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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第30話: 解を持つ女

 答えは出ている。


 セレナ・リーヴルは机の前に座り、七冊の手帳を横一列に並べていた。七十二日目の午後。窓からの陽光が手帳の革表紙に落ちて、インクの匂いと古い紙の匂いが混ざっている。


 一冊目。「召喚異常に関する研究ノート Vol.1」。二冊目、三冊目、四冊目——七冊目。表紙が擦り切れた七冊の手帳。八百四十ページ分の観察と仮説と、名前をつけられなかった感情の残骸。


 その全てが、一つの結論を指している。




 仮説D-17。『ヒカル様は——一人ではない』


 セレナは七冊目の最終ページを見つめた。二十三日前に震える字で書いた一行。その横に走り書きした追記。『嘘だ。根拠は十分。私が、認めたくないだけ』


 八冊目は買わないと決めた。決めたのに——三日後に買った。解析をやめられなかった。


 記録結界アーカイヴの最新データ。七十二日分の蓄積。光属性と闇属性の同時検出。毎日17:30、廃塔の同一座標で——光と闇、二人分の魔力。例外なし。


 さらに数日前に廃塔内部へ立ち入った際、壁に残っていた筆跡を回収した。二種類のインク痕。丸い字と角張った字。解析のアナリティカで残留魔力を読むと——丸い字は光属性、角張った字は闇属性。


 同じ場所に。同じ手帳に。二人が書いている。


 仮説ではない。確信だ。ヒカルの中に、もう一人いる。




 答えは出ている。出ているのに——セレナの手は、王への報告書の上で止まっていた。


 羊皮紙の表題。『勇者監視定期報告書 第10次』。書き出しは決まっている。「ご報告申し上げます。勇者ヒカル様の体調は——安定しております」


 いつもの嘘。五回目から書き続けている嘘。八百ページ分の異常を、二行で握り潰してきた報告書。


 でも今回は——もう一行が必要だ。仮説D-17。二種類の魔力。二種類の筆跡。勇者の体内に闇属性の意識体が存在する可能性。


 書けば——ヒカルは排除される。


 欠陥勇者。穢れた器。闇に侵された光。宮廷の言葉は丁寧だが、行き着く先は同じだ。勇者の解任。最悪の場合——処分。


 書かなければ——セレナが終わる。


 宮廷魔法使いが勇者の重大な異常を隠蔽した。反逆罪。十二歳で母を亡くし、魔法学院を首席で卒業し、「わからない」を許さない人間になって、ここまで来た。その全てが——嘘の上に立っている。


 セレナは報告書の上にペンを置いた。立ち上がった。


 ——王の書斎に行こう。


 直接報告する。報告書ではなく、口頭で。データを見せて、仮説を説明して、判断は王に委ねる。それが宮廷魔法使いの務めだ。解析者は事実を提示する。善悪の判断は含まない。


