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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第23話: 黄昏の茶会

 知らなかった。


 レインは手帳を持ったまま、石段に座っていた。夕暮れの三十分が終わり、闇が廃塔を包み込んでいく。手帳の中で、ヒカルの字が跳ねている。


『地下室に婆さんがいた。知ってたか?』


 五十二日間、毎晩この地下室にいたのに——誰かが住んでいることに、気づかなかった。


 レインは眉間を指で押さえた。蒼馬の癖。


 歴代魔王の記憶が、即座に分析を返す。第六代が開発した索敵術式。第八代が体系化した気配察知の理論。どちらも反応しなかった。つまり——この「婆さん」は、レインの感知能力を上回る何かで存在を隠していたことになる。


 五十二日間。毎晩。同じ地下室に。


 ヒカルの書き置きの続きを読んだ。


『白髪の小さい婆さんで、イリスって名乗った。右目が金で左目が赤。俺たちのことを知ってた。「二人いるだろう」って言われた。なぜかバレてた。何百年もここに住んでたらしい。俺たちが来る前から。信じられるか?』


 追伸も読んだ。茶を飲まされたこと。人生で一番不味かったこと。でも体が軽くなったこと。「昔、この塔にも二人の馬鹿が来た」と言われたこと。——そして最後に、「マジで不味いぞ」。


