表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/30

第12話: 最初の矛盾

 朝。廃塔。


 石の壁に背を預けて目を開けた。まだ体が重い。夜明けの光が窓の隙間から差し込んで、埃を金色に染めている。六時。いつもの時間。いつもの場所。


 手帳を取り出した。


 レインの書き置き。いつも通り角張った字。いつも通り箇条書きの報告。三行。簡潔。冷たい。——のはずが、四行目からは追伸が始まって、六行目で追伸2に突入して、結局本文の倍は書いてある。こいつ、本当に毎回こうだ。


 報告内容はいつもと変わらない。夜城の動向。魔獣の出没情報。食料の残量。ヒカルが廃塔に置いた干し肉への苦情(「不味い」の三文字に怒りが籠もっている)。


 ——だが。


 追伸の最後に、見慣れない一行があった。


 いつもの軽口とは違う。字が太い。筆圧が違う。書いてから消そうとして、消さなかった痕跡がある。消した上にもう一度書き直した——切迫した、一行。


 『追伸3: 北東の砦を攻めるな。俺の部下が300人いる。あの砦は昨夜、俺が守ると約束した。——R』


 手帳を持つ指が止まった。


 北東の砦。昨日の作戦会議で、セレナが名前を出した砦だ。魔族の前線基地。防御が薄い。ここを落とせば補給線を断てる——そういう話だった。


 明日、攻める予定だった。


 手帳をもう一度読んだ。「守ると約束した」。レインが、部下に。あの追伸を三行で済ませるはずの男が、こんなことを書いている。消して書き直すほどの——切実さで。


 300人。


 数字が頭の中で渦を巻いた。




 光都ソレイユ。作戦会議室。


 丸テーブルの上に黄昏帯の地図が広げてある。セレナの細い指が北東を指していた。


「ここです」


 紫の瞳が淡く光っている。解析のアナリティカ。遠距離の魔力残留を分析して作った図表が、地図の上に重ねてある。


「北東の砦——通称『黒牙砦こくがさい』。魔族の前線補給拠点です。解析の結果、防御結界の出力が通常の六割まで低下しています。おそらく先月の黄昏帯の嵐で、結界の触媒が損傷したものと推測されます」


 セレナがペンを走らせた。地図上に赤い矢印が三本。


「ここを落とせば、魔族の北東方面の補給線は壊滅します。前線を二十キロ押し戻せる。——ヒカル様」


 名前を呼ばれた。


「ここは、落とすべきです」


 セレナの声は静かだった。だが確信がある。データに裏打ちされた確信。セレナの判断は、いつも正しい。データは嘘をつかない。


「ガレス。どう思う」


 隣で盾を磨いていたガレスが顔を上げた。小さな垂れ目がヒカルを見た。


「いけんだろ」


 短い。いつも通り短い。だがガレスの「いけんだろ」は、三時間の議論より信頼できる。あの男の直感が「いける」と言うなら、いける。


 テーブルの上には地図。赤い矢印。数字。論理。


 ポケットの中には手帳。角張った字。追伸3。


 ——300人。


「……ヒカル様?」


 セレナの声のトーンが、微かに下がった。


「いえ……考えてた」


 笑った。勇者の笑顔。ガレスのコピーじゃない、王の前で見せる用の——一番上手に貼りつけられる笑顔。


「明日の行軍計画、もう少し詰めてくれるか、セレナ」


「はい。夜までにまとめます」


 セレナの手帳にペンが走った。


 ヒカルはテーブルの下で拳を握った。




 午後。城の中庭。


 ヒカルは一人で石のベンチに座っていた。手帳を開いている。


 レインの追伸3を、もう十二回読んだ。


 『北東の砦を攻めるな。俺の部下が300人いる。あの砦は昨夜、俺が守ると約束した。——R』


 部下。レインの部下。


 ヒカルにとって、レインの「仲間」は抽象的な存在だった。手帳の中の文字でしかなかった。夜城の魔族たち。ヴェルデ。ガルム。名前は知っている。書き置きに出てくるから。でもそれは文字であって、顔ではなかった。


 300人。


 今、初めてそれが数字になった。300という数。一人一人に顔がある。名前がある。誰かの子供で、誰かの親で、誰かの友人で——レインが「守る」と約束した300人。


 目を閉じた。


 勇者としての自分が言っている。——落とせ。砦を落とせば前線が二十キロ下がる。味方の兵士が死なずに済む。セレナの分析は正しい。ガレスの直感も正しい。勇者の判断として、落とすのが正しい。


