偵察を毎日に変更。斥候の編成と巡回パターンを記録させろ」
「承知いたしました」
ヴェルデがペンを走らせた。微かに止まった。
「レイン様。灰嶺砦の北東3kmに、本日C級魔獣4体の死骸が発見されました。光属性の斬撃痕。——光の勇者パーティの痕跡と一致します」
レインは表情を動かさなかった。
「……そうか」
「前代であれば、この機に勇者パーティを黄昏帯に誘い込み、殲滅を図ったでしょう」
テスト。前代魔王ならこうした——だからお前もこうすべきだ、という暗黙の問いかけ。
「前代は前代だ。魔獣の掃除は人間に任せておけ」
ヴェルデは0.5秒だけ瞬きが増えた。角から指を離した。
「……承知いたしました」
声は平静だった。だがレインの耳は、声の奥の微かな震えを拾った。前代と違う判断をするたびに、ヴェルデの声は0.1秒だけ遅れる。
会議は二時間続いた。北東方面の他に、西の魔力不安定化、南の結界維持。全てに判断を下した。歴代魔王の戦術知識と蒼馬のロジス——兵站管理の知識が、自然に交差する。
私室。深夜。
手帳を開いた。
『報告:
①北東の灰嶺砦跡に人間の活動増加。前線基地化の可能性あり。お前の側でも話が出ているはずだ。耳を開いておけ。
②お前が今日倒した毒牙種4体の死骸が我が軍に発見された。光属性の斬撃痕。お前の戦闘は記録されている。足がつかないように行動しろ。
③灰嶺砦にはガルムの部下が監視に入る。北東への出撃は座標を事前に報告しろ。衝突を回避できる。合理的だろう。——R
追伸: パンは悪くなかった。ガレスという人間、料理ができるのか。犬ではないことは承知している。だが感嘆符を多用する人間を「仲間」と呼ぶ感性は理解の範囲外だ。
追伸2: 夕焼けが紫だったとのこと。黄昏帯に近いほど紫が濃くなるのは光と闇の魔力混合による。学術的にはクロマティック・インターフェアレンスと——こんな用語はこの世界にはない。忘れろ。紫は悪くない色だ。
追伸3: セレナへの対策。「南の遺跡を調査している」と報告しろ。週に一度は別の方角から帰還してパターンを崩せ。解析型の人間に対しては規則性の破壊が最も有効だ。
追伸4: 灰嶺砦には俺の部下が入る。お前は勇者として、あの砦を攻略対象にするかもしれない。その時は——書け。事前に書け。対策を考える。
追伸5: また明日。——R』
五つ。追伸が五つある。報告の倍だ。
あの馬鹿のせいだ。あいつが四つ書くから、こっちも増える。感染ったのだ。追伸ウイルス。蒼馬の記憶にある概念で言えば——ミーム汚染。
消すか。三分くらい考えた。消さなかった。
手帳を石段に開いて置いた。首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。——バグだ。
廃塔を出た。星が出ている。ヒカルがいつか描いた、潰れたヒトデみたいな星。
影走で走った。夜城に向かって。
同じ体が、昼は英雄、夜は指揮官。同じ手が、昼は聖光剣を振り、夜は地図に駒を並べる。
二重生活。歯車が回っている。噛み合って、滑らかに。書き置きが情報を運び、追伸が感情を運ぶ。
だが歯車が滑らかに回るということは——いつか歯が欠ける、ということでもある。
灰嶺砦。あの砦を、ヒカルの側が攻略対象にする日が来る。砦にはレインの部下がいる。勇者として砦を落とすべきヒカルと、魔王として砦を守るべきレイン。
まだ先の話だ。今日は歯車が回り始めた日だ。まだ壊れない。
マジでめんどくせえ……。
だが——悪くない。
悪くないと思っている自分が、一番厄介だということも、わかっている。
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