 感嘆符が四つ。ヒカルの興奮度合いは感嘆符の数で測れる。通常は一つか二つ。四つということは——相当面白かったらしい。


 レインは手帳を閉じた。


 右目が金色、左目が赤色。オッドアイ。種族不明。


 歴代魔王の記憶を探る。光と闇の混在を示す身体的特徴——該当なし。そもそも光属性と闇属性を同時に持つ存在は、理論上不可能だ。


 理論上は。


 レインは立ち上がった。石段を降りる。地下室への入り口——暗い石の階段が、廃塔の床に口を開けている。


 毎晩通った階段だ。


 だが今夜は——階段の下から、微かに煙の匂いがした。




 地下室に降りたレインの足が止まった。


 小さな老婆が、壁際に座っていた。


 極度に小柄。身長百四十センチ以下。白髪を雑に束ね、杖を膝に預けている。手元には——小さな焚き火。その上に、黒ずんだ薬缶が乗っている。何かが煮立つ音がしている。


 レインが歴代魔王の索敵術式を走らせた。反応——なし。


 目の前にいるのに、感知できない。


 レインの右手が、無意識に外套の内側に伸びた。短剣の柄に触れる。


 老婆が顔を上げた。


 右目——金色。左目——赤色。


 ヒカルの記述通りだ。だがヒカルの感嘆符四つからは伝わらなかった情報がある。この目の色は——染料や魔法ではない。瞳そのものの色だ。


 老婆はレインを見て、薄い唇を歪めた。笑い、ではない。品定めに近い。


「あんたがもう一人かい」


 しわがれた声。だが——声量は安定している。老衰の声ではない。


「なるほど。闇の方はいつも怒った顔をしてるね」


 レインは動かなかった。短剣の柄に手を置いたまま。


「……いつも、とは」


「見てたからさ。毎晩、ここに来るだろう。水瓶を確認して、毛布を畳んで、手帳を読んで——追伸が長い時だけ、口元が緩む」


 レインの指が引きつった。


 見られていた。


 五十二日間。毎晩。追伸を読む顔まで。


「なぜ俺の感知に引っかからなかった」


「あたしの問題じゃないよ。あんたの感知が、あたしを『いないもの』と判断しただけさ。存在しないものは見えない。道理だろう?」


 結界隠蔽。それも——レインの歴代魔王の記憶にない種類の。


 レインは短剣の柄から手を離した。この老婆を力で排除する選択は——ない。力量が測れない相手に先手を打つのは、蒼馬の記憶が言うところの「期待値がマイナスの賭け」だ。


「名前は」


「聞いたろう。あの子から」


「お前の口から聞いている」


 老婆は鼻を鳴らした。


「イリスだよ。ただのイリス。婆さんでも構わないがね」


 薬缶から湯気が上がった。老婆——イリスが、欠けた陶器の茶碗に黒い液体を注ぐ。地下室に、苦い薬草の匂いが広がった。




 レインは壁に背を預け、イリスの正面に座った。距離は三メートル。逃走経路は背後の石段。視界にイリスの全身が収まる位置。


「お前は何者だ」


「茶を飲む婆さんだよ」


「この塔に何百年も住んでいる、とヒカルに言ったな」


「あの子は信じたよ。あんたは信じないだろうけどね」


 レインは沈黙した。分析している。


 イリスの衣服は布地が古いが、手入れされている。杖は装飾がなく実用的。焚き火の組み方は効率的で、煙が少ない。長期間の野営に慣れた人間の動きだ。


 人間。


 いや——わからない。オッドアイの色は、人間にも魔族にもない組み合わせだ。


「何百年も住んでいるなら」


 レインはゆっくりと言った。


「この塔の歴史を知っているはずだ」


 イリスの手が止まった。茶碗を口元に近づけたまま、金色の右目がレインを見た。


「知ってるよ」


 しわがれた声が、一段落ちた。


「三百五十年に建てられて、四百年に放棄された」


 事実。歴代魔王の記憶と一致する。第二代魔王の時代の記録に、停戦協定時代の監視塔の建設記録がある。


「でもね——」


 イリスが茶を啜った。音が地下室に響いた。


「六百年に、もう一度使われた」


 レインの心臓が跳ねた。


 六百年。


 歴代魔王の記憶が——瞬時に反応した。暗い書庫。破られた頁。消された年表。第七代魔王が第二代の記録を閲覧した際の苛立ち。第九代が同じ空白に気づいた時の不審。


 紀元六百年。第三代勇者と第二代魔王ノクスの記録が——意図的に破棄された年。


 レインは知っている。記録が「ない」ことを。だがなぜ消されたのかは、十一代分の魔王の記憶を漁っても見つからなかった。第二代ノクスの記憶そのものが——継承の鎖から脱落している。


 他の魔王の記録は断片的にでも残っている。第一代の創世期。第三代の戦争。第四代の政治改革。全て、薄くても残っている。


 第二代ノクスだけが——空白だ。


「何があった」


 レインの声が低くなった。歴代魔王の威圧を借りた声ではない。蒼馬の知的好奇心が前に出た声だった。


「六百年に、この塔で何があった」


 イリスはゆっくりと茶碗を下ろした。


 そして——笑った。


 笑い方が変わった。偏屈な老婆の笑いではない。もっと深い、もっと古い——何百年分もの感情を圧縮したような、息だけの笑い。


「水と油を混ぜたらどうなる?」


「……何だと」


「質問に質問で返すのは嫌いかい。でも答えてごらん。水と油を混ぜたらどうなる?」


 レインは眉をひそめた。蒼馬の記憶が自動で答えを返す。化学の基礎。


「分離する。比重が異なる二つの液体は——」


「違うよ」


 イリスが遮った。


「答えは——『混ぜ方による』さ」


 レインは口を閉じた。


「乱暴に混ぜれば、しばらくは混ざったように見える。でもすぐ分離する。じゃあ、ゆっくり混ぜたら? 乳化剤を入れたら? 温度を変えたら? ——方法次第で、結果は変わるんだよ」