 それが——セレナの信条だったはずだ。




 王城の三階。王の書斎に続く回廊。


 セレナの足音が石の床に響いた。規則正しい足音。手帳は持ってこなかった。代わりに記録結界の結晶石を右手に握っている。データは全てこの中にある。


 書斎の扉が見えた。重厚な樫の扉。金の紋章。両脇に衛兵が立っている。


 十五歩。十歩。五歩。


 扉の前に立った。右手を上げた。ノックする。拳を——


「セレナ」


 背後から声がした。


 低い。短い。岩のように重い声。


 振り向いた。


 ガレス・ストーンウォールが廊下の柱に背をもたれていた。腕を組んでいる。ペトラはない。珍しく盾を持っていなかった。


「……ガレスさん。何か」


「お前、入る気か」


 セレナの拳が——扉の三センチ手前で止まった。


「入りますが。定期報告です」


「嘘つけ」


 短い。三文字。ガレスは壁から背を離し、セレナの方に歩いてきた。四歩。大きな歩幅。目が——小さくて垂れた、犬みたいな目が、真っ直ぐセレナを見ていた。


「ヒカルのことだろ」


 心臓が——跳ねた。


「……なぜわかるんですか」


「顔色」


「顔色って——」


「お前が夜更かしした後の顔と、何か決めた後の顔は違う。今日は両方だ」


 解析不能。この男はいつもそうだ。言語化できない回路で正解に到達する。セレナの手帳七冊分の解析を、ガレスは「顔色」の一語で追い抜く。


 苛立つ。苛立つのに——今はその苛立ちすら、ありがたかった。


「ガレスさん」


 セレナは声を低くした。廊下の衛兵に聞こえないように。


「私は……ヒカル様が一人ではないことを、知っています」


 言った。声に出した。七十二日間、手帳の中だけに閉じ込めていた仮説を、初めて他人に向けて発した。


 ガレスは——驚かなかった。


 眉が動かない。目が動かない。呼吸すら変わらない。


「……知ってた」


 セレナの息が止まった。


「正確には——そんな気がしてた」


「……いつから」


「最初から」


 最初から。——七十二日前から。セレナが一冊目の手帳を書き始めるよりも前から。


「なぜ——何も言わなかったんですか」


「言ってどうする」


 ガレスは腕を組み直した。垂れた目が、セレナを見ている。


「あいつが隠してんなら、隠す理由がある。理由も聞かずに暴いたら、ただの裏切りだろ」


 セレナの手が下がった。右手の結晶石が重い。八百ページ分のデータが、指先に食い込んでいる。


「それを——王に報告すべきでしょうか」


 ガレスの目が——一瞬だけ、細くなった。考えている。この男が考える時間は短い。三秒もない。


「お前に聞くことじゃねえよ、それ」


「では誰に——」


「ヒカルに聞け」


 短い。六文字。だが——その六文字には、セレナの手帳七冊には書けなかった何かが入っていた。


 信頼。


 秘密を暴く代わりに、秘密を持つ本人に問う。答えを解析で得る代わりに、答えを本人の口から聞く。それがガレスの——信頼の形。


「ヒカルに聞け。お前の目の前で、あいつに言わせろ。それがお前の解析ってやつだろ」


「……それは解析ではありません」


「じゃあ何だ」


 セレナは答えられなかった。解析でもなく、報告でもなく、任務でもない。名前をつけたら壊れてしまう何か。


 ガレスが背を向けた。大きな背中。盾がないと少し小さく見える——嘘だ。盾がなくても充分に大きい。


「パン、食ったか」


「……は?」


「昼飯。食ってないだろ」


「食べました」


「嘘つけ。目の下の隈と口の端が乾いてる。朝から何も食ってねえ」


 セレナは口を閉じた。当たっていた。


「厨房に寄ってから行け。飯も食わずに大事な話をするな。頭が回らねえだろ」


 ガレスは手を振った。「じゃあな」も言わずに廊下を歩いていく。


 セレナは王の書斎の扉を見た。重厚な樫。金の紋章。拳はもう上がらなかった。


 ——ヒカルに聞け。


 結晶石を握り直した。指が白くなるほど。


 王の扉をノックしなかった。代わりに——踵を返した。




 光都の南門を出た時、陽は傾き始めていた。


 16:40。影が長い。セレナの白いローブの裾が夕風に揺れている。黄昏帯に向かう道。灰色の荒野が南に広がっている。


 ヒカルは毎日17:00に光都を発つ。廃塔に向かう。17:30に着く。セレナはそれを七十二日間観察してきた。帰還時刻のズレは平均四分以内。行動パターンは完璧に把握している。


 だから——先に行く。廃塔に先回りする。ヒカルが着く前に。


 早足で荒野を歩いた。ローブの裾が砂埃を巻く。手帳は持ってきた。八冊目。首の鎖に吊るした鍵で引き出しを開けて、取り出してきた。


 なぜ持ってきたのか。解析者の習性——ではない。もうそんな言い訳は通用しない。


 持っていないと、怖いからだ。


 母が死んだ日、泣く代わりに手帳を買った。以来、手帳はセレナの盾だった。ガレスにペトラがあるように、セレナには手帳がある。世界を整理するための道具。怖いものを言葉に変換して、紙の上に閉じ込めるための——武器。


 だが今日、手帳は武器にならない。


 これから聞くことは——解析できない答えかもしれない。




 廃塔が見えた。


 灰色の石塔。崩れかけた壁。黄昏帯の中央に立つ、人間にも魔族にも属さない場所。セレナの記録結界がまだ中央柱に設置されている。この塔の中で——毎日、17:30に二つの魔力が検出される。


