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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第8話: 往復書簡

 十一日目の朝。


 レインの返事は、右手の甲にあった。


 ヒカルは水差しの前で固まった。昨夜、左手の甲に書いたはずの返事——『俺が先にいた。お前こそ出て行け。——H』——は乾いて薄くなっている。その代わりに、右手の甲に新しい文字が並んでいた。


 闇のインク。角張った字。寸分の狂いもない、刃物で刻んだような筆跡。


 『出て行く気はない。この体の主導権は俺にある。根拠を示せ。——R』


 根拠を示せ。


 ヒカルの頬が引き攣った。怒りが腹の底から噴き上がる。こいつは何を言っている。根拠? 知るか。俺がここにいる、それが根拠だ。理屈をこねるな。


 机の引き出しからインク壺を掴んだ。指に墨をつけて、左手の甲に叩きつけるように書いた。


 『根拠なんか知るか! 俺は俺だ! ごちゃごちゃ言うな! ——H』


 丸い字。大きい字。力が入りすぎて、最後の感嘆符が手首まではみ出した。


 ——書き足りない。


 『あとお前の傷のせいで今日も模擬戦サボらされた! セレナがうるさい! 責任取れ! ——H』


 左手の甲が文字でいっぱいになった。書く場所がない。ヒカルは袖をまくって、前腕に書き始めた。


 『お前が夜に何してるか知らないけど毎朝体がバキバキなんだよ! 右膝痛い! 腰痛い! 全部お前のせいだ! ——H』


 インクが腕を伝い落ちる。黒い字がびっしりと皮膚を覆っていく。文字と文字がぶつかり合い、読めるか怪しいほどの密度になった。


 ヒカルは自分の腕を見下ろした。息が荒い。怒りの勢いで書き散らした文字の群れが、腕を黒く染めている。


 ——冷静になれ。


 冷静になったところで消えない文字は消えないが。


 深呼吸した。右手の甲の角張った字をもう一度読んだ。


 『根拠を示せ』。


 ……こいつ、やっぱり賢い奴だ。ヒカルが感情で殴りかかっているのに、「R」は論理で返してくる。話が噛み合わない。最初から土俵が違う。


 だが——こいつとやり取りが成立している、という事実は、不思議と腹の底を温めた。


 恐怖は薄れていた。昨日の恐怖——「自分の中に知らない誰かがいる」という、あの内臓を掴まれるような感覚。それがもう、怒りに上書きされている。


 怖くないわけじゃない。だが怖さより先に、腹が立つ。腹が立つということは——相手を「人」として見ているということだ。怪物には怒らない。化け物には文句を言わない。怒りは、対等な相手にしか向かない。


 ヒカルは袖を下ろした。インクが布に滲んだ。これはまずい。セレナに見られたら——


 扉がノックされた。


「ヒカル様、訓練の時間で——」


「今行く!」


 声が裏返った。ヒカルは両腕を背中に回して、扉を背中で押し開けた。不自然だった。明らかに不自然だった。だが他に方法がない。


 セレナの紫の瞳が、ヒカルの不自然な姿勢を捉えた。一瞬だけ——本当に一瞬だけ——眉が動いた。手帳に手が伸びかけて、止まった。


「……袖の下、インクが滲んでいますが」


「えっ」


 右腕の袖口から、黒い染みが覗いていた。


「手紙でも書いていらしたんですか?」


「……日記だ。日記! 最近つけ始めた。勇者の日課として——」


「腕に書く日記は初めて聞きましたが」


 セレナの声は平坦だった。目だけが笑っていなかった。いや——目だけが笑っていた。観察者の目。データを収集する者の、静かな喜びの光。


 ヒカルは全速力で廊下に逃げ出した。




 十一日目の夜。


 レインは夜城の私室で、自分の腕を見下ろしていた。


 びっしりと。


 腕一面に、丸い字が踊っている。大きくて、力が入りすぎていて、感嘆符が多すぎて——読みにくい。


 レインは眉間に皺を寄せた。


 『根拠なんか知るか! 俺は俺だ! ごちゃごちゃ言うな! ——H』


 ……根拠を求めたら感情で返してきた。予測の範囲内だ。光属性の剣士。直情的。論理ではなく感覚で動く。データと矛盾しない。


 『あとお前の傷のせいで今日も模擬戦サボらされた! セレナがうるさい! 責任取れ! ——H』


 セレナ。——誰だ。


 レインは壁に闇の魔力で文字を浮かべた。九日間の分析メモ。「セレナ」の名前は初出だ。光の勇者の近くにいる人物。女性名。模擬戦に言及する権限を持つ以上、単なる従者ではない。


