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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第25話: 帰りたい

 白かった。


 夜城ノクターンの内庭に、白い花が咲いていた。


 誰が植えたものでもない。永遠の夜の結界に覆われたこの城で、花が咲くこと自体が異常だ。闇の魔力は植物を枯らす。歴代魔王の記憶がそう告げている。第四代が観賞用に移植した薬草は三日で萎れ、第九代は城内緑化を試みて一ヶ月で諦めた。


 夜城に花は咲かない。咲くはずがない。


 だが——咲いていた。石畳の隙間から、五弁の白い花が三輪。闇の魔力を浴びながら、ひっそりと。


 レインは立ち止まった。


 足が動かなくなった。歴代魔王の分析能力が、花の品種を特定しようとする。該当なし。この世界の植物図鑑にない花。黄昏帯由来の変異種か。魔力との親和性は——。


 分析が、途中で止まった。


 蒼馬の記憶が、噴出した。


 ——白い花。庭。春。母が水遣りをしている。「蒼馬、ジャスミンって知ってる? 夜に咲くんだよ」。白いエプロンの背中。台所から漂うカレーの匂い。テレビの音。


 違う。


 違う。あの庭は蒼馬の庭だ。あの母は蒼馬の母だ。カレーの匂いは蒼馬の鼻が覚えている匂いだ。レインの記憶ではない。レインの母ではない。レインには母がいない。


 花弁が、闇の風に揺れた。


 ——帰りたい。


 レインの脳裏を、その四文字が焼いた。


 どこに。どこに帰る。地球はない。蒼馬の体はない。蒼馬の人生はない。蒼馬の母親は、別の世界の、別の時間の、もう二度と会えない人間だ。


 レインが持っているのは——他人の記憶だけだ。


 ……チッ。


 舌打ちして、レインは内庭から歩き去った。振り返らなかった。




 廊下を歩いていると、ヴェルデが現れた。


 漆黒の長髪。左胸の紋章バッジ——前代魔王のもの。赤い瞳がレインを捉え、微かに眉が動いた。


「レイン様。今宵のご予定は? ——ああ、また散歩ですか」


「報告があるなら聞く」


「北東前線、異常なし。灰嶺砦への補給は予定通り完了しました」


「よし。下がれ」


 ヴェルデは動かなかった。赤い瞳が、レインの顔を見ている。


「……花がお嫌いなのですか」


 レインの足が止まった。


「内庭に白い花が咲いたと、庭番が報告しておりました。レイン様が足を止めて——すぐに立ち去られたと」


 庭番。監視されていたわけではない。城の管理として当然の報告系統だ。だが——見られていた。花の前で立ち尽くした、あの数秒を。


「……嫌いだ」


 嘘だった。


 好きだから辛い。白い花が好きだ。蒼馬の記憶が好きだと言っている。母の庭が好きだ。春の匂いが好きだ。——だから辛い。全部、他人の「好き」だから。


「処分しますか」


「放っておけ。闇の魔力の中で咲いた花だ。数日で枯れる」


 ヴェルデが角に触った。右の角のヒビを指先で撫でる。嘘を見抜いた時の癖。


「かしこまりました」


 それだけ言って、ヴェルデは退いた。


 レインは廊下を歩き続けた。足音が石の回廊に反響する。歴代魔王の威厳ある歩き方。背筋を伸ばし、無駄のない所作で。


 ——借り物の歩き方。


 蒼馬は猫背だった。ポケットに手を突っ込んで、少し前屈みに歩いた。大学のキャンパスを、イヤホンをして、何も考えずに。


 帰りたい。


 また、あの四文字が来た。レインは首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。掻いてから気づいた。舌打ちした。二度目。




 夜城の奥に、闇の書庫がある。


 歴代魔王の記録が収められた場所だ。石壁に刻まれた魔族文字。羊皮紙に書かれた戦術論。第一代の創世記録から第十一代の戦争日誌まで——二千年分の知識が、闇の魔力で保存されている。


 レインは書庫に篭った。


 探しているものがあった。


 歴代魔王の記録を、片端から読んだ。第一代の統治論。第三代の戦争日誌。第五代の薬学書。第七代から第十代まで——戦争、統治、裏切り、暗殺。孤独な玉座。


 だが、帰りたいとは、誰一人として書いていなかった。


 レインはページを閉じた。


 当然だ。


 歴代魔王は魔族だ。この世界で生まれ、この世界で死んだ。帰る場所がない、という感覚すら持っていない。「帰りたい」は——ここではない場所を知っている者だけが持つ感情だ。


