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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第28話: 始原の碑

 茶が不味い。


 六十五日目の朝。ヒカルは廃塔の地下室で、黒い液体を睨んでいた。イリスが淹れた薬草茶。苦味と渋味が舌の上で殴り合う味。十三日前に初めて飲んで以来、毎朝出される。毎朝不味い。


 だが体は軽くなる。だから飲む。


「婆さん。今日も不味い」


「褒め言葉だね」


 イリスは焚き火の前で茶碗を両手に包んでいた。白髪を雑に束ね、杖を膝に預けている。右目の金色と左目の赤が、焚き火の光で揺れている。


 ヒカルは茶碗を傾けて残りを一気に飲み干した。胃の底に苦味が落ちていく。その直後、体の奥から重さが一枚剥がれるような感覚。慢性的な疲労が——ほんの僅かだが——薄くなる。


「……効くんだよな、これ」


「体に良いって言っただろう。理由は教えないけど」


 ヒカルは茶碗を置いた。焚き火の向こうのイリスを見た。何百年もこの地下室に住んでいる老婆。六百年前の二人を知っている老婆。光と闇の目を持つ、種族不明の老婆。


 イリスが茶を啜った。静かな音が地下室に落ちた。


「——この塔から南東に半日歩いた場所に、石碑がある」


 ヒカルの手が止まった。


 唐突だった。会話の流れとは無関係に、イリスが言った。まるで天気の話をするように。


「石碑?」


「始原のしげんのひ、って呼ばれてた。昔はね。今は誰も呼ばない。誰も知らないから」


 ヒカルは身を乗り出した。石碑。この世界の地理は手帳に書いてある——レインが整理した座標情報、セレナに教わった地図の知識。だが「始原の碑」は聞いたことがない。


「何が書いてある?」


「自分で見な」


「教えてくれよ」


「教えたら意味がない」


 イリスの声は変わらなかった。偏屈な老婆の声。だが——ヒカルは六十五日間で学んでいた。この婆さんが何かを言う時は、必ず理由がある。直接教えないのも、理由がある。


「昔の二人もそこに行ったのか?」


 ヒカルの声が、少しだけ低くなった。「昔の二人」——六百年前の光と闇。イリスが最初の夜に語った、水と油の二人。


 イリスの手が止まった。茶碗を口元に近づけたまま、金色の右目がヒカルを見た。


「行ったよ」


 声が——半音だけ、若くなった。


「行って——何かを刻んだ」


 元に戻った。老婆の声。堆積した年月の重み。ヒカルはその変化を聞いた。以前は聞き逃したかもしれない。だが十三日間、イリスの茶を飲み続けて——この婆さんの声が変わる瞬間を、何度か聞いていた。


 過去を思い出す時。六百年前に触れる時。声が若くなる。一秒にも満たない。でも確かに。


「何を刻んだ?」


「……自分で見な。光の馬鹿」


 イリスは茶を啜った。会話の終了。杖で床を軽く叩いた。いつもの合図。


 ヒカルは立ち上がった。光都に向かう時間だ。


 だがその前に——手帳を開いた。丸い字で。紙が凹むほど力を入れて。


『婆さんが石碑の話をした。「始原の碑」。この塔から南東に半日歩いた場所にあるらしい。600年前の二人がそこに行って、何かを刻んだって。何が書いてあるかは「自分で見ろ」だと。婆さんの声が変わった。あの若くなるやつ。昔のことを思い出してた。——行くべきだと思う。お前はどう思う?——H』




 六十五日目の夜。


 レインは手帳を開いた。ヒカルの丸い字が跳ねている。


 始原の碑。


 その四文字を見た瞬間、レインの内側で歴代魔王の記憶が自動で検索を走らせた。


 始原の碑——該当なし。


 検索範囲を拡げた。第一代から第十一代まで。二千年分の記録。戦争の記録。外交の記録。地理の記録。黄昏帯の調査報告。石碑。碑文。遺跡——。


 該当なし。


 レインは眉をひそめた。蒼馬の癖で眉間を指で押さえた。


 十一代分の魔王の記憶を持っている。二千年分の知識がある。黄昏帯に関する報告だけでも数百件ある。なのに——「始原の碑」という言葉が、一度も出てこない。


 偶然の欠落ではない。


 歴代魔王の記憶には、紀元六百年周辺の空白がある。第二代魔王ノクスの記録が継承の鎖から脱落している。だが他の世代の記録からも言及がない。第七代が黄昏帯を調査した際の記録にも、始原の碑への言及はない。第九代が古代遺跡を体系化した際のリストにも、載っていない。


