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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第24話: 英雄の空洞

 笑い方を選んだ。


 光都の祝宴会場——王城の大広間は白い石壁に金の装飾、天井から吊るされた数百の灯火ともしびに照らされていた。長卓に並ぶ料理の湯気が光を散らし、兵士や文官の笑い声が壁に反響する。永遠の昼結界の下、窓の外は変わらぬ午後の光を注いでいるが、広間の中は夜宴のような華やかさだった。


 ヒカルは大広間の入口に立って、笑い方を選んだ。


 ガレスの笑い方にしよう。口を横に開いて、目尻を下げて、肩を揺らす。ガレスが灰嶺砦から戻って「飯!」と叫んだ時の笑顔。体全体で笑う。何も隠さない笑い方。


 ヒカルには、あれがなかった。だから借りた。




「勇者殿! お待ちしておりました!」


 近衛兵が駆け寄ってくる。ヒカルはガレスの笑顔を顔に貼りつけたまま、右手を上げた。


「ああ、よろしく頼む!」


 声が大きい。これも借り物だ。ガレスが「ペトラ!」と叫ぶ時の声量を真似ている。勇者の声は大きくなくてはならない——そう思ったのは、いつからだろう。


「ヒカル様」


 セレナが横に並んだ。白いローブの裾が揺れる。いつものペンは耳にかけておらず、髪を丁寧にまとめている。祝宴用の装いだった。


「本日の流れをご説明します。まず王がお言葉を——」


「任せるよ、セレナ。俺は前に立って笑ってればいいんだろ?」


 セレナが一瞬、目を細めた。観察の目。ヒカルはそれを「解析中」と呼んでいる。


「……ヒカル様のお言葉もご用意しています。王の演説の後に、一言」


「一言で済むのか?」


「短い方がよろしいかと。民は長い演説を聞きに来ているのではなく、勇者のお顔を見に来ています」


 セレナの言い回し。「民は〜ではなく〜に来ている」という構造。解析書の文体だ。綺麗で、論理的で、隙がない。ヒカルはそれを頭の中で反芻した。使える。後で使おう。


 ——また、借りている。




 大広間の中央に進んだ。光都の民が祝宴に集まっている。ヒカルの金髪が灯火を反射すると、一斉に視線が集まった。


「勇者だ——!」


 歓声が壁を揺らした。ヒカルは笑った。ガレスの笑い方で。右手を上げた。「みんな——今日は楽しんでくれ!」


 歓声がさらに大きくなった。彼らの目に映るヒカルは——「光の英雄」だ。


 ——誰のものでもない笑顔を返せたら、良かったのに。


 ヒカルは広間を歩いた。すれ違う人々に手を振り、声をかけ、時に肩を叩いた。全て——借りたものだ。


「ガレス!」


 宴の隅で塔盾を壁に立てかけ、杯を傾けている大男を見つけた。


「おう」


 ガレスは短く答えた。正装——と言っても、いつもの鎧の上に金の肩章を付けただけだ。「おめかし」を全力で拒否した結果の妥協点だった。


「似合わねえよ、それ」


 ヒカルはガレスの隣に立った。ガレスの横にいると少しだけ肩の力が抜ける。なぜかはわからない。ガレスが難しいことを聞かないからだろう。


「お前も似合ってるぜ。勇者の服」


 ガレスが杯を傾けながら言った。白い正装の肩にかかった金のマント。聖光剣の装飾鞘。光都が用意した「勇者の祝宴衣装」。確かに似合っている。鏡を見た時、自分でも思った。——だが「似合っている」のと「自分のもの」であるのは、違う。