 石段を上がった。内部は埃っぽく、夕日が崩れた壁の隙間から差し込んでいる。石壁に痕跡がある。二種類の筆跡。丸い字と角張った字——手帳に書き切れなかった走り書きだろうか。石の窪みがある。手帳を置く場所。二人の、メールボックス。


 セレナは石段に座った。待つ。


 16:55。ヒカルはまだ来ない。


 手帳を膝に置いた。開かなかった。今日は書かない。今日は——聞く。


 「知りたい」がセレナの全てだった。世界は解けるべき問題の集合体だと信じてきた。母の病因を。召喚の異常を。ヒカルの秘密を。解析できれば怖くない。解析できれば——失わない。


 でも——本当にそうだろうか。


 母の病因は見つけられなかった。見つけられないまま、母は死んだ。解析は間に合わなかった。「わからない」のまま失った。


 ヒカルの秘密は——見つけた。見つけてしまった。答えは手の中にある。


 だが答えを持っている自分が、こんなにも怖い。


 解析で到達した答えと、ヒカルの口から聞く答えは——同じものなのだろうか。


 ガレスは言った。「ヒカルに聞け」と。「お前の目の前で、あいつに言わせろ」と。


 それは解析ではない。対話だ。


 解析者は答えを「見つける」。対話は答えを「聞く」。見つけることと聞くことは違う。見つけた答えはセレナのものだ。聞いた答えは——ヒカルのものだ。


 セレナは手帳を閉じたまま、石段に座り続けた。夕日が壁の隙間から差し込んで、銀色の髪を橙に染めている。泣きぼくろの下に影が落ちている。


 足音が聞こえた。




 石段を上がってくる軽い足音。少し息が弾んでいる。光走を使った後の、加速が抜け切らない足取り。


 ヒカルが壁の向こうから姿を現した。金髪が夕日に光っている。碧い目。白い勇者装束。胸元に手帳を挟んでいる——レインへの書き置き用の手帳。


 セレナの姿を見て——足が止まった。


「——セレナ?」


 目が丸くなっている。驚いている。当然だ。この場所にセレナが来る理由は、ヒカルの知る限り存在しない。


「なんでここに——」


「ヒカル様」


 セレナは立ち上がった。膝の上の手帳が落ちそうになって、両手で抑えた。ペンが耳から外れた。拾わなかった。


 ヒカルの目が——動いた。セレナの手帳を見た。八冊目。表紙には「召喚異常に関する研究ノート Vol.8」と書いてある。


 セレナの目の下の隈を見た。深い。七十二日分の夜更かしの累積。


 セレナの手が——震えていることを見た。


「セレナ。どうした。何か——」


「ヒカル様」


 セレナの声が遮った。低い。いつもより——0.5度低い。ヒカルが何かを隠す度に声のトーンが下がる癖と、同じだった。セレナも——隠していた。七十二日間。


 ヒカルの足が、石段の途中で止まっている。セレナは三段上。見下ろす形。解析者が被験者を見る角度——ではない。


 セレナは手帳を胸に抱えた。革の表紙が冷たい。母の手帳と同じ冷たさ。


「ヒカル様。あなたの中に——」


 声が震えた。七冊と半分の手帳が導いた結論。記録結界のデータ。二種類の魔力。二種類の筆跡。八百ページ超の観察記録が指し示す、ただ一つの解。


 セレナは答えを知っている。知っている。だがヒカルに——言わせたい。ヒカルの口から聞きたい。それが解析ではなく対話だと、ガレスが教えてくれたから。


「——もう一人、いますよね」


 世界が止まった。


 夕日が壁の隙間から差し込んでいる。埃が光の中で漂っている。風が止まっている。


 ヒカルの顔から——血の気が引いた。


 碧い目が見開かれた。唇が開いた。閉じた。また開いた。喉が動いた。声が——出ない。


 顔の筋肉が崩れていく。勇者の顔が——剥がれていく。六十八日かけて積み上げた「勇者の演技」が、一言で崩壊していく。


 セレナはそれを見ていた。見ていることしかできなかった。解析者の目で。——違う。もう解析者ではない。名前のない感情が胸を刺している。


「……俺は」


 ヒカルの声が出た。掠れていた。小さかった。勇者の声ではなかった。


「俺は、ヒカルだ」


 セレナの心臓が痛んだ。その声を——聞いたことがある。夜更かしの手帳に書いた。『16:42 声のトーンが変化。周囲に人がいない時、勇者の声が消える。本来の声は——小さくて、少し怯えている』


