第12話: 最初の矛盾
朝。廃塔。
石の壁に背を預けて目を開けた。まだ体が重い。夜明けの光が窓の隙間から差し込んで、埃を金色に染めている。六時。いつもの時間。いつもの場所。
手帳を取り出した。
レインの書き置き。いつも通り角張った字。いつも通り箇条書きの報告。三行。簡潔。冷たい。——のはずが、四行目からは追伸が始まって、六行目で追伸2に突入して、結局本文の倍は書いてある。こいつ、本当に毎回こうだ。
報告内容はいつもと変わらない。夜城の動向。魔獣の出没情報。食料の残量。ヒカルが廃塔に置いた干し肉への苦情(「不味い」の三文字に怒りが籠もっている)。
——だが。
追伸の最後に、見慣れない一行があった。
いつもの軽口とは違う。字が太い。筆圧が違う。書いてから消そうとして、消さなかった痕跡がある。消した上にもう一度書き直した——切迫した、一行。
『追伸3: 北東の砦を攻めるな。俺の部下が300人いる。あの砦は昨夜、俺が守ると約束した。——R』
手帳を持つ指が止まった。
北東の砦。昨日の作戦会議で、セレナが名前を出した砦だ。魔族の前線基地。防御が薄い。ここを落とせば補給線を断てる——そういう話だった。
明日、攻める予定だった。
手帳をもう一度読んだ。「守ると約束した」。レインが、部下に。あの追伸を三行で済ませるはずの男が、こんなことを書いている。消して書き直すほどの——切実さで。
300人。
数字が頭の中で渦を巻いた。
光都ソレイユ。作戦会議室。
丸テーブルの上に黄昏帯の地図が広げてある。セレナの細い指が北東を指していた。
「ここです」
紫の瞳が淡く光っている。解析の瞳。遠距離の魔力残留を分析して作った図表が、地図の上に重ねてある。
「北東の砦——通称『黒牙砦』。魔族の前線補給拠点です。解析の結果、防御結界の出力が通常の六割まで低下しています。おそらく先月の黄昏帯の嵐で、結界の触媒が損傷したものと推測されます」
セレナがペンを走らせた。地図上に赤い矢印が三本。
「ここを落とせば、魔族の北東方面の補給線は壊滅します。前線を二十キロ押し戻せる。——ヒカル様」
名前を呼ばれた。
「ここは、落とすべきです」
セレナの声は静かだった。だが確信がある。データに裏打ちされた確信。セレナの判断は、いつも正しい。データは嘘をつかない。
「ガレス。どう思う」
隣で盾を磨いていたガレスが顔を上げた。小さな垂れ目がヒカルを見た。
「いけんだろ」
短い。いつも通り短い。だがガレスの「いけんだろ」は、三時間の議論より信頼できる。あの男の直感が「いける」と言うなら、いける。
テーブルの上には地図。赤い矢印。数字。論理。
ポケットの中には手帳。角張った字。追伸3。
——300人。
「……ヒカル様?」
セレナの声のトーンが、微かに下がった。
「いえ……考えてた」
笑った。勇者の笑顔。ガレスのコピーじゃない、王の前で見せる用の——一番上手に貼りつけられる笑顔。
「明日の行軍計画、もう少し詰めてくれるか、セレナ」
「はい。夜までにまとめます」
セレナの手帳にペンが走った。
ヒカルはテーブルの下で拳を握った。
午後。城の中庭。
ヒカルは一人で石のベンチに座っていた。手帳を開いている。
レインの追伸3を、もう十二回読んだ。
『北東の砦を攻めるな。俺の部下が300人いる。あの砦は昨夜、俺が守ると約束した。——R』
部下。レインの部下。
ヒカルにとって、レインの「仲間」は抽象的な存在だった。手帳の中の文字でしかなかった。夜城の魔族たち。ヴェルデ。ガルム。名前は知っている。書き置きに出てくるから。でもそれは文字であって、顔ではなかった。
300人。
今、初めてそれが数字になった。300という数。一人一人に顔がある。名前がある。誰かの子供で、誰かの親で、誰かの友人で——レインが「守る」と約束した300人。
目を閉じた。
勇者としての自分が言っている。——落とせ。砦を落とせば前線が二十キロ下がる。味方の兵士が死なずに済む。セレナの分析は正しい。ガレスの直感も正しい。勇者の判断として、落とすのが正しい。