 もう一つの声が言っている。——300人を殺すのか。レインの部下を。レインが信じた300人を。書き置きの信頼を裏切るのか。「俺が守ると約束した」——あの字の太さを、あの筆圧を、なかったことにするのか。


 目を開けた。


 中庭の空は永遠の昼だ。雲一つない。光都の結界が作る、完璧な青空。こんな空の下で、こんなことを考えている。


「……俺は、何のために戦ってるんだ」


 声に出した。誰もいない中庭で。


 答えは返ってこなかった。


 勇者だから、人間を守る。——それは刻印された使命であって、ヒカルの意志じゃない。


 レインの部下を殺したくない。——それは書き置きの延長であって、勇者の判断じゃない。


 どっちが本当の自分だ。どっちも借り物だ。勇者の使命も。レインへの——何だ、これは。信頼か。義理か。それとも——。


 わからない。


 わからないまま、夕方が来る。




 17時。作戦会議室。


 地図がまだテーブルの上にある。セレナが行軍計画をまとめて待っていた。ガレスは椅子にもたれて、ペトラの柄を撫でている。


「ヒカル様。計画が完成しました。明朝六時に出発、北東砦には——」


「セレナ」


 遮った。


 自分の声が、少し低くなっていることに気づいた。レインの書き置きを読みすぎた日に出る声だ。冷たくて、短くて、考え込んでいる声。


 セレナの紫の瞳が、一瞬だけ細くなった。


「……あの砦の南に、魔力反応がある」


 嘘だ。


「解析じゃ拾えなかったかもしれないけど、今朝の哨戒で妙な気配を感じた。たぶん——本隊がもっと南にいる。砦は囮だ」


 嘘だ。全部嘘だ。


 だが——300人を殺さない嘘だ。


「砦に突っ込んだら、南から本隊に挟まれる。迂回して、南側の本隊を先に叩くべきだ」


 声が震えなかったのは、ヒカルが嘘をつくのが上手いからではない。ヒカルにとって嘘は——最初の日からの日常だからだ。光都に来た初日。裸足で走って帰ってきた朝。「朝練だ」。あの日から、嘘は息をするのと同じになった。