「飯、いけるか?」


「ああ。あっちの肉が旨かった」


「おう」


 ガレスが立ち上がり、肉の方へ歩いていった。ペトラを置いて——いや、ペトラに「ちょっと待ってろ」と声をかけてから。ヒカルは笑った。


 ——その笑い方が、今しがた真似したガレスの笑い方そのものだと気づいて、唇を閉じた。




 王オーギュスト三世が壇上に立った。銀灰色の髪。額のサークレットが光る。微笑んでいる。温かさのない微笑み。


「民よ」


 王の声が広間を静めた。ざわめきが消える。これが王の声だ。声量ではなく、質で場を支配する。


「灰嶺砦の防衛は成功した。これは——ひとえに、我が光の勇者ヒカル殿の剣のおかげである」


 歓声。拍手。王がヒカルに向き直った。


「勇者ヒカル殿に、感謝の盃を」


 ヒカルは壇上に歩み出た。頭を下げた。——この下げ方は、誰の真似だ。王への礼。セレナが教えてくれた作法。借り物だ。


「ありがたき幸せです、陛下」


 盃を受け取った。酒を口に含む。苦い。だが我慢できる。これも「慣れ」という名の模倣だ。


 王が微笑んだ。


「勇者殿——よければ、民に一言」


 一言。セレナが用意してくれた言葉がある。だがヒカルはそれを使わなかった。


 壇上から広間を見下ろした。数百の顔が、期待に輝いている。


 言葉を選んだ。


「——灰嶺で戦ったのは、俺一人じゃない」


 声が広間に響いた。セレナの論理構造を借りている。「Aではなく、B」。否定と肯定の組み合わせ。聞く人間の注意を引く構文。


「盾を構えた仲間がいた。作戦を立てた参謀がいた。食料を運んだ補給部隊がいた。そして——この光都で家を守り、日々の暮らしを支え続けた皆がいた」


 拍手が起きた。ヒカルは続けた。


「俺は剣を振るだけだ。だが剣を振るえるのは、守るべきものがあるからだ。皆が——俺の剣に、意味をくれている」


 大歓声。足踏み。口笛。


 セレナが広間の端で小さく頷いた。王が盃を掲げた。ガレスが肉を咀嚼しながら親指を立てた。


 ヒカルは笑った。


 ——ガレスの笑い方で。




 祝宴の喧噪の合間。バルコニーに出た。


 永遠の昼の光が白い城壁を照らしている。風が強い。金のマントがはためく。広間の歓声が石壁越しに聞こえている。


「ヒカル様」


 セレナが後ろに立っていた。ペンを耳にかけ直している。祝宴用の装いを一部解除して、いつもの「観察者」に戻っている。


「先ほどの演説——素晴らしかったです」


「ありがとう。セレナのおかげだよ」


「私は何もしていませんが」


「構文を借りた。『Aではなく、B』。セレナの解析書でよく見る言い回しだ」


 セレナの目が、一瞬だけ鋭くなった。


「……ヒカル様。私の解析書をお読みに?」


「あ——いや、報告を聞いてる時に、言い回しが印象に残ってて」


 ヒカルは笑って誤魔化した。だがセレナの紫色の目は、笑った顔の奥を見ていた。ヒカルにはわかる。あの目は「解析中」だ。


「ヒカル様の演説は——独自のものだと思いました。だからこそ民の心を掴んだのでしょう」


「独自?」


「はい。原稿にはない言葉でした。ヒカル様が——ヒカル様自身の言葉で語られたから、響いたのだと」


 独自。自分の言葉。


 ヒカルは手すりに手を置いた。石が冷たい。指先の感覚はあった。自壊の透明化は——回復している。老イリスの茶のおかげか、あるいは書き置きを続けているおかげか。


 自分の言葉——だと思った。だが本当は、構文はセレナ、声量はガレス、壇上での立ち方は王、内容は……内容は、何だ。誰のものだ。


「ヒカル様?」


「ああ——ありがとう、セレナ。戻ろうか」


 笑った。


 今度は誰の笑い方を使ったのか、自分でもわからなかった。




 祝宴が終わった。


 大広間から人が引き、灯火が半分消された。残った光が長い影を作っている。


 ヒカルは勇者の私室に戻らなかった。廃塔に向かう時間にはまだ早い。城の東塔——誰も来ない展望台に登り、石壁に背を預けて座った。


 膝を抱えた。


 金のマントが石の床に広がっている。聖光剣が腰で冷たく光っている。光都の永遠の昼が展望台の小窓から差し込み、ヒカルの金髪を白く染めている。


 一人だった。


 一人になると——演じなくていい。演じなくていいはずなのに、体が忘れてくれない。


 笑い方。ガレス。


 言葉遣い。セレナ。


 礼儀作法。王が見せた宮廷の所作。


 戦闘技術。刻印された戦闘プログラム。


 歩き方。走り方。剣の握り方。声の出し方。食事の作法。人との距離の取り方。


 全部——借りたものだ。


 ヒカルは自分の手を見た。掌を開く。光に透かす。五十五日前は何もなかった。この手は何も握ったことがなかった。名前すらなかった。「ヒカル」という名前は、セレナが「光の属性を持つ方ですから」と付けてくれたものだ。