もう一つの声が言っている。——300人を殺すのか。レインの部下を。レインが信じた300人を。書き置きの信頼を裏切るのか。「俺が守ると約束した」——あの字の太さを、あの筆圧を、なかったことにするのか。
目を開けた。
中庭の空は永遠の昼だ。雲一つない。光都の結界が作る、完璧な青空。こんな空の下で、こんなことを考えている。
「……俺は、何のために戦ってるんだ」
声に出した。誰もいない中庭で。
答えは返ってこなかった。
勇者だから、人間を守る。——それは刻印された使命であって、ヒカルの意志じゃない。
レインの部下を殺したくない。——それは書き置きの延長であって、勇者の判断じゃない。
どっちが本当の自分だ。どっちも借り物だ。勇者の使命も。レインへの——何だ、これは。信頼か。義理か。それとも——。
わからない。
わからないまま、夕方が来る。
17時。作戦会議室。
地図がまだテーブルの上にある。セレナが行軍計画をまとめて待っていた。ガレスは椅子にもたれて、ペトラの柄を撫でている。
「ヒカル様。計画が完成しました。明朝六時に出発、北東砦には——」
「セレナ」
遮った。
自分の声が、少し低くなっていることに気づいた。レインの書き置きを読みすぎた日に出る声だ。冷たくて、短くて、考え込んでいる声。
セレナの紫の瞳が、一瞬だけ細くなった。
「……あの砦の南に、魔力反応がある」
嘘だ。
「解析じゃ拾えなかったかもしれないけど、今朝の哨戒で妙な気配を感じた。たぶん——本隊がもっと南にいる。砦は囮だ」
嘘だ。全部嘘だ。
だが——300人を殺さない嘘だ。
「砦に突っ込んだら、南から本隊に挟まれる。迂回して、南側の本隊を先に叩くべきだ」
声が震えなかったのは、ヒカルが嘘をつくのが上手いからではない。ヒカルにとって嘘は——最初の日からの日常だからだ。光都に来た初日。裸足で走って帰ってきた朝。「朝練だ」。あの日から、嘘は息をするのと同じになった。
セレナが黙った。
三秒。
「……南の魔力反応、ですか」
声のトーンが下がった。0.5度じゃない。もっと下がった。1度——いや、それ以上。
「私の解析では、南方面に有意な魔力集中はありませんでした」
「遠距離だと拾えないこともあるだろ」
「……ございます。理論的には」
セレナのペンが止まった。手帳の上で、ペン先がインクの点を作っている。書きかけて、書けなかった何かの痕跡。
「……また、ですか」
小さな声だった。ヒカルに聞こえるか聞こえないかの、境界線上の声。
ガレスが顔を上げた。
小さな垂れ目が、ヒカルを見た。3秒。いつもの3秒。ガレスが人の嘘を見抜くのに必要な時間。ヒカルの目。ヒカルの指。ヒカルの声。全部見ている。全部わかっている。
何も言わなかった。
「……気をつけろよ」
それだけだった。何を気をつけるのか。嘘のことか。砦のことか。それとも——嘘をつき続ける自分のことか。
「ありがとう、ガレス」
笑った。
ガレスのコピーでも、王の前の勇者でもない笑い方だった。どこか——痛い笑い方だった。
迂回が決まった。
砦を避けて南へ。ヒカルの「魔力反応」を根拠に、行軍ルートが変更された。明朝の出発時刻も、方角も。全てが——嘘の上に組み直された。
セレナは何も言わなかった。手帳にペンを走らせていた。何を書いているのか、ヒカルには見えなかった。
ガレスは盾を磨いていた。ペトラの傷だらけの面を、丁寧に、丁寧に。
「……なあ、ペトラ。明日は南だってよ」
盾に話しかけている。返事はない。だがガレスは頷いた。ペトラが何か言ったように。
17時10分。ヒカルは光都の城門を出た。
走った。光走。南へ。廃塔へ。
いつもの道。いつもの風。黄昏帯の赤と紫。だが今日は足が重かった。体じゃない。心が重い。
廃塔に着いた。17時25分。
石段に座った。手帳を開いた。ペンを取った。
何を書けばいい。
「砦は迂回した」——事実だ。
「嘘をついた」——それも事実だ。