 セレナが黙った。


 三秒。


「……南の魔力反応、ですか」


 声のトーンが下がった。0.5度じゃない。もっと下がった。1度——いや、それ以上。


「私の解析では、南方面に有意な魔力集中はありませんでした」


「遠距離だと拾えないこともあるだろ」


「……ございます。理論的には」


 セレナのペンが止まった。手帳の上で、ペン先がインクの点を作っている。書きかけて、書けなかった何かの痕跡。


「……また、ですか」


 小さな声だった。ヒカルに聞こえるか聞こえないかの、境界線上の声。


 ガレスが顔を上げた。


 小さな垂れ目が、ヒカルを見た。3秒。いつもの3秒。ガレスが人の嘘を見抜くのに必要な時間。ヒカルの目。ヒカルの指。ヒカルの声。全部見ている。全部わかっている。


 何も言わなかった。


「……気をつけろよ」


 それだけだった。何を気をつけるのか。嘘のことか。砦のことか。それとも——嘘をつき続ける自分のことか。


「ありがとう、ガレス」


 笑った。


 ガレスのコピーでも、王の前の勇者でもない笑い方だった。どこか——痛い笑い方だった。




 迂回が決まった。


 砦を避けて南へ。ヒカルの「魔力反応」を根拠に、行軍ルートが変更された。明朝の出発時刻も、方角も。全てが——嘘の上に組み直された。


 セレナは何も言わなかった。手帳にペンを走らせていた。何を書いているのか、ヒカルには見えなかった。


 ガレスは盾を磨いていた。ペトラの傷だらけの面を、丁寧に、丁寧に。


「……なあ、ペトラ。明日は南だってよ」


 盾に話しかけている。返事はない。だがガレスは頷いた。ペトラが何か言ったように。




 17時10分。ヒカルは光都の城門を出た。


 走った。光走。南へ。廃塔へ。


 いつもの道。いつもの風。黄昏帯の赤と紫。だが今日は足が重かった。体じゃない。心が重い。


 廃塔に着いた。17時25分。


 石段に座った。手帳を開いた。ペンを取った。


 何を書けばいい。


 「砦は迂回した」——事実だ。


 「嘘をついた」——それも事実だ。


 「お前のためじゃない」——嘘だ。お前のためだ。でもそう書いたら、負けた気がする。何に負けたのかはわからないけど。


 ペンが走った。


 『砦は迂回した。嘘ついた。仲間に。お前のためじゃない。合理的判断だ。——H』


 書いて、止まった。


 「合理的判断だ」。


 これは——レインの口癖だ。書き置きで何度も読んだフレーズ。「左肩の傷は治療しておいた。感謝は不要。合理的判断だ」。「食料を補充した。合理的判断だ」。何でもかんでも「合理的判断だ」で片づける男の——口癖。


 それを、ヒカルが使っている。


 無意識に。


 模倣癖。ガレスの笑い方。セレナの首の傾け方。そしてレインの——言葉。


 書き置きの言葉がヒカルに移っている。レインの冷たい論理が、ヒカルの口から出ている。境界が、溶けている。少しずつ、少しずつ。


 消そうかと思った。「合理的判断だ」の部分を。でも消さなかった。


 ——レインも、追伸を消さない。消そうかと迷って、消さない。それが、二人の書き置きのルールだ。書いたら、消さない。嘘も、本音も、全部残す。


 もう一行、追伸を書いた。


 『追伸: セレナの声が下がった。ガレスが3秒黙った。あいつらたぶん気づいてる。でもまだ何も言わない。——ありがたいのか、怖いのか、わかんない。H』


 ペンを置いた。


 空を見上げた。17時28分。あと二分で黄昏の30分が始まる。体が動かなくなる。レインの意識が浮かび上がってくる。


 今日は——話したいようで、話したくない。


 嘘をついたことを、レインに知られたくない。いや、違う。手帳を読めばわかる。知られるのが怖いんじゃない。レインが「ありがとう」と言うのが怖い。あの男は言わないだろうけど。「合理的判断だ」と返すだけだろうけど。


 でも——声で聞いたら、わかってしまう。字は嘘をつける。声は、つけない。


 レインの声に「ありがとう」が混じっていたら。


 俺はたぶん、次も嘘をつく。


 次も。その次も。仲間に嘘をつき続ける。300人のために。レインの部下のために。


 ——勇者の裏切りだ。


 これが。今日この瞬間が。


 最初の。


 17時30分。体から力が抜けた。意識が奥に沈んでいく。手帳はページを開いたまま、膝の上に残された。


 レインが読む。読んで——何を思う。


 意識が消える直前、最後に見えたのは空だった。赤と紫。昼でも夜でもない色。


 俺たちに似ている、と——また、思った。




 18時。


 レインは目を開けた。


 廃塔の石段。膝の上に手帳が開いている。丸くて大きな字。力が入りすぎて紙が凹んでいる。


 読んだ。


 一行目。二行目。短い。いつもは追伸で半分を埋めるのに——今日は、たった二行と追伸一つ。


 『砦は迂回した。嘘ついた。仲間に。お前のためじゃない。合理的判断だ。——H』


 レインの目が、最後の四文字に止まった。


 合理的判断だ。


 ——俺の言葉だ。


 首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。直らないバグ。今日はいつもより強く掻いた。


 追伸を読んだ。


 『追伸: セレナの声が下がった。ガレスが3秒黙った。あいつらたぶん気づいてる。でもまだ何も言わない。——ありがたいのか、怖いのか、わかんない。H』


 手帳を閉じた。


 立ち上がった。影走で夜城へ向かう前に、一度だけ振り返った。廃塔の石段。ヒカルが座っていた場所。まだ温もりが残っているかもしれない——同じ体なのだから、温もりも何もないのだが。


 走り出した。闇の中を。


 今夜の書き置きは短くする。報告だけにする。余計なことは書かない。


 ——「ありがとう」とは、書かない。


 代わりに書く言葉は、もう決まっている。


 『合理的判断だ。——R』


 それだけでいい。


 ヒカルには伝わる。字は嘘をつける。でも——同じ嘘を使う二人には、嘘の裏側が見える。


 レインは走った。闇の中を。夜城に向かって。口元は緩んでいなかった。


 でも——首の後ろを掻く手だけが、少しだけ優しかった。

下にある☆☆☆☆☆をクリックして★★★★★にしてくれたら作者が喜びます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