 ——じゃあ。


 笑い方を剥がしたら。言葉遣いを剥がしたら。礼儀作法を剥がしたら。戦闘技術を剥がしたら。名前を剥がしたら。


 何が残る?


 ヒカルは膝に額を押しつけた。


「……俺って、何だ」


 声に出した。誰もいない展望台に、言葉が消えた。


 十四日前に生まれた——いや、もう五十五日だ。だが最初の十四日間を除けば、ヒカルが「ヒカルとして」自覚的に生きたのは四十一日。四十一日で集めた全てが、他人の模倣だった。


 勇者としての使命感。——刻印プログラムが与えたもの。

 正義感。——「勇者ってこういうものだろう」と思い込んだ演技。

 仲間への信頼。——ガレスの隣で肩の力が抜ける感覚は本物か? それとも「友情ってこういうものだろう」という模倣か?


 何が本物で、何が借り物か、わからない。


 ——いや、わかっている。全部借り物だ。


 ヒカルは顔を上げた。石壁の向こうに、永遠の昼の空が広がっている。雲一つない。夕焼けもない。光都の空は変わらない。何時間経っても同じ光、同じ色。


 この空と同じだ。変わらない。何もない。ずっと同じ明るさで、影がなくて、奥行きがなくて——。


 空洞だ。




 廃塔に向かったのは、陽が傾き始めてからだった。


 永遠の昼結界の外に出ると、空は既に橙色に染まっている。黄昏帯が近い。光走で荒野を駆ける。風が顔を打つ。足の下で石が砕ける。速い。強い。だがこの速さも強さも、刻印プログラムのものだ。


 廃塔に着いた。


 石段を降りる。地下室に入ると——老イリスがいた。いつもの場所に、いつもの姿勢で。焚き火の残り火が、金色の右目と赤い左目を照らしている。


「早いね」


「祝宴が終わった」


「ああ。聞こえてたよ。王都の喧噪はここまで届かないけどね。お前さんの足音は届く。乱暴な走り方だ」


 ヒカルは地下室の壁に背を預けた。いつもの位置。石棚の横。レインの干し肉と、自分の水筒が並んでいる。


「茶、あるか」


「飲むかい?」


「飲む」


 イリスが薬缶を火にかけた。いつもの手順。いつもの苦い匂い。もう何杯目だろう。数えていない。最初の日は「毒だ」と叫んだのに、今は自分から頼んでいる。


 茶を受け取った。口に含む。不味い。だが——飲める。体が軽くなる。


「今日の顔は酷いね」


 イリスがしわがれた声で言った。


「……何が」


「笑い方がバラバラだ。朝から何回変えた? 三回か? 四回か?」


 ヒカルの手が止まった。茶碗が唇に触れたまま。


「見てたのか」


「見なくてもわかるよ。お前さんが帰ってくる時の足音で。楽しい時の足音と、疲れた時の足音は違う。今日のは——空っぽの時の足音だ」


 空っぽ。


 さっきから頭の中を回っている言葉を、他人に言われた。


「……婆さん」


「イリスだよ」


「イリス。俺は——」


 言葉が出なかった。何を言えばいいのかわからない。何を聞けばいいのかもわからない。誰の言い回しを使えばいいのかも——。


 使える言い回しが、一つもない。


 ヒカルは茶碗を膝に置いた。


「……誰の真似でもない言葉が、俺にはない」


 イリスは黙っていた。焚き火が爆ぜる音だけが、地下室に落ちた。


「笑い方はガレスのもの。言葉はセレナのもの。礼儀作法は王のもの。剣は——刻印が勝手に動かすだけだ。俺じゃない。俺が選んだものは何もない」


「そうかい」


「そうだ。五十五日前には何もなかった。名前もなかった。記憶もなかった。レインには蒼馬の記憶がある。あいつは『借り物だ』って言うけど——借り物でも、記憶があるだけマシだ。俺には借りるものすらなかった。だから周りから拾った」