 レインは地下室の石段を降りた。イリスの焚き火が揺れている。


「始原の碑について聞きたい」


「あの子から聞いたんだろう。何をあたしに聞くんだい」


「お前の口から聞いている」


 イリスは鼻を鳴らした。前にも同じやり取りをした。名前を聞いた夜。


「六百年前の二人は、あの碑に何かを刻んだ」


 イリスの声が変わった。老婆の声から——半音だけ若い、何百年分の感情が沈殿した声に。


「結果は——あたしが知ってる」


 レインは動かなかった。壁に背を預けたまま、赤い瞳でイリスの目を見据えた。


「教えてくれ」


「教えないよ。自分で見な」


「お前は結果を知っている。それだけで充分な情報だ。碑に刻まれたのは術式か。意図の記録か。それとも——」


「うるさいね、理屈屋は」


 イリスが杖で床を叩いた。乾いた音が地下室に反響した。


「あたしが知ってるのは『結果』だよ。碑に刻まれたものは——あたしが削った」


 レインの指が膝の上で止まった。


 削った。


「……お前が碑の内容を消したのか」


「結果の部分だけね。術式と意図は残してある。——あの二人が何をしようとしたか。なぜそうしたか。それは読める。でも『どうなったか』は——あたしが消した」


 イリスの赤い左目が——光った。闇の魔力に似た、しかし異なる何か。一瞬だけ。


「なぜだ」


「自分で考えな」


 レインは黙った。分析している。


 碑の結果を削り取った。なぜ。結果を知られたくなかった。なぜ。結果が——何かを証明してしまうから。成功か、失敗か。その証拠を消した。


 だがイリスは「結果を知っている」と言った。知っていて、消した。


 イリスの右目は金色。左目は赤色。光と闇の混在。種族不明。数百年以上生きている。


 仮説が——レインの中で形を成しかけた。だがまだ足りない。情報が足りない。


「……碑を見る必要がある」


「そうだね」


 イリスは茶を啜った。




 地下室を出たレインは、手帳を開いた。


 まず歴代魔王の記憶を、もう一度精査した。今度は「始原の碑」ではなく、「消された記録」の痕跡を探す。


 第七代魔王の調査記録。黄昏帯の遺跡リスト——八十三件。北東に灰嶺砦、北西に旧交易路、南西に魔獣の巣穴群。だが南東方向だけが——完全な空白。一件もない。


 不自然だ。


 第九代の体系化リストも同じ。南東方向の項目が存在しない。元のデータが汚染されていれば、派生物も汚染される。大元が改竄されれば、以降の全ての参照がずれる。


 つまり——第二代ノクスの時代か、それ以前に、始原の碑の情報は意図的に消去されている。ノクスの記憶が継承の鎖から脱落しているのと、同じ手口。


 六百年前の融合の痕跡は——組織的に抹消されている。


 なぜ。


 レインはペンを握った。角張った字。筆圧が深い。紙が凹む。


『報告。①始原の碑——歴代魔王の記憶に該当なし。11代分を全精査。一件も出てこない。偶然ではない。意図的に消されている。②黄昏帯南東方向の遺跡情報が全世代で空白。第7代の調査記録から組織的に抹消された痕跡。③イリスは「碑の結果部分を自分が削った」と証言。術式と意図は残してあるらしい。④仮説: 600年前の融合に関する情報は、両陣営から意図的に消去された。碑を見る必要がある。⑤問題: 廃塔から南東に半日。往復で一日。片方の陣営を丸一日空けることになる。俺が夜に不在なら、ヴェルデが「散歩」の範囲を超えた不在に気づく。お前が昼に不在なら、セレナが記録する。一日の不在は——リスクが大きい。⑥だが、行くべきだ。——R』


 追伸を書こうとして——止まった。


 追伸ではなく、本文に書いた。これは感情の問題ではない。戦略の問題だ。


 レインは手帳を石の窪みに置いた。




 六十六日目の朝。


 ヒカルは手帳を開いた。レインの角張った字。筆圧が深い。紙がしっかり凹んでいる。昨夜のレインは集中していたということだ——追伸のない日は不安になるが、筆圧の深い日は安心する。頭が動いている証拠だから。


