第29話: 昼の英雄、夜の暴君
光の英雄が来る——。
黄昏帯北縁の陣地に、伝令の声が走った。兵士たちが立ち上がる。剣の鳴る音。盾を構え直す音。そして——歓声。
「勇者だ!」
「光の英雄が来たぞ!」
ヒカルは光走で荒野を駆け、前線の陣地に滑り込んだ。六十八日目の昼。灰色の荒野に人間の軍旗が翻っている。兵士たちが槍を掲げ、歓声が波のように広がった。
光の英雄。灰嶺砦の防衛戦以来、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた。
ヒカルは笑った。六十八日かけて、少しずつ自分のものになっていく笑い方で。
「よし——全員揃ってるな!」
声を張る。勇者の声。腹から出す。前線の陣地にはガレスが既に座っていた。ペトラの表面を布で磨いている。目の下に隈がある。昨夜は眠れなかったのだろう。
「おう」
セレナが地図を広げて待っていた。紫色の瞳が蒼く光る——解析の瞳。
「ヒカル様。魔族軍、推定六百。黄昏帯中央に展開しています」
六百。これまでの二倍だ。レインの書き置きが脳裏をよぎった。
——『黄昏帯中央、展開する。全力だ。お前も全力で来い。——R』
追伸はなかった。本気の日は、レインの追伸が消える。感情の出口を閉じるのがレインの流儀だった。
「行くぞ」
ガレスが立ち上がった。ペトラを肩に担ぐ。地面が沈む。
「ああ——行こう」
黄昏帯の中央。空は橙と紫が混ざった曖昧な色——昼でも夜でもない、この世界のどちらにも属さない場所。
そこで、二つの軍が激突した。人間側四百。魔族側六百。角笛が鳴った瞬間、灰色の荒野が金属と魔力の轟音に呑まれた。
ヒカルは聖光剣を抜いた。黄昏帯の出力は60%。だが——この剣を振るのに120%は要らない。
「前線、突破する! 俺の後に続け!」
光走で加速する。足元が白く輝き、灰色の砂が巻き上がる。正面の魔族の盾兵に聖光剣を叩きつけた。光の斬撃が闇の盾を切り裂く。穴が空いた。
体が動く。戦闘プログラムが起動している——最適な軌道で剣が走る。右の魔族兵の突きをかわし、左の短剣兵の首筋を柄で打つ。三人目の魔導師が闇弾を放つ前に、その杖ごと腕を斬った。
恐い。体が勝手に動く恐怖は、六十八日経っても消えない。
だが今日は——違う。四人目の魔族兵が槍を突き出してきた時、ヒカルは自分の意思で踏み込んだ。プログラムの軌道ではなく、ガレスと訓練した「半歩内側に入る」動き。槍の穂先が肩を掠める。その内側から、聖光剣を振り上げた。
自分で動いた。全部じゃない。八割はまだプログラムだ。だが残りの二割——あの踏み込みは、ヒカルのものだった。
「ヒカル様! 右翼に突撃隊!」
セレナの声が飛ぶ。
「ガレス!」
「おう!」
返事は一言。だがガレスは既に動いていた。ペトラを構え、右翼の兵士たちの前に立つ。
「俺の後ろに来い! 絶対通さねえ!」
不動城壁——ペトラを起点に透明な障壁が展開した。魔族の突撃隊がぶつかる。轟音。衝撃波。ガレスの足が砂に沈む。だが——一歩も退がらない。
ヒカルは前線を切り開きながら、ガレスの背中を見た。岩のように動かない。あの背中があるから、後ろの兵士たちは怯えずに戦える。
——英雄って、ああいうことだ。
ヒカルは剣を振るった。五人、六人。倒れた魔族の顔が見えた。若い。角が小さい。レインの部下だろうか。
考えるな。今は——聖光剣が閃いた。
戦場の北東で、空気が変わった。
ガレスはペトラの振動で感じた。他の魔族兵とは桁が違う圧力が近づいている。
「下がれ! 全員退避!」
砂塵の向こうから、影が現れた。二メートル超の巨体。上半身裸。褐色の肌に古傷が走り、湾曲した角が陽光に黒く光る。左目の眼帯。
ガルム・ブラッドファング。
「よお——!」
ガルムが笑った。犬歯が牙のように光る。片目だけの視界で——真っ直ぐガレスを見ている。
「また会ったな、盾使い!」
「……ガルム」
ガレスはペトラを構えた。二十日前——灰の河で初めて拳を交えた男。あの日からガレスの盾には新しい亀裂が一本増えた。鉄拳崩し《アイアンクラッシュ》が刻んだ傷。修理しなかった。する気がなかった。
「ペトラの傷、まだあるじゃねえか! 直さなかったのか!」
「勲章だ」
ガレスは短く答えた。
ガルムが——右目だけを見開いた。左手が眼帯に触れた。前代魔王の拳の記憶。勲章と呼ぶには重すぎる、その傷。
「ハッ! ——言うじゃねえか!」