 イリスの赤い左目が——一瞬、光った。闇の魔力に似た、しかし異なる何か。


「昔——うんと昔」


 イリスの声が変わった。


 しわがれた声が、半音だけ若くなった。ほんの僅か。気づかない人間の方が多いだろう。だがレインは——歴代魔王の聴覚記憶がある。声の変化を聞き逃す耳は持っていない。


「この塔にも二人の馬鹿が来たもんさ。水と油みたいにね。一人は光。一人は闇」


 レインの指が膝の上で握られた。


「お前さんたちと似てたよ。似てたけど——同じじゃない」


 声が——元に戻った。老婆の声。堆積した年月の重み。


 若くなった瞬間は、一秒にも満たなかった。だがレインはそれを記録した。声の周波数の変化。呼吸のリズムの乱れ。何かを思い出した時の、無意識の身体反応。


 第二代魔王ノクス。第三代勇者。紀元六百年。記録の空白。


「その二人は——どうなった」


「知らないよ。自分で考えな」


 イリスは再び茶を啜った。会話の終了を宣言するように。




 だがレインは引き下がらなかった。


「知らないわけがない」


 レインは姿勢を正した。壁から背を離す。膝に肘をつき、イリスの目を正面から見据えた。


「お前は六百年にこの塔が使われたと言った。その情報を持っているということは、当時の記録に接触しているか——あるいは当時を知っている。どちらだ」


「どっちだと思う?」


「質問に質問で返すな」


「じゃあ、あたしも言うよ。命令するな」


 二人の視線がぶつかった。赤い瞳と、赤い左目。金色の右目は——レインを見ながら、レインではない何かを見ているようだった。


 沈黙が落ちた。焚き火が爆ぜる音だけが、地下室を満たしている。


「……茶、飲みな」


 イリスが茶碗を差し出した。黒い液体の表面に、焚き火の光が揺れている。


「毒か」


「毒を入れるなら、もっと上手くやるよ。あんたは理屈屋だね。分析しないと気が済まない」


「分析は——」


「分析したって味は変わらないよ」


 レインは茶碗を受け取った。鼻を近づけた。薬草の苦い匂い。その奥に、微かに甘い成分。成分分析——蒼馬の化学知識が起動するが、異世界の植物には通用しない。歴代魔王の薬学知識を参照する。第五代の時代に体系化された魔族薬草学——。


 該当なし。


 この薬草は、魔族の薬学体系に存在しない。人間側の薬草とも違う。黄昏帯固有の植物か。


「飲みな。体に良い」


「何に良い」


「あんたの体に良い。理由は教えない」


 レインは目を細めた。毒を盛る合理性がない。殺すなら五十二日のうちどの夜でもできた。ヒカルも飲んで無事だった。協力の方が利得が大きい局面だ。


 レインは茶碗に口をつけた。


「——まず」


 ひどい味だった。苦味と渋味が口の中で暴れまわる。だが飲み込んだ瞬間、体が軽くなった。微かに。だが確実に。二つの魂が一つの体を酷使し続けることで蓄積した疲労が、一段薄くなった。


 レインの目が見開かれた。


「この茶——」


「黄昏帯の薬草だよ。あたしが勝手に摘んで、勝手に煎じてる」


 イリスは茶碗を持ったまま、レインの顔を見ていた。金色の右目と赤い左目が、焚き火の光で揺れている。


「あんた、書き置きの方が素直だね」


 レインの手が止まった。


「……何を知っている」


「見てたって言っただろ。毎晩。あの手帳を読む時のあんたの顔。本文を読んでる時は眉間に皺が寄ってる。でも追伸を読む時だけ——口元が緩む。隠してるつもりだろうけど、あたしの目は誤魔化せないよ」


 レインは茶碗を膝に置いた。


 反論しようとした。口が開いた。閉じた。


「……くだらん」


 それだけ言って、残りの茶を一気に飲み干した。


 やはり不味い。だが——体は確かに軽くなっている。




 レインは夜城に向かう前に、手帳を開いた。


 ペンを握る。いつもの角張った字で、本文を書き始めた。


『報告。①廃塔地下室に老婆を確認。名はイリス。年齢不明。種族不明。右目金色・左目赤色のオッドアイ。結界隠蔽の使い手。俺の索敵に52日間引っかからなかった。能力の上限は不明。②600年にこの塔が使われた、と証言。第2代魔王ノクスの記録空白期と一致。偶然ではない。③成分不明の茶を出された。味は酷い。だが飲んだ後、体が軽くなった。薬草の類か。毒ではないと判断。分析継続。④この老婆は何かを知っている。だが直接答えない。質問には質問で返す。論理的会話が成立しない。厄介だ』