 報告を読んだ。全部読んだ。


 歴代魔王の記憶に一件もない。意図的に消されている。六百年前の融合の痕跡が抹消されている——。


 ヒカルは石段に座ったまま、黄昏帯の南東を見た。荒野が広がっている。砂と岩と、低い灌木。その向こうに石碑がある。半日歩けば着く。


 問題は——一日の不在。


 セレナの手帳は七冊目だ。ヒカルの行動パターンを十六日間分記録している。毎夕十七時に南へ向かい、翌朝北から帰還する。このパターンから丸一日逸脱すれば——セレナは確実に気づく。


 レインの側も同じだ。ヴェルデは三百年の忠義で夜城を見張っている。魔王が一晩不在。「散歩」では通らない。


 ヒカルはペンを握った。


 丸い字で。紙が凹むほど力を入れて。


『読んだ。全部消されてるのか。婆さんが碑を削ったのも、記録が抹消されてるのも——600年前に何かがあった証拠だ。行くべきだ。同意する。で、不在の問題だけど——交代で行く。俺が昼に廃塔を出て、南東に半日分歩く。日没で切り替わったら、お前が残りを歩く。翌朝また俺が碑まで歩いて調べて、夕方に切り替わったらお前が帰り道を歩く。一日じゃ無理だけど、二日なら行ける。昼の不在は「黄昏帯の哨戒任務」で通す。セレナには半日で戻ると言えばいい。夜の不在も「散歩の延長」で押し通せ。——丸一日いなくなるよりは怪しまれない。交代で歩く。半分ずつ。俺が昼、お前が夜。一つの旅を二人で。——H』


 書き終えて、ヒカルは読み返した。


 ——一つの旅を二人で。


 体が一つだから。人格が二つだから。昼は勇者が歩き、夜は魔王が歩く。同じ道を。同じ足で。半分ずつ引き継いで。


 ヒカルは追伸を書いた。


『追伸: 考えてみたら、俺たちっていつもそうだな。片方が歩いて、片方が引き継ぐ。廃塔の往復も、食料の補充も、書き置きも。全部、半分ずつだ。——今回も同じだ。ただ、行き先が遠いだけ。大丈夫。俺が歩いた道は、お前も歩ける。足跡が残ってるから。——H』


 手帳を石の窪みに置いた。


 立ち上がる。光都に向かう。今日はまだ出発しない。レインの返事を待つ。明日の朝、レインが了承していたら——六十七日目の昼、ヒカルは南東に向かって歩き出す。




 六十六日目の夜。


 レインは手帳を開いた。


 ヒカルの計画を読んだ。交代で行く。昼に半分、夜に残り。二日かけて往復。


 合理的だ。


 一日の完全不在は避けられる。各人格の不在時間は最大で半日。「哨戒任務」と「散歩の延長」——苦しい言い訳だが、丸一日よりはマシだ。


 追伸を読んだ。


 ——俺が歩いた道は、お前も歩ける。足跡が残ってるから。


 レインの手が止まった。


 足跡。


 昼間ヒカルが歩いた道を、夜間レインが引き継いで歩く。同じ足で。同じ体で。ヒカルが石を踏み、レインがその次の石を踏む。ヒカルが見た景色の続きを、レインが見る。


 一つの旅。体一つの旅。


 レインはペンを握った。


『了承した。タイミングはDay 67昼出発でいい。座標管理に注意しろ。日没時にはなるべく見通しの良い地点にいろ。——追伸: 足跡は消えるぞ。黄昏帯の風は強い。追伸2: だが方角は残る。お前が南東に向かったなら、俺も南東に歩く。足跡がなくても、同じ方角を向いていればいい。——R』


 レインは手帳を閉じた。


 同じ方角を向いていればいい。


 ——くだらん。


 舌打ちして、レインは廃塔を出た。夜城に向かう。星が頭上に広がっている。北辰の冠がいつもの場所で光っている。


 始原の碑。六百年前の二人が何かを刻み、イリスが結果を削り取った石碑。消された記録。消された記憶。


 その碑に向かって——二人で歩く。昼と夜を交代しながら。半分ずつ。


 レインは影走を発動した。風が体を切る。


 南東。明後日の夜、あの方角に向かって走る。ヒカルが昼に歩いた道の、続きを。

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