ガルムの拳に闇の魔力が収束した。黄昏帯の60%——だが、この男の60%は並みの魔族兵の120%に匹敵する。空気が歪んだ。
「今度こそ割るぜ、その盾!」
「来い」
ガレスは腰を落とした。ペトラを正面に構える。不動城壁は展開しない。前回、障壁は一撃で砕かれた。だから今日は——盾そのもので受ける。
鉄拳崩し《アイアンクラッシュ》。
拳と盾が激突した。衝撃波が輪になって広がり、周囲の砂が爆発するように舞い上がる。近くにいた魔族兵と人間兵が同時に吹き飛んだ。
ガレスの足が地面を削った。三歩——退がった。前回は一歩も退がらなかった。だが今回のガルムは全力だ。前回より重い。
「退がったな!」
「三歩だ」
「ハッ! 三歩でも退いたら俺の勝ちだろうが!」
「……もう一発来い。次は退がらねえ」
ガレスがペトラを構え直した。腕が震えている。だが——目は笑っていた。ガルムも笑っていた。
殺し合いだ。戦場だ。周囲では仲間が血を流している。なのにこの二人は——楽しんでいた。盾と拳。守るものと壊すもの。対極にいて、だからこそ噛み合う。
「いいぜ——!」
二発目。ガレスは足を砂に埋め、全体重を盾に預けた。ペトラの表面にガレスの魔力が走る。障壁ではない。盾そのものに注ぎ込む——純粋な強度。
「ペトラ——頼む!」
激突。音が消えた。衝撃波が空気を裂き、一瞬の真空が生まれた。
ガレスは——動かなかった。
足元の地面が半メートル陥没している。腕の筋が浮き出ている。口の端から血が滴る。だが——一歩も。
「……止まったぜ」
「上等だ」
ガルムが拳を下ろした。眼帯を触る。
「お前、面白いよ。盾使い」
「……お前もな」
退却の角笛が鳴った。ガルムが背を向ける。
「また来る」
「……ああ」
ガレスがペトラを下ろした。膝をつく。深く息を吐いた。ペトラの表面に——新しい亀裂は増えていなかった。今日は、盾が耐えた。
六十八日目の夜。夜城ノクターンの作戦室。
ヴェルデの報告が落ちた。
「我が軍の被害。戦死十三名。重傷二十一名。勇者の聖光剣による損害が最大です」
十三名。歴代魔王の分析が即座に計算する——戦力の2.2%。許容範囲内。
蒼馬の声が計算を遮った。十三人だぞ。十三人の魔族が死んだ。名前は知っている。配置図に全員の名前が載っている。ヒカルが——殺した。
ガルムが壁にもたれて笑っていた。拳に巻いた布が赤い。
「面白い盾使いがいた。二度目だが——やっぱりいい。あいつの盾、前代の拳を受けた時を思い出す」
レインは地図に視線を戻した。
「反撃を指揮する。全軍に通達しろ——夜の帷が落ちた。人間どもに思い出させてやれ。夜は——我々の時間だ」
声が変わった。魔王の声。歴代魔王の威厳を借りた、玉座の声。
夜の暴君が——動き始めた。
闇蝕が荒野を焼いた。
夜の黄昏帯。レインの魔法が戦場を支配していた。闇の触手が地面から這い上がり、人間軍の前衛を絡め取る。盾の隙間を縫い、足を絡め、動きを止める。
殺さない。
レインの闇蝕は精密だった。仮設の指揮所から全軍を動かしている。歴代魔王の戦術と蒼馬のロジスティクス知識が融合した指揮。
「第三隊、西に展開。人間の退路を塞げ。——ただし、包囲は八割で止めろ。完全に囲むな」
ヴェルデの赤い瞳が動いた。「八割、ですか」
「完全包囲すれば殲滅戦になる。殲滅は効率が悪い。退路を残せば追撃戦のほうが損害比が良い」
合理的な説明だった。だが本当の理由は——ヒカルの仲間かもしれない。ガレスの隣で戦っていた兵士かもしれない。ヒカルが書き置きで名前を挙げた、あの若い兵士かもしれない。殺すわけにはいかない。
「ガルム。東の側面を押せ。——ただし」
「わかってるよ。殺すなってんだろ、レイン様。『効率が悪い』から、だろ?」
ガルムが笑った。笑いながら——何かを見透かしている目をしていた。
「……そうだ」
「はいはい。了解」
ガルムが走り去った。鬼角突進で闇の中を駆ける。ヴェルデは何も言わなかった。角のヒビに指を当てたまま、静かに地図を見ていた。
六十九日目の夕暮れ。廃塔。
ヒカルは石段に座り、手帳を開いた。二日間の戦闘が終わった。人間軍の死者は八名。レインの闇蝕に絡め取られた兵士は多かったが、致命傷を負った者は少なかった。不自然なほどに。
ペンが手帳の上を走った。丸い字。紙が凹むほど力を入れて。
『今日、たくさん倒した。お前の部下かもしれない。ごめん——H』