 ペンが止まった。


 追伸を書こうとして——止まった。


 ヒカルの書き置きの追伸が見える。開きっぱなしの前のページ。


『イリスさんって言うんだって! お茶は不味い!』


 さん付け。初対面の正体不明の老婆に、さん付け。距離感が近すぎる。


 レインはペンを持ち直した。


『追伸: 名前で呼ぶな。距離が近すぎる。正体不明の存在に「さん」を付けるな。お前のその、誰でも信じる癖は——いつか致命的な隙になる。追伸2: とはいえ、俺も名前を聞いてしまった。「イリス」。あの老婆の声が一瞬だけ変わった。600年前の話をした時に、声が若くなった。0.5秒もなかった。だが——あれは何だ。何かを思い出した時の反応だ。追伸3: 茶の味は本当に酷い。ストレートの紅茶を侮辱する味だ。だが効果は否定できない。二杯目を飲むかは未定。追伸4: 600年。記録が破棄された年。第2代魔王ノクスの記憶は、継承の鎖の中で唯一の空白だ。11代分の魔王の記録を持つ俺でも、ノクスだけがわからない。——あの老婆は、その空白を埋める鍵かもしれない。追伸5: 名前で呼ぶな。二度目に言う。「イリス」ではなく「老婆」か「あの女」でいい。——と書いたが、追伸2で自分も「イリス」と書いている。くだらん』


 レインはペンを止めた。


 本文四行。追伸五つ。


 追伸の方が長い。いつも通りだ。


 追伸5を読み返して、レインは首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。


 自分で「名前で呼ぶな」と書いておきながら、三行前で「イリス」と書いている。削れば済む話だ。削って書き直せばいい。


 削らなかった。


 手帳を閉じて、石の窪みに置いた。明日の朝、ヒカルがこれを読む。追伸の矛盾に気づくだろう。「お前も名前で呼んでるじゃん!」と感嘆符三つくらいで書いてくるだろう。


 ——くだらん。


 レインは廃塔を出た。夜の空気が肌を刺す。闇の魔力が体に染み込んでいく。


 石段を降りながら、レインは考えていた。


 六百年。水と油。「混ぜ方による」。


 あの老婆は——第二代魔王ノクスと第三代勇者に何があったかを知っている。記録が破棄された理由も、おそらく知っている。だが直接は答えない。謎掛けで返す。


 なぜ直接答えない?


 蒼馬の記憶が仮説を返す。情報を直接渡すことにリスクがあるか、あるいは——直接答えることが「できない」事情があるか。


 もう一つの仮説。レインの論理が嫌いだったか。


 いや。嫌いなら茶は出さない。


 あの茶の効果——体が軽くなる。自壊の症状に作用している可能性がある。もしそうなら、あの老婆は自壊を知っている。二つの魂が一つの体に宿る状態を知っている。


 だとすれば——。


 レインの足が止まった。黄昏帯の荒野。見上げると、星が出ていた。北辰の冠。ヒカルがセレナに教わった星座。レインが「三歳児の落書き」と評した、あの不格好な星座図。


 ——帰りたい。


 不意に、蒼馬の感情が噴出した。星空。屋上。流星群を見た夜。友人の笑い声。缶コーヒーの温度。


 レインは舌打ちして、歩き出した。


 帰る場所はない。ここが今の場所だ。


 だが——六百年前にも、同じ場所で同じ星を見た二人がいたのかもしれない。水と油の二人が。光と闇の二人が。


 レインは影走を発動し、夜城へ向かった。




 廃塔の地下室では、老イリスが茶碗を両手で包んでいた。焚き火の残り火が、金色の右目と赤い左目を照らしている。


 しわだらけの唇が、小さく動いた。


「——似てるよ。あの子に」


 誰に向けた言葉かは、イリス自身にもわからなかった。

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