 蒼馬は知っていた。地球を。東京を。大学のキャンパスを。母の台所を。


 レインはその記憶を持っている。


 レインだけだ。十一代の魔王の中で、レインだけが——「帰りたい」という感情を持っている。


 レインは書庫の壁にもたれた。石壁が冷たい。闇の魔力が体に染み込んでいく。魔王の体には心地よいはずの感覚。歴代魔王はそう記録している。闇は安らぎだ、と。


 安らがなかった。


 蒼馬は光の中で生きた人間だ。朝日で目を覚まし、蛍光灯の下で講義を受け、夕焼けを見て帰った。闇は——蒼馬にとって、寝る前の時間だった。布団の中。スマートフォンの光。友人からのメッセージ。


 ——マジでめんどくせえ。


 レインは頭を壁に預けた。


 この感情は何だ。蒼馬の残りかすか。蒼馬の記憶が発火した、ただの条件反射か。白い花がトリガーで、母の庭が引き出されて、「帰りたい」という感情が自動再生された——それだけか。


 それとも——レイン自身の感情か。


 レインは蒼馬ではない。蒼馬の記憶を持っているだけだ。蒼馬の母の笑顔を覚えている。だがあの笑顔は、レインに向けられたものではない。蒼馬の友人の声を覚えている。だが友人たちは、レインの名前を知らない。


 借り物の記憶。借り物の感情。借り物の郷愁。


 ——なのに。


 帰りたい。


 どこに帰るのかもわからないのに、帰りたい。


 レインは目を閉じた。書庫の闇が、まぶたの裏にも広がった。闇。闇。闇——。


 蒼馬の記憶が、堰を切った。


 母のハンバーグ。大きすぎて、いつも最後の一口が入らなかった。食べきった顔を見た母が笑った。あの笑顔。


 友人——名前は中島。「蒼馬って名前、マジで馬みたいだな」。駅前のラーメン屋で、中島が替え玉を三回頼んで店員に呆れられた。


 缶コーヒー。微糖。百三十円。冬の朝、手に移る温度。


 星。屋上。大学三年の秋。流星群を見に行った。中島と、あと二人。名前——思い出せない。記憶が擦り切れている。蒼馬の二十年の記憶が、少しずつ劣化している。


 レインは目を開けた。


 書庫の闇が、冷たかった。




 蒼馬の記憶は、確かにレインの中にある。だが——永遠ではない。


 記憶は劣化する。蒼馬の顔を覚えている。鏡で見た自分の顔。だが輪郭が曖昧になっている気がする。母の声を覚えている。だがトーンが不確かになっている。カレーの匂いを覚えている。だが「似た匂い」を魔族の食事から見つけた時、元の記憶が上書きされた気がした。


 他人の記憶で生きている。その他人の記憶すら、やがて消える。


 レインに残るのは何だ。


 歴代魔王の記憶は鮮明だ。魔力で保存されている。第一代の声も、第十一代の最期も、鮮明に再生できる。だがそれは「魔王としてのレイン」の記憶だ。戦略と統治と暴力の記憶だ。


 蒼馬の記憶は——人間としての記憶だ。パンの匂い。友人の笑い声。母の手の温度。星の数。雨の音。


 レインを「レイン」にしているのは——どちらの記憶だ。


 魔王の記憶を失えば、統治ができなくなる。蒼馬の記憶を失えば——帰りたいと思わなくなる。楽になる。


 楽になることが、怖い。


 レインは書庫の石壁を拳で叩いた。痛みが手に走った。蒼馬の記憶ではない痛み。今、ここにある、レインの痛み。


「……くだらん」


 立ち上がった。書庫を出た。夜城の回廊を歩いて、外に出た。


 闇の空に、星があった。


 北辰の冠。ヒカルがセレナに教わった星座。レインが「三歳児の落書き」と評した星座図。数日前、廃塔から見たのと同じ星だ。


 蒼馬の記憶が——また来た。


 流星群。屋上。缶コーヒー。友人の声。「あ、流れた!」「願い事言えなかった!」「遅えよ、何秒あったと思ってんだ」。笑い声。四人分の笑い声。


 レインの目が熱くなった。


 ……チッ。


 三度目の舌打ち。だが今夜は——立ち去れなかった。


 星を見上げたまま、レインは立っていた。首が痛くなるまで。星が滲むのは、目が乾いたからだ。それ以外の理由はない。




 廃塔に着いたのは、午前四時だった。通常より早い。夜城での活動を切り上げた。


 石段に座った。手帳を開いた。ペンを握った。


 本文を書いた。


『報告。①異常なし。②北東前線、補給完了。③以上』


 三行。


 報告事項など、何もなかった。今夜は戦闘もなく、軍議もなく、ヴェルデとの短い会話以外には何もなかった。書くべきことが——ない。


 ペンが止まった。


 追伸、と書いた。止まらなくなった。


『追伸: 夜城の内庭に白い花が咲いていた。闇の魔力の中で咲く白い花。あり得ない。品種不明。——だが、問題はそこじゃない。白い花を見た瞬間、蒼馬の母親の庭が見えた。ジャスミンという花だ。夜に咲く。母親が水遣りをしていた。台所からカレーの匂いがした。全部、他人の記憶だ。俺の母じゃない。俺の庭じゃない。——なのに、帰りたいと思った。どこに? 地球はない。蒼馬の体はない。あの台所はない。帰る場所がないのに、帰りたい。これは蒼馬の感情の残りかすなのか。それとも俺の感情なのか。わからない。どちらでも辛い』