追伸を書こうとした。書けなかった。「ごめん」の一語が重すぎて、その後に追伸をつける気力がなかった。
手帳を石の窪みに置いた。目を閉じる。
倒した魔族の顔が浮かんだ。若い。角が小さかった。レインが毎晩、報告を聞いて、配置を決めて、補給を手配した——兵士の一人だ。その命をヒカルが断った。
——英雄ってのは、人を殺して拍手される職業のことか。
切り替わった。
レインが目を開けた。廃塔の石段。夕闇が石壁を紫に染めている。
手帳を取った。ヒカルの字。一行だけ。
『今日、たくさん倒した。お前の部下かもしれない。ごめん——H』
追伸がない。六十九日間で覚えた。追伸がない日は、感情が出口の手前で詰まっている日だ。
あの馬鹿が——謝っている。戦争で敵を倒して、「お前の部下かもしれない」と。
レインは首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。今日は舌打ちしなかった。
ペンを取った。角張った字。筆圧が深い。
『謝るな。戦争だ』
書いて、止まった。指がペンを握ったまま動かない。
同じ体が——昼は人間の英雄として魔族を斬り、夜は魔族の暴君として人間を傷つけている。同じ手だ。聖光剣を握った手と、闇蝕を放った手は——同じ手だ。
ペンを紙に戻した。
『——俺もお前の仲間を傷つけた。でも殺してはいない』
殺してはいない。事実だった。闇蝕は精密だ。致命傷を避ける。退路を八割で止める。本当に効率の問題なのか。本当は殺したくないだけじゃないのか——ヒカルの仲間を。
追伸を書いた。
『追伸: お前が「ごめん」と書くたびに俺の胃が痛くなる。合理的に分析すると、お前の罪悪感が書き置きを通じて俺のストレスになっている。つまりお前が謝ることは俺の健康に悪い。謝るな。戦え。以上——R』
読み返した。重いテーマを軽口で包んでいる。いつものことだ。
もう一行だけ書いた。ペン先が紙の上で一瞬迷ってから。
『追伸2: 殺してないのは手加減してるんじゃないか?——H ……と、お前なら書くだろうな。答えは「黙れ。合理的判断だ」——R』
ヒカルの追伸を予測して、先に答えている。六十九日間の書き置き生活で——互いの言葉を先読みできるようになっていた。
手帳を石の窪みに戻した。
立ち上がる。影走で夜城へ向かう。走りながら思った。
昼の英雄が斬った魔族の数と、夜の暴君が傷つけた人間の数。その帳簿は——同じ体の上で閉じている。英雄と暴君は、同じ手で剣を振り、同じ手で魔法を放つ。
——マジでめんどくせえ戦争だな、これは。
夜城の門を潜る。魔族の衛兵が跪く。
「お帰りなさいませ——魔王様」
六時間前、この体は「光の英雄」と呼ばれていた。同じ体が。同じ顔が。同じ手が。
七十日目の朝。
ヒカルは廃塔で目を覚ました。手帳を開く。レインの角張った字。
『謝るな。戦争だ。——俺もお前の仲間を傷つけた。でも殺してはいない』
殺してはいない。知っていた。報告で聞いた。闇蝕は精密で、致命傷を避けていた。不自然なほどに。
追伸を読んだ。
『……手加減してるんじゃないか?——H ……と、お前なら書くだろうな。答えは「黙れ。合理的判断だ」——R』
ヒカルは笑った。先に書かれた。自分が書こうとした追伸を、レインに先に書かれた。しかも答えまで用意されていた。合理的判断——嘘つけ。
ペンを取った。大きな丸い字で。
『合理的判断じゃないだろ。お前、手加減してんだよ。俺の仲間を殺さないように。——ありがとう。あと、やっぱりごめん。胃が痛くなるなら俺と同じだ。お互い様——H』
『追伸: 次に追伸で先回りしたら怒る。俺の追伸を奪うな。あとガレスがガルムの拳を全部止めてた。あの二人が楽しそうに殴り合ってたんだけど、あれ何? 戦争ってこうだっけ?——H』
長い。レインに怒られる長さだ。だが今朝は長く書きたかった。
ごめん、と。ありがとう、と。お前の部下を殺して、お前に仲間を守られて、この矛盾がどうしようもなく苦しい、と。
でも——お前の書き置きがあるから、明日も剣を握れる。それだけは本当だ。
手帳を閉じた。立ち上がる。光走で光都に向かう。
今日も——光の英雄をやる。明日の夜、レインが夜の暴君をやる。同じ体で。同じ手で。
二つの名前を、一つの体が背負い続ける。
それが——この戦争の、一番残酷な秘密だった。
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