「お前のためじゃない」——嘘だ。お前のためだ。でもそう書いたら、負けた気がする。何に負けたのかはわからないけど。
ペンが走った。
『砦は迂回した。嘘ついた。仲間に。お前のためじゃない。合理的判断だ。——H』
書いて、止まった。
「合理的判断だ」。
これは——レインの口癖だ。書き置きで何度も読んだフレーズ。「左肩の傷は治療しておいた。感謝は不要。合理的判断だ」。「食料を補充した。合理的判断だ」。何でもかんでも「合理的判断だ」で片づける男の——口癖。
それを、ヒカルが使っている。
無意識に。
模倣癖。ガレスの笑い方。セレナの首の傾け方。そしてレインの——言葉。
書き置きの言葉がヒカルに移っている。レインの冷たい論理が、ヒカルの口から出ている。境界が、溶けている。少しずつ、少しずつ。
消そうかと思った。「合理的判断だ」の部分を。でも消さなかった。
——レインも、追伸を消さない。消そうかと迷って、消さない。それが、二人の書き置きのルールだ。書いたら、消さない。嘘も、本音も、全部残す。
もう一行、追伸を書いた。
『追伸: セレナの声が下がった。ガレスが3秒黙った。あいつらたぶん気づいてる。でもまだ何も言わない。——ありがたいのか、怖いのか、わかんない。H』
ペンを置いた。
空を見上げた。17時28分。あと二分で黄昏の30分が始まる。体が動かなくなる。レインの意識が浮かび上がってくる。
今日は——話したいようで、話したくない。
嘘をついたことを、レインに知られたくない。いや、違う。手帳を読めばわかる。知られるのが怖いんじゃない。レインが「ありがとう」と言うのが怖い。あの男は言わないだろうけど。「合理的判断だ」と返すだけだろうけど。
でも——声で聞いたら、わかってしまう。字は嘘をつける。声は、つけない。
レインの声に「ありがとう」が混じっていたら。
俺はたぶん、次も嘘をつく。
次も。その次も。仲間に嘘をつき続ける。300人のために。レインの部下のために。
——勇者の裏切りだ。
これが。今日この瞬間が。
最初の。
17時30分。体から力が抜けた。意識が奥に沈んでいく。手帳はページを開いたまま、膝の上に残された。
レインが読む。読んで——何を思う。
意識が消える直前、最後に見えたのは空だった。赤と紫。昼でも夜でもない色。
俺たちに似ている、と——また、思った。
18時。
レインは目を開けた。
廃塔の石段。膝の上に手帳が開いている。丸くて大きな字。力が入りすぎて紙が凹んでいる。
読んだ。
一行目。二行目。短い。いつもは追伸で半分を埋めるのに——今日は、たった二行と追伸一つ。
『砦は迂回した。嘘ついた。仲間に。お前のためじゃない。合理的判断だ。——H』
レインの目が、最後の四文字に止まった。
合理的判断だ。
——俺の言葉だ。
首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。直らないバグ。今日はいつもより強く掻いた。
追伸を読んだ。
『追伸: セレナの声が下がった。ガレスが3秒黙った。あいつらたぶん気づいてる。でもまだ何も言わない。——ありがたいのか、怖いのか、わかんない。H』
手帳を閉じた。
立ち上がった。影走で夜城へ向かう前に、一度だけ振り返った。廃塔の石段。ヒカルが座っていた場所。まだ温もりが残っているかもしれない——同じ体なのだから、温もりも何もないのだが。
走り出した。闇の中を。
今夜の書き置きは短くする。報告だけにする。余計なことは書かない。
——「ありがとう」とは、書かない。
代わりに書く言葉は、もう決まっている。
『合理的判断だ。——R』
それだけでいい。
ヒカルには伝わる。字は嘘をつける。でも——同じ嘘を使う二人には、嘘の裏側が見える。
レインは走った。闇の中を。夜城に向かって。口元は緩んでいなかった。
でも——首の後ろを掻く手だけが、少しだけ優しかった。
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