 新しい情報だった。


 『お前が夜に何してるか知らないけど毎朝体がバキバキなんだよ! 右膝痛い! 腰痛い! 全部お前のせいだ! ——H』


 レインは右膝に手を当てた。——確かに。昨夜のガルムとの模擬戦で、着地を失敗した。膝への衝撃は深夜までに消えると判断したが、昼間の活動には支障があったらしい。


 ……情報としては有用だ。


 問題は、この「H」が感情以外のデータを書いてこないことだ。怒りと文句と感嘆符の海から、必要な情報を拾い上げる手間がかかりすぎる。


 レインは壁の文字を消し、左腕に闇のインクで書き始めた。角張った字。一画一画に無駄がない。


 『報告。感情で書くな。座標と状況を書け。以下のフォーマットに従え。——R


 ①体の損傷報告(部位、程度、属性)

 ②行動予定(翌日の概要)

 ③周囲の人物と状況

 ④補給状況(食料、水、装備)


 上記を毎朝記載しろ。俺も同様に報告する。無駄な感情表現は不要。効率的な情報交換のみを行う。以上。——R』


 書き終えた。


 左腕の内側に、整然とした文字が並んでいる。番号が振られ、項目が明確で、フォーマットが統一されている。蒼馬の記憶が囁いた——レポートのテンプレート。大学の実験報告書。形式を統一しなければデータに意味はない。


 レインは腕を下ろした。


 ……あの感情的な字の男が、このフォーマットに従うとは思えない。だが提案はした。返答を待つ。


 ベッドに横になった。左腕を上にして。


 天井を見つめた。


 ——あいつの字は、丸い。大きい。力が入りすぎている。紙ではなく腕に書いているのに、まるで壁に落書きしている子供みたいだ。


 ……読みにくい。


 レインは目を閉じた。




 十二日目の朝。


 左腕に、レインの字があった。


 ヒカルは袖をまくって読んだ。番号つき。箇条書き。命令口調。


 ——フォーマットに従え。


 「何様だよ」


 声に出た。部屋に一人でいることを確認してから、もう一度読んだ。体の損傷報告。行動予定。周囲の人物。補給状況。


 ……確かに。確かに、これがあれば便利だ。


 昨日の模擬戦で右膝をかばって左足に負荷がかかった。レインの傷のせいだ。だが——レインも知らないのだ。ヒカルが昼間にどんな怪我をしているか。ヒカルが何を食べているか。誰と行動しているか。


 逆もまた然り。ヒカルはレインの夜を知らない。どこで何をしているのか。なぜ毎朝、闇の森で目覚めるのか。なぜ体に覚えのない打撲が増えるのか。


 情報が——足りない。互いに。


 腹が立つのは変わらない。だがレインの提案を蹴る理由が見つからなかった。蹴れば困るのは自分だ。覚えのない傷に対処できないまま、セレナの目を誤魔化し続けなければならない。


 インク壺を開けた。


 ——右腕に書こうとして、止まった。


 腕の文字が袖口から見えた瞬間のセレナの目を思い出した。あの目。あの、データを収集する目。あの目に二度目はない。次に腕の文字を見つけられたら、「日記」では通用しない。


 ヒカルは部屋を出た。光都の市場を歩いた。革装丁の手帳を買った。表紙が硬くて、ポケットに入るサイズ。インクが裏抜けしない厚手の紙。


 部屋に戻って、手帳を開いた。最初のページにインクで書いた。


 『ここに書け。体に書くと服の下が見えた時に困る。——H』


 ——理由は他にもあった。


 腕に書くと、風呂に入る時に消える。手帳なら消えない。手帳なら、やり取りが残る。


 そこまで考えて、ヒカルは自分の思考に首を傾げた。やり取りを残したい? こいつとの喧嘩の記録を?


 ……考えるのはやめた。


 手帳の2ページ目を開いた。レインの「フォーマット」に従って——書き始めた。不本意ながら。


 『①右膝打撲(お前のせい)。左足に負荷集中。あと左肩に古い傷がある。光属性の残留。三日前から痛い。

 ②明日は北東の森で魔獣討伐。パーティ3人。

 ③セレナ=宮廷魔法使い。俺の監視役。頭がいい。怖い。腕のインク見つかりかけた。ガレス=前衛。でかい。強い。いい奴。

 ④食料は城で出る。水筒は自分で補充。装備は聖光剣のみ。

 ——H


 追記: フォーマットには従ったぞ。満足か。命令するな。頼め。

 追記2: お前の字は読みやすい。腹が立つけど。

 追記3: 左肩マジで痛い。なんとかしろ。』


 ペンを置いた。


 手帳を閉じた。ポケットに入れた。——明日の朝、こいつがこれを見つける。市場で買った手帳が、いつのまにかポケットに入っている。そこから察して、最初のページを読むだろう。