 声が震えた。


 ヒカルは茶碗を握りしめた。苦い液体が揺れて指にかかった。熱い。


 イリスはまだ黙っていた。金色の右目が、焚き火の光で揺れている。


「……茶を飲みな」


 それだけ言った。


 ヒカルは茶碗を傾けた。残りを一気に飲み干した。不味い。不味い。——泣きそうだ。茶が不味いからじゃない。


「時間だよ」


 イリスが杖で石壁を叩いた。コン。黄昏が近い。書き置きを書かなければ。


「……ああ」


 ヒカルは立ち上がった。手帳を取り出す。ペンを握る。


 ——ここだ。


 ここだけが、唯一、借り物じゃない。


 書き置きを書く時のヒカルは、誰の真似もしていない。ガレスの言い回しも、セレナの構文も使わない。短くて、感情的で、感嘆符が多くて——下手で、正直で、ぐちゃぐちゃだ。


 それが、ヒカルだ。


 それだけが、ヒカルだ。


 ペンが手帳の上を走った。


『なあレイン。お前は昔の記憶があるだろ。蒼馬っていう誰かの記憶。借り物だって言ってたよな。でも、あるだけいいよ。俺には何もない。笑い方も、しゃべり方も、全部誰かの真似だ。今日、祝宴で演説した。民が喜んでくれた。でも俺の言葉じゃなかった。構文はセレナので、声はガレスので、お辞儀は王ので——俺のものは、何もなかった。俺って、何だと思う?』


 ペンが止まった。


 追伸を書こうとして——今日は書けなかった。本文が、追伸みたいだったから。


 手帳を石の窪みに置いた。


 黄昏が来た。石段に座って、意識が薄れていくのを感じた。今日も——明日の朝には、レインの返事がある。それだけが確かなことだった。




 翌朝。Day 56。


 ヒカルは廃塔の石段で目を覚ました。最初にやることは、いつも同じだ。手帳を開く。レインの角張った字を探す。


 あった。


 本文は一行。


『お前は馬鹿だ。以上』


 ヒカルは手帳を閉じかけた。——閉じなかった。追伸がある。レインにはいつも追伸がある。


『追伸: 馬鹿は悪い意味じゃない。お前は考える前に動く。それは——俺にはできないことだ。俺は蒼馬の記憶で動いている。分析して、比較して、最適解を選んで。全部、過去のデータから引き出したものだ。お前は違う。初めて虹を見て「きれい」と言った。初めて茶を飲んで「まずい」と叫んだ。初めて演説して民を動かした。——お前のそれは、誰の真似でもない。考える前に、感じている。真似したくても、記憶がないから真似のしようがない。つまり全部、お前のものだ。馬鹿なのは間違いないが、それはお前だけの馬鹿だ。——R』


 ヒカルは手帳を胸に押しつけた。


 ——全部、お前のものだ。


 レインの字は角張っていて、小さくて、詰まっていて。追伸のくせにこんなに長くて。いつも通りの、冷たくて温かい言葉だった。


 答えは出ていない。「俺って、何だ」に対する答えは、「馬鹿」しか返ってこなかった。


 でも——レインが「馬鹿は悪い意味じゃない」と書いてくれたことが、今はただ、嬉しい。


 嬉しい。


 この感情は——誰の真似でもない。


 ヒカルは手帳を閉じた。立ち上がる。光走で光都に向かう。


 走りながら、少しだけ笑った。誰の笑い方を使ったのか——わからない。でもいい。わからないままでいい。


 嬉しい、と思った。それだけでいい。


 ——明日の書き置きには、こう書こう。


『馬鹿って言ったな。覚えとけ。次に会ったら殴る。追伸: ありがとう』

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