 今の声だ。本来の声。演じていない声。


「それだけだ。それだけで——いいだろ」


 ヒカルの手が——胸元の手帳を握りしめていた。レインへの書き置き用の手帳。丸い字で感嘆符をたくさん書く、あの手帳。


 セレナの目がそれを捉えた。


 手帳を握りしめている。隠すように。守るように。——あの手帳が、「もう一人」との通信手段。


 セレナは一段降りた。ヒカルと同じ高さに立った。見下ろすのをやめた。解析者の角度を捨てた。


「ヒカル様」


 声が震えている。セレナの声も。ヒカルの声も。


「私は——」


 言葉を選んだ。七冊の手帳に書かなかった言葉を。


「私は、あなたを王に報告しに行きました。今日、あの扉の前に立ちました。データも証拠も全部持って」


 ヒカルの目が——揺れた。恐怖。ああ、と思った。この人は今、世界で一番怖い顔をしている。


「ノックしませんでした」


 ヒカルの息が止まった。


「ガレスさんに止められて——いえ。止められたのではなく、気づかされたんです。答えを王に渡すのではなく、あなたに聞くべきだと」


 セレナは手帳を下ろした。胸から離した。盾を下ろした。


「教えてください、ヒカル様」


 七十二日間で初めて——セレナはその問いを、声に出した。


「あなたは——あなたは本当に、一人ですか」


 夕日が沈んでいく。17:25。あと五分で黄昏が始まる。あと五分で——ヒカルの金髪が暗くなり、碧い目が変わり始める。


 ヒカルは——答えなかった。


 答えない代わりに、胸元の手帳をゆっくり差し出した。丸い字と角張った字が交互に並んだ、二人の通信記録。


 手が震えていた。ヒカルの手が。差し出した手帳が、夕日の中で小刻みに揺れていた。


 セレナはそれを——受け取らなかった。


「いいえ。読みません」


 ヒカルが顔を上げた。


「それはあなたの——あなたと、もう一人の方の、ものです。私が解析するものではありません」


 セレナの目が——初めて、涙で滲んだ。泣きぼくろの下を、一筋だけ。


「ただ——教えてください。その人は。あなたを傷つけていますか。それとも——」


 守っていますか、と。言おうとした。言えなかった。


 言えなかったのは——答えを、もう知っていたからだ。


 水筒を補充する人。傷を治す人。追伸を書く人。干し肉の塩加減を気にする人。ヒカルの指先の影が戻っている理由。


 セレナは知っている。解析者として——全部、知っている。


 ヒカルの目から涙がこぼれた。声が出なかった。頷いた。小さく。一度だけ。


 17:28。


 夕日が落ちる。廃塔の石壁が暗くなっていく。ヒカルの金髪の端が——僅かに、暗い色を帯び始めた。


 セレナはそれを見た。


 見て——目を逸らさなかった。


「……セレナ」


 ヒカルの声。掠れた声。小さな声。演じていない声。


「ごめん」


「謝らないでください」


 セレナは涙を拭った。手の甲で。乱暴に。解析者のやり方ではなかった。


「謝らないでください。あなたは——私に嘘をつきました。でも私も、あなたについて王に嘘をつきました。おあいこです」


 17:30。


 黄昏が始まった。空が橙と紫に染まっていく。光でも闇でもない、境界の時間。


 ヒカルの体が——動かなくなった。黄昏帯。切替の時間。ヒカルの意識が沈み始め、レインの意識が浮上する三十分間。ここでは、どちらも体を完全には支配できない。


 ヒカルの瞳の碧が——薄れていく。金髪に暗い色が混じっていく。セレナの目の前で。解析のアナリティカを使わなくても見える変化。


 ——ああ。


 セレナは思った。これが答えだ。七冊の手帳。記録結界のデータ。仮説D-17。全ての解析を超えて——答えは、目の前にあった。


 夕暮れの廃塔で、一つの体が変わっていく。光から闇へ。勇者から——もう一人へ。


 手帳を抱えた。八冊目。まだ半分白い。


 この先は——解析ではない。


 この先は——。


 セレナは石段に座り直した。変わりゆくヒカルの隣で。逃げなかった。目を逸らさなかった。


 黄昏が、廃塔を包んでいく。


 二つの答えを抱えた女が——そこにいた。

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