 賢い奴だ。それくらいは伝わる。




 十二日目の夜。


 レインは夜城で覚醒した直後、体のあちこちを確認した。九日間の習慣——痕跡の記録。


 右膝。昨夜の打撲は——残っていた。薄い痛み。完全には治っていない。


 左肩。


 触れた。光属性の残留魔力が、肩の関節に絡みついている。三日前から——いや、五日前からだ。Day 7の模擬戦。あの時、聖光剣で斬りつけられたのではなく、光属性の衝撃波を受けた。レインの闇の魔力で表層は治癒したが、深部に光の残滓が刺さったまま取れていない。


 光属性の傷に、光属性の治癒は効かない。同属性の相殺が起きない。だが闇属性であれば——光を打ち消す形で、残滓ごと除去できる。


 合理的な判断だ。この体は共有資産。資産の維持管理は、能力を持つ側が行うのが効率的だ。


 闇の魔力を左肩に流した。冷たい光が肩の関節に染み込んでいく。光属性の残滓が、闇に触れてじわりと溶けた。痛みが——引いていく。


 3分で終わった。


 レインは肩を回した。可動域が戻っている。問題ない。


 次に、ポケットを確認した。


 ——手帳があった。


 昨夜はなかったものだ。革装丁。硬い表紙。ポケットに収まるサイズ。


 レインは手帳を開いた。


 最初のページ。丸い字。大きい字。力が入りすぎている。


 『ここに書け。体に書くと服の下が見えた時に困る。——H』


 ——合理的だ。


 レインは認めたくなかった。認めたくなかったが、事実は事実だ。体に文字を書き続ければ、周囲の人間に発見されるリスクが上がる。手帳であれば、ポケットの中に隠せる。記録も残る。消える心配がない。


 この「H」は感情的な馬鹿だと思っていた。根拠を求めれば「知るか」と返し、フォーマットを提示すれば「命令するな」と噛みつく。


 だが手帳を買ってきた。自分の判断で。自分の金で。——リスクを分析し、対策を実行する能力がある。


 2ページ目を読んだ。


 フォーマットに従っている。不完全だが。番号の振り方が雑で、損傷報告に「お前のせい」という不要な注釈がついていて、人物紹介が主観的すぎる。——だが情報はある。


 右膝打撲。左肩の光属性残留痕。北東の森の魔獣討伐。セレナという監視役。ガレスという前衛。


 レインは壁に闇の魔力で情報を整理した。セレナ——宮廷魔法使い。解析系。監視役。腕のインクに気づきかけた。この人物の解析能力は脅威だ。手帳への移行は正しい判断だった。


 ——左肩マジで痛い。なんとかしろ。


 もう治した。


 3ページ目を開いた。闇のインクで書き始めた。箇条書き。番号つき。角張った字。


 『報告:

 ①北東の森にC級魔獣3体を確認(3日前の偵察時)。毒牙種。解毒薬を携行しろ。

 ②夜城周辺の魔力が不安定化している。原因調査中。

 ③補給: 廃塔の水場は安全。ただし北の沢は魔獣の水飲み場。近づくな。

 ——R』


 3行。


 ペンを置いた。


 置いて——3秒後に、また取った。


 ページの下部に、小さく。いつもの角張った字より、ほんの少しだけ——線が柔らかい。


 『追伸: 左肩の傷は治療しておいた。光属性の傷には闇が効く。感謝は不要。合理的判断だ。——R』


 書き終えた。


 手帳を見つめた。


 ——消すか。


 追伸を消すか。報告だけでいい。治療した事実は、明日の朝にあいつが肩を動かせば自明だ。わざわざ文字にする必要はない。


 「感謝は不要」——この一文は何だ。感謝を求めていないと書くこと自体が、感謝を意識していることの証左だ。論理的に矛盾している。


 消すべきだ。


 レインは闇のインクを指先に灯した。追伸の上に指を近づけた。闇蝕の低出力で、文字の表層だけを削れば——


 指が止まった。


 3分。


 手帳を見つめたまま、3分が過ぎた。私室の窓の外で夜風が鳴っていた。夜城の尖塔が闇に沈んでいる。


 ——消さなかった。


 理由は、ない。合理的な理由は、ない。


 レインは手帳を閉じた。ポケットに戻した。


 ベッドに横になった。


 天井を見つめた。左肩に残る、闇の治癒魔力の余韻が冷たい。自分が治した傷。自分のものではない——いや、自分のものでもある傷。共有の体。共有の左肩。


 あの丸い字の馬鹿は、明日の朝、肩の痛みが消えていることに気づくだろう。そして手帳の追伸を読んで——


 何を思うだろうか。


 レインは目を閉じた。


 どうでもいい。合理的判断だ。それだけだ。


 ——Hからの追伸が3行もあることに気づいたのは、目を閉じてからだった。報告は4行。追伸は3行。あの馬鹿は、報告とほぼ同じ分量を追伸に費やしている。

 自分はどうだ。報告3行。追伸1行。——まだ、報告の方が多い。


 今のところは。

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