 ペンが止まらない。


『追伸2: 蒼馬の記憶が劣化している。友人の名前が思い出せなくなっている。五十八日前は覚えていた。今は顔が曖昧だ。他人の記憶が擦り切れている。歴代魔王の記憶は魔力で保存されている。鮮明だ。蒼馬の記憶は人間の記憶だ。——消えていく。蒼馬が見た星は、もう俺の中でしか存在しない。俺がこれを忘れたら、あの流星群を見た夜は——世界のどこにも残らない。パンの匂い。雨の音。母の歌。缶コーヒーの温度。——全部、もうない。全部、俺の中にしかない。全部——借り物だ。蒼馬の人生の、借り物だ』


『追伸3: 十一代分の魔王の記憶を漁った。誰も「帰りたい」とは書いていなかった。全員、この世界で生まれ、この世界で死んだ。——俺だけが違う。俺だけが、ここではない場所を知っている。知らなければ、帰りたいとも思わなかった。借り物なのに、手放せない。手放したら、俺は——何だ。蒼馬の記憶があるから、俺は「帰りたい」と思える。帰りたいと思えるから、俺は——魔王じゃない何かでいられる。それが、いいことなのかどうかも、わからない。帰りたい。どこに帰るのかは知らない。——R』


 レインはペンを止めた。


 手帳を見下ろした。


 本文三行。追伸——数えるのをやめた。二ページを超えていた。


 歴代魔王の記憶が冷たく分析する。これは情報伝達として非合理的だ。感情の垂れ流しに戦術的価値はない。削除すべきだ。


 削除しなかった。


 手帳を石の窪みに置いた。明日の朝、ヒカルがこれを読む。


 あの馬鹿は——きっと全部読む。長すぎるとか文句を言いながら、一文字も飛ばさずに読む。


 レインは首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。今日四度目。


 石段に背を預けて、目を閉じた。切替まで、あと一時間半。




 翌夜。Day 59。


 レインは廃塔で覚醒した。


 手帳を開いた。ヒカルの字。丸くて、大きくて、紙が凹むほど力の入った字。


 本文は一行だった。


『全部読んだ。長い。』


 感嘆符がない。ヒカルの書き置きに感嘆符がないのは珍しい。


 追伸があった。


『追伸: 帰る場所がないなら、作ればいい。……って、ガレスが言ってた。受け売り。今日の訓練で、ガレスの故郷の話になった。ガレスの村は三年前に魔獣に潰されたらしい。帰る場所がない。でもあいつは笑ってた。「故郷がなくなったから、好きな場所を故郷にすることにした。ここが俺の故郷だ」って、光都の石畳を踏みながら言ってた。馬鹿みたいだろ。でも——なんか、いいなと思った。だから書いた。受け売りだけど。お前に合うかわからないけど』


 レインは手帳を膝に置いた。


 受け売り。


 ガレスの言葉を、ヒカルが書いた。ヒカルの字で。ヒカルの丸い、凹んだ、不器用な字で。


 ——あの書き置き。ヒカルは書いた。「俺って、何だ」と。全部が借り物だと。笑い方も、怒り方も、勇者の使命も——誰かの真似だと。


 受け売りだと言っている。ガレスの言葉の受け売りだと。


 また借り物か。また誰かの言葉か。お前はいつも——。


 レインはペンを握った。


 追伸を書いた。


 一行だけ。


『追伸: 受け売りでも、お前が書いたなら、お前の言葉だ。——R』


 書いてから、レインは手を止めた。


 自分が何を書いたか、理解するのに三秒かかった。


 ——受け売りでも、お前が書いたなら、お前の言葉だ。


 それは。


 蒼馬の記憶は借り物だ。歴代魔王の記憶も借り物だ。レインの中にあるものは全部、他の誰かのものだ。


 だが——レインが「帰りたい」と書いた。レインの手で。レインのペンで。レインの追伸で。


 借り物でも。


 レインが書いたなら——。


 ……チッ。


 四度目の舌打ちは、昨夜の分だった。今夜の分は、まだ残っている。


 レインは手帳を閉じた。石の窪みに戻した。


 立ち上がって、廃塔を出た。夜の空気が肌を刺す。闇の魔力が体に染み込む。


 内庭の白い花のことを、考えていた。


 枯れるだろう。闇の魔力の中で、数日で枯れる。歴代魔王がそう記録している。


 だが——まだ、咲いている。


 